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光のもとでⅠ 最終章 恋のあとさき  作者: 葉野りるは
本編
34/117

34話

 待ち合わせ場所に着くと、十メートルほど先から息を切らした蒼兄が走ってくる。

「うっわ……スライドでかっ」

 唯兄は驚きに一歩後ずさった。

「久しぶりに本気で走ったっ」

 蒼兄は息が上がっているものの、とても気持ち良さそう。

 こんなふうに無邪気に笑う蒼兄を見たのはどのくらい久しぶりだろう。

 最近は心配をかけてばかりで、屈託なく笑う姿は見ていなかった気がする。

「で? あんちゃんどのくらい走ったの?」

「十キロには及ばず。……九キロ弱くらい?」

「ぐはっ……御園生唯芹はあんちゃんを超人と認識しました」

「毎朝十キロ走るのは中学のときの習慣だから別になんともないけど……唯も走ってみるか?」

 唯兄はブンブンと首を振る。

「全力で遠慮させていただきますっ。一メートルたりとも走りたくございませんっ」

 笑いの混じる会話はそこで終わった。

 まだ外灯の灯るジョギングコースを、三人手をつないで歩く。

 珍しく、会話という会話がない。夏のように鳥のさえずりが聞こえるでもなく、その場には、私たちが吐き出した息が白く立ち上るのみ。

 質問責めにされるよりは楽なはずなのに、どうしてかとても居心地が悪い。空気が重くて、痛い……。

 歩みを進めると、しだいに蒼兄の息は整いだす。そして、

「翠葉。さっきも言ったけど、別に上手になんて話さなくていいよ? 聞く時間はたくさんあるから」

 話題にされたくはないのに、誰かが声を発することにほっとする。

 ゆっくり優しく話しかけられると、こんなにもほっとするのかと思うほどに。

 冷たい空気で満たされた肺から細く長く息を吐き出し、あらかじめ用意しておいた答えを口にした。

「……私の行動や言動で、友達に嫌な思いさせちゃったの。……佐野くんと桃華さんと香乃子ちゃん――言葉にして教えてくれたのは三人だけど、もっとたくさんの人に嫌な思いをさせてるんだと思う。でも、どうしても身動きが取れなくて……」

「……概要だけ? 肝心の内容は話してくれないの?」

 唯兄の問いかけに口を噤む。

 唯兄と蒼兄は、携帯事件のことも記憶のことも、私の気持ちも何もかも知っている。だから話しても大丈夫。

 そうは思っても口が開かない。

「今抱えてるものが原因で胃に負担かかってんじゃないの?」

 唯兄は畳み掛けるように訊いてくる。

「話して楽になるなら話せばいいのに。これで不整脈まで出てきたら目も当てらんないよ?」

「唯、ストップ。それじゃ翠葉が話せない」

「でもっ……」

 もしかしたら、唯兄も佐野くんと同じように思っているのかもしれない。

 そう思うと怖くなる。唯兄も離れていってしまうのではないか、といてもたってもいられなくなる。

 新たに生まれた不安に心が呑まれ、目に涙が滲み出す。

 泣かない、泣かない泣かない泣かない――でも、怖い。

「翠葉……話そうとしてもっと苦しくなるなら言わなくていい。話したら楽になるとは限らないから、話せるようになったらでもかまわないよ。ただ、苦しくてどうにもならないとき、絶対そこに俺たちはいるから」

 優しい言葉に反応して、涙腺がさらに緩む。

「蒼兄……私、そういう優しさに甘えて、甘えすぎて……友達なくしちゃったかもしれない」

 ぎゅっと目を瞑る。

 頬に涙の筋ができるのが嫌で、涙の跡がつかないように真下を向いて目を瞑った。

 今ある涙をすべて足元のコンクリートに落としてしまうために。

「……翠葉。桃華と佐野くんから伝言がある」

「っ……!?」

 桃華さんと佐野くん、から……?

「何を」と訊きたくて訊けない。まるで何かが喉に詰まってしまったみたい。

「翠葉があまりにも落ち込んでるようだったら伝えてくれって言われてた」

 蒼兄に言付けられたものは――。


 ――「私たちは友達だから、たまにきついことを言うかもしれない。でも、それで友達をやめるとか離れるとか、そういうことは考えてない。佐野も同じ。私も佐野も、どうでもいい人間が相手なら何も言わずに離れてる」。


 嬉しくて――けれど、あまりにも自分が情けなさすぎて素直に喜べない。

 涙だけがすんなり出てしまいそうで、必死にそれを押し留めていた。

 寒さから身体中の筋肉が硬直し始めていたけれど、それとは別。

 涙を堪えるというのはひどく筋肉を使うらしい。

 顔中の筋肉に力が入り、しだいに唇が震え始める。

 首筋にも突っ張るような感覚があった。

「リィ、顔上げてごらん」

 ガチガチに固まっている上半身で、否定の意味を表すように身体を揺らす。

「いいから、あーげーるーっ」

 唯兄はつないでいた手を離し、頭を挟むように両手で押さえると、下を向いていた顔を力ずくで上げた。

「見えた? 朝陽だよ」

 目の前に、昇ってきたばかりの真っ赤な太陽が滲んで見えた。

 太陽と目の間には涙というレンズがあって、光の強さもぼやけ具合も殺人的。

 蒼兄が、「きれいだな」と頭に手を置き、唯兄は手をつなぎなおす。

「リィ、ごめん……。なんか最近のリィは危なっかしすぎて見てらんなかったんだ。でも、それでこんなふうに訊くんじゃもっと困らせちゃうよね」

「そんなこと――」

 ない、と続けたくても続けられない。

「家族の前でくらい、もっと肩の力抜いていいんじゃない?」

 蒼兄の手が両肩に移り、マフラーの上から強すぎない力で肩や首を揉みほぐされる。

 ベンチに座り、徐々に上がっていく太陽を見ていた。

 気づけば外灯は消えていて、ところどころから鳥のさえずりも聞こえてくる。

 私たちの間に会話はなかったけれど、さっきのような居心地の悪さは感じなかった。


 静かな公園に、携帯の呼び出し音が鳴り響く。

 発信源は私のポケット。曲がムーンリバーということは、家族か栞さん。

 ポケットから携帯を取り出したものの、手袋をしている手では通話ボタンを押すことはできなかった。

 それを見かねた蒼兄が、代わりに電話に出てくれる。

「もしもし」

 出た途端に蒼兄が携帯を耳から離した。

 携帯からは、

『なんで蒼樹が出るの!? 翠葉は!?』

 切羽詰った声が辺りに響く。

「お、お母さんっ。私、ここにいるっ。蒼兄たちと一緒にいるっ。手袋してたから通話ボタンが押せなくて、蒼兄が出てくれただけっ」

『唯も一緒っ?』

「い、一緒っす。あのですね、今、ものすっごい朝陽がキレイなんですよ」

 焦りつつも場を和ませようとした唯兄の言葉に返ってきたのは――。

『出かけるなら出かけるで置き手紙くらいしていきなさいっ』

 一際大きな怒声だった。

「「「ごめんなさい」」」

『もうっ……三人一緒にいるならいいわ。でも、寒いから早く帰ってらっしゃい。みんなでホットケーキ作るんでしょ?』

「……だって。俺も寒くなってきたし、そろそろ帰ろっか」

 蒼兄の言葉に頷いた。


 帰り道、唯兄が嬉しそうに話す。「怒られちゃったね」と。

「怒られたのに……嬉しいの?」

「俺、実の両親にも学校のセンセたちにもあんま怒られたことないからね。ほら、手のかからない優等生だったから」

 何も言えなくなったのは私。すぐに言葉を返したのは蒼兄。

「頭はいいんだろうけど、俺から見たらそんないい子には見えないけどな? だって、ハッカーやってて秋斗先輩に捕まったんだろ? 今じゃ悪さはしてないんだろうけど、それでもいたずらっ子にしか見えないって」

「あんちゃん、言ってくれるねぃ。でも、その通りかな? 俺、ハッカーってよりは性質の悪いクラッカーだったし。親やセンセ達が思ってるようなイイコじゃなかったよ」

 相変わらず三人並んで歩いていて、私を真ん中に両端でされる会話。

 言葉は私の前をよぎっていくのに私は会話に混ざれない。

「リーィ? ここは暗くなるところじゃないでしょ?」

「そうそう。唯は怒られて喜んでる奇特な人間なわけだし」

「でも……」

「心配されて叱られるのってさ、幸せなことだと思うよ。親の愛情を確認したくてわざとそういう問題行動をとる子どもがいるっていうけど、それ……わからなくないかなって思った。俺は今幸せ。過去が不幸だったとは思ってないけど、今、幸せなんだ。……幸せ、なんだよ」

 唯兄は、「幸せ」と繰り返し口にした。

 本当にそう思っているのかもしれないけれど、繰り返し言われるとどうしてか呪文に思えて、自分に暗示をかけてるのではないか、と考えてしまう。

 唯兄の表情をうかがい見ると、「お見通し」と言わんばかりに口端を上げて笑っていた。

「願わくば、兄妹喧嘩とかしたいかも? リィともあんちゃんともね。くっだらないケンカして仲直りすんの。それが今の俺の夢」

 ずいぶんと珍妙な夢を聞かされた気分だ。

「待ってるからね? リィが目ぇ吊り上げて俺に文句言ってくる日を」

「あ……それ、俺も便乗したい」

 蒼兄が空いている左手を上げ真顔で言う。

 右左――兄ふたりの顔を交互に見ると、唯兄も蒼兄もにこりと笑った。

「大丈夫だよ」のメッセージがこめられた笑顔。

「思ってること、もっと口にしなよ。少なくとも、俺とあんちゃんは言われて困るなんてことないと思うよ?」

「そうそう。相手を傷つけようがケンカしようが、どんなことがあっても家族であることには変わらないし」

「切ろうと思ってもそうそう切れないもの。それが家族でしょ?」

 またしても両の手に力をこめられる。

「……大、好き……。唯兄も蒼兄も……大好きっ」

 ふたりにされているように、私も自分の手に力をこめた。


 家に帰るとお母さんは洋服に着替えていて、お父さんは起きたばかりらしくパジャマのままだった。

「なんだー? こんな朝早くから三人で……。蒼樹はランニングだよな? 唯と翠葉は?」

 私と唯兄は顔を見合わせてにこりと笑う。

 揃って「お散歩」と答えると、「置いていかれた……」とお父さんが肩を落とした。

 そんなお父さんを見ながらお母さんが、

「まったく、面倒な人ね……」

 言いながら苦笑する。

「子どもみたいなお父さんなんだから、今度からは早かろうがなんだろうが声かけてあげなさい」

 その言葉に、

「朝五時でも?」

 唯兄が訊くと、お父さんもお母さんも唖然とする。

 こめかみを押さえたお母さんが、

「そう、朝五時でも零なら喜ぶわ。……でも、私は遠慮するわね」

 お父さんはにこりと笑む。

「だって、冬のさっむい朝に家族で散歩なんてしてる家、なかなかないだろ? そういうの、なんかいいじゃん。仲良し家族っぽくて。碧さんも一緒に行こうよ」

「やぁよ……こんな寒い中。夏の早朝散歩なら付き合うけど」

 お父さんとお母さんの会話に唯兄が破顔した。

「変な家族だとは思ってたけど、本当に変っ! でも、早朝散歩なんかしなくったって仲良し家族じゃん。こんなふうに子どもたちに混じりたいって本気で拗ねるお父さんが世にどのくらいいると思う?」

 どうしてかわからないけど、唯兄はずっと笑っていた。笑って笑って笑い転げていた。

 お腹が痛くなってもまだ笑っていて、心から唯兄が幸せを感じているのだと思えた。


 家族五人揃ってゆっくりとした朝食を過ごすのは初めてのこと。

 なんだかんだと二時間近くをダイニングで過ごした。

 そのあと、唯兄は仕事で部屋に篭り、蒼兄は支度が済むと大学へ。

 お父さんも三階の仕事部屋で調べ物をしていて、お母さんはお昼ご飯の支度をしている。

 私は一度自室へ戻り、自分の趣味といえるものを紙に書き出していた。

「植物と戯れるのは無理ね……」

 部屋を見回しても、あるべきところにアンスリウムとベンジャミンはいない。

 今、あの子たちはマンションで高崎さんの管理下にある。

 ここにあってゲストルームにないものは――ピアノ。

 ゲストルームにもピアノはあるけれど、シュベスターではない。

 階段を上がり、広めの踊り場に置かれているピアノの蓋を開ける。

「久しぶり……。夏、以来だね」

 あのときはひどい弾き方をしてごめんね。でも、今も変わらないかも……。

 怒りや不満といった感情ではないけれど、つらくなると、苦しくなるとピアノが弾きたくなる。

 ハープより付き合いが長いこともあって、より自由に自分を表現できるこの子を弾きたくなる。

 弾き慣れた軽めの鍵盤を何度となく沈めては音を鳴らした。けれど、どうしても感情を逃すことはできなかった。

 意識して短調や暗い曲を選んで弾いても自分の感情を旋律に乗せることができない。

 かといって、明るい曲調や好きな曲は最後まで弾き切ることができない。

 心の拠り所とも言えるピアノを弾いているのに、ピアノと一緒になれない。集中すらできない――。

 こんなときに弾けるのはハノンくらいなものだろう。

 単調なフレーズを延々と繰り返す。繰り返し弾いては転調させほかの調で弾く。

 ぼーっと……時間の経過も気にせず、指が動く限り、痛みに耐えられる限り弾き続けた。

 翌日の日曜日になると、家族に止められた。

 機械的とも言えるフレーズを延々スケールで弾かれると、一定時間なら耐えられるけど、それ以上聴いていると頭がおかしくなりそうだ、と――。

 ものすごく控え目に「やめてください」とお願いされ、ピアノを弾くのは時間を決めてすることにした。

 何よりも、弾いていて自分が楽しくなかった。

 大好きな趣味なら楽しいはずなのに……。

 楽しくないならやっても意味はない。

「練習」という目的なら毎日弾くことに意味はあるけれど、「ストレス発散」という目的なら意味を成さない気がする。

「石鹸、作ろうかな。あとは……お散歩」

 石鹸作りをしたあとは大好きな写真集を見る。カメラを持って裏の公園へお散歩に行く。夜には大好きなオルゴールのCDを聴きながら詩集を読んだり、小さい頃に好きだった絵本を読んだ。

 けれど、何をしても気持ちが満ちることも、スッキリすることもなかった。

 ここに戻ってきたらもとの自分に戻れると思っていたけれど、実際はもっとわからなくなってしまった。

 好きなはずのものに自分が反応できていない。気持ちが浮上しない。

 目に見えるすべてのものが、手に触れるすべてのものが、灰色のフィルターに呑まれてしまった気がした。

「や、だ……灰色の世界は、い、や――」

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