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光のもとでⅠ 最終章 恋のあとさき  作者: 葉野りるは
本編
32/117

32話

 九階の天井を見ながら廊下を歩く。

 果歩さん、退院できたかな……。

 いつもなら午前中に届くメールが今日は届かなかった。気にはなっているけど確認はしていない。

 エレベーターに乗り十階のボタンを見たけれど、私の指は迷わず「1」のボタンを押した。

 会計を済ませ携帯使用可能ゾーンへと移動し、蒼兄に連絡を入れる。

 帰りは学校帰りの蒼兄が迎えに来てくれることになっていたから。

 電話がつながると、すでに駐車場にいるとのことだった。

『車、正面玄関に回すからそこで待ってて』

「うん」

 携帯を切ると一件のメールを受信する。それは、三十分ほど前に果歩さんから送られてきたものだった。



件名 :果歩でーすっ!

本文 :治療、今終わったくらいかな?

    もし良かったら、

    愚痴話に付き合ってくれない?

    年内には退院できる予定なんだけど、

    まだココにいるんだ。



 タイミングがいいのか悪いのか……。

 もし九階でメールチェックをしていたら、私は十階へ行っただろうか。

 自分に問い、緩くかぶりを振る。

 ううん、行ってない――行けない。

 果歩さんの真っ直ぐな目に見られるのが怖いから。

 ツカサのそれとは違うけれど、あの真っ直ぐで強い眼差しを向けられたら、私は目を逸らしてしまう気がする。

 果歩さんに対して後ろめたいことがあるわけではない。でも今は――誰が相手でも目を合わせるのが怖い……。

 人前でどんなふうに振舞ったらいいのかがわからない。どんな自分が「自然」だったのかが思い出せない。

 どうしたら人を傷つけないでいられるのか、どうしたらずるくない人になれるのか。どうしたら何もかもがもとどおりになるのか。

 そもそも、私が望む「もとどおり」とはどういう形をしていたのか――。

 完全に自分を見失っている状況で、人と言葉や視線を交わすことが怖かった。


 正面玄関を出ると冷たい風に頬を叩かれ、髪は縦横無尽に舞い上がる。

 日中よりも風が強い。空はどんよりと曇り、今にも雨が降りだしそう。

「朝はいい天気だったのに……」

 蒼兄の運転する車が私よりも数メートル先で停車した。

 足早に駆け寄り、内側から開けられた助手席にすばやく乗り込む。

 車の中は程よくあたたまっていて、冷たくなった頬をふわりと優しく包まれた気がした。

「おかえり」

「ただいま。……空、真っ暗だね」

「あぁ、これは降ってくるだろうな。……何かあったのか?」

「え……?」

 蒼兄は空を指差しながら、

「翠葉の表情もこの空みたい」

 何も答えられないでいると、後ろの車にクラクションを鳴らされ心臓が止まるかと思った。

 蒼兄は慌てて車を発進させた。

 事前清算を済ませた駐車券を黄色い清算機に通すと、赤と白のバーが上がる。

 カチカチと方向指示器の音が鳴り、車が曲がるときの遠心力でほんの少し身体が右に振られた。

 一般道に出て走行が安定すると、

「で? 何かあった?」

 改めて訊かれる。

「……涼先生に捕まっただけ」

「え?」

「……九階に行ったらいらしたの」

「そっかそっか。……でも、『捕まった』って表現はちょっと……」

 苦笑しながら指摘されたけれど、何度考えてもほかの言葉は見つかりそうにない。

「本当に捕まったんだもの……。右手、掴まれたまま問診受けたんだよ?」

 そのときのことを詳しく話すと、蒼兄はクスクスと笑いだす。

「涼先生、間違いなく司のお父さんだな」

「うん……」

「で? その憂鬱そうな顔は胃カメラの予約でも入れられた?」

「うん……」

「年内?」

「ううん、そこは譲歩してもらって年明け早々」

「翠葉は嫌かもしれないけど、俺らはそのほうが安心かな」

 会話が一段落したとき、パタパタ、とフロントガラスに水滴が張り付いた。

 撥水加工の効果で、雨は垂れることなくまん丸の雫を維持している。

 それらは走行風に従い、次々と上方へ移動した。

「降ってきちゃったな」

「ん……明日も雨なのかな」

「……家に帰ったら天気予報を確認しよう」

 家――。

 今の言葉が指す家はマンションのゲストルーム。

「蒼兄……幸倉に帰るのは今日? それとも、明日?」

 今日でも明日でも大きな差はない。でも、できることなら早くおうちに帰りたかった。

「……幸倉が恋しい?」

 私は手元を見たまま小さく頷く。

「……じゃ、家に帰ったら用意して、夕飯食べたらみんなで帰ろう」

「本当?」

 蒼兄がにこりと笑ってくれた。

「もし、唯や母さんが帰る用意に時間がかかるって言うんだったら、俺と翠葉が先に帰るんでも問題ないし」

「……ありがとう」

「そんなに気にすることじゃないよ」

 蒼兄の左手が頭にポンと乗った。


 お母さんの今年の仕事はパレス一本。つまり、最終確認が終わった今はとくに仕事がない状況。

 お父さんはパレスのほか、来年手がける仕事の準備で朝から夕方までは幸倉で仕事をしている。

 夕飯の時間になるとマンションに来て、夕飯を食べるとまた幸倉へ帰る。

 家族が帰る場所、休む場所が別々の生活を続けていた。

 私の学校が休みに入れば生活の基盤は幸倉へ戻り、そんな生活をしなくてもすむ。

 それに、幸倉へ帰れば、長いことしていなかった趣味のひとつひとつを再開できる気がした。

 大好きなことをして過ごせば、自分らしさを取り戻せる気がした。


 ゲストルームに帰ると、迎え出てくれたお母さんに今日幸倉へ帰れるかを尋ねる。と、

「別にいいわよ? じゃ、夕飯食べたら帰る用意しなくちゃね」

 何を訊かれるでもなく、すんなりと了承してもらえた。

 蒼兄とお母さんに何も言われなくてほっとしていたら、思わぬところから痛い質問を投げられる。

「今夜帰るも明日の午前に帰るも大差なくない? なら、ゆっくり準備できるから明日にすれば?」

 キッチンから顔を出した唯兄だ。

 唯兄の提案がもっともすぎて、反論や説得のひとつも出てこない。

 すると、ダイニングからお父さんの声が挙がった。

「唯ー? 差ならあるぞー? おっきな差が」

「たとえば?」

「明日、父さんが起きたら幸倉の家には家族がいるっ。したがって、寒い朝にひとりでご飯を食べずにすむ。これは大きな変化だ」

 うむ、と腕を組み真顔で主張し、そのあとはひとり頭に花を咲かせたように話を続けた。

「よぉーしっ! 明日の朝はホットプレート出してみんなでホットケーキを焼こう! で、昼はお好み焼きだっ! 碧さん、帰りにスーパーで材料買って帰ろう!」

 話の主導権がお父さんに移り、私はそっとダイニングを出て洗面所へ向った。

 大きな鏡に情けない顔をした自分が映る。

 こんな顔をしていたら心配をかける――理由を訊かれる。

 奥歯に力をこめ、唾と一緒に涙もため息も何もかも全部一緒くたに飲みこんだ。

 飲み込めたところで消化できるかは不明。でも、これ以上情けない顔になるよりは断然いい。

 そんな私の隣に蒼兄が並び、水道のコックを捻った。

「ほら、手洗ってうがいして」

「ん……」

 あたたかいお湯に触れたら、飲み込んだものが再度溢れてきた。

 石鹸を泡立てる手をじっと見ながら必死に堪えていると、頭を二回叩かれる。

「大丈夫」のおまじない。

 弾みで涙が二粒落ちた。でも、お湯に紛れて一瞬で消えた。

 言葉がなくても優しい空気に包まれているのがわかる。

 今、隣にいるのが蒼兄で良かった。

 安心したはずなのになんとも言えない苦いものが心にあって、胃が……きゅ、と音を立てた。


 夕飯が食べ終わると各々幸倉に帰る準備をし始めた。けれど、私の用意はすぐに終わってしまう。

 本来の家に帰るのだから、持ってきたものすべてを持って帰る必要はない。

 教材と楽譜、あとは毎日使う身の回りの細々したものだけ。

 一方、レポートや仕事の資料を持ち帰らなくてはいけない蒼兄と唯兄のほうが大変そうだ。

 様子を見に行ってみると、蒼兄が資料や書類などの振り分けをしていて、唯兄は洋服をボストンバックに詰めているところだった。

「あ……そっか。唯兄の洋服、冬服は幸倉にないものね?」

「そうそう。ホテルからこっちには持ってきたけど、幸倉には夏服がちょろっと置いてある程度だからさ。あ、あんちゃん、そこの赤いファイルも入れといて」

「っていうか、ここに積んであるの全部だろ?」

「うん。よろしく」

 部屋にはすでに三つのダンボールが陣取っていた。


 九時になるとみんなの用意が整い、お母さんがコンシェルジュへ連絡すると、高崎さんがカートを持って来てくれた。

 家族揃って一階へ下りると、ロータリーにお父さんと蒼兄の車が横付けされていた。さらには、美波さんと拓斗くんが見送りに出てきてくれている。

「んもう、急に幸倉に帰るとか言うんだからっ」

 美波さんはどこか拗ねた感じだ。

「だって、翠葉が帰りたいって言うんだもの。それに、明日には帰るって話してたでしょう?」

 おどけた調子で返すのはお母さん。それでも、美波さんはまだ頬を膨らませている。

「私のサプライズプランが台無しですっ! 明日、帰る前に翠葉ちゃんと碧さんにネイル施術しようと思ってたのにっ」

「え?」

 急に自分の名前が出てびっくりした。

「ちょっと早いけど、クリスマスプレゼントにネイルしようと思ってたんですよ!?」

「あら、それはもったいないことしたわ……。美波ちゃん、月曜日の予定は?」

「え? 空いてますけど……」

「じゃぁ、月曜日にお邪魔するわ。月曜日は翠葉の病院だから」

 ふたりの会話を聞いていると、拓斗くんがちょこちょこっと走り寄ってくる。

「月曜日、会える?」

 一言一言区切った話し方がとてもかわいくて笑みが漏れる。

「うん。お母さんが寄るって言ってるから、きっと来るよ」

「約束っ」

 小指を目の前に出され、私は拓斗くんの前に座って小指を絡めた。

「うん、約束ね」

 にこりと笑う顔がとても無垢に思えて、その純粋さが羨ましくなった。

 拓斗くんにだって悩みはあるだろう。でも、今の私ほどではないはずと思ってしまう。

 人の悩みの重さが自分にわかるはずはないのに。

 年齢なんて関係ない。抱えてる問題の大きさは抱えてる人にしかわかりようがないのに――。


 お父さんたちはスーパーで買出しをして帰ることになり、私たちは真っ直ぐ家に帰ることになった。

 帰宅したのは十時前。

 学校から帰ってきてからお風呂に入っていたこともあり、心身共に疲れきっていた私は、お父さんとお母さんが帰ってくるのを待つことなく、洗面だけ済ませて先に休んだ。

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