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光のもとでⅠ 最終章 恋のあとさき  作者: 葉野りるは
本編
31/117

31話

 高等部門前でバスを降り、足取り重いままにマンションまでの道のりを歩いた。

 マンションに着くと、エントランスにいた高崎さんが血相を変えて走ってくる。

「翠葉ちゃん大丈夫っ!?」

「え……?」

「顔色ものすごく悪いけど……」

「あ……少し冷えたんだと思います」

「……そう?」

「はい。なので……大丈夫です」

 笑みを添え、会釈してエントランスを通過した。

 エレベーターホールまで歩く間に思う。

 高崎さんに指摘されたということは、間違いなく唯兄やお母さんたちにも言われるだろう。

 顔色が悪いのは珍しいことではない。でも、それをあえて指摘されるほどに悪いのだとしたら――。

「なんて言おう……」

「なんでもない」が通用する家族ではない。「冷えただけ」という言葉は通用するだろうか。

 手袋をした手を鳩尾のあたりに添える。

 お腹なのか胃なのかよくわからない。腹部全体が痛い気もする。でも際立って痛いのは右側のような気がしなくもない。

 冷えたのだとしたら、このあと戻すことになりそうだ。でも、戻したら問答無用で胃カメラを飲むことになる。

「どうしよう……」

 お風呂、かな? できる限り身体をあたためたら回避できるだろうか。

 あれこれ悩む間もなく、エレベーターは九階に着いてしまった。

 玄関のドアを開けると唯兄とお母さんに迎えられ、「ただいま」を言う前に顔色の悪さを指摘された。

「えと、まずはただいま」

「はい、おかえり。で?」

 すかさず唯兄に話をもとに戻される。

「冷えただけだから……。初等部に行って動物を見ていたら冷えちゃったの」

「……それだけ?」

「それだけ。……あ、秋斗さんにも会ったよ」

 情報源は唯兄だと言っていた。なら、ここで何も言わないほうが不自然かもしれない。

 そう思って私から話したけれど、意外だったのか、唯兄は口を噤んだ。

「お母さん。お風呂に入ってもいい?」

「大丈夫なの?」

「うん……お湯に浸かってあたたまりたい。このままだとなんだか戻しちゃいそうで……」

「吐き気がするの?」

「今は痛いだけだけど……」

「そうね……冷えると翠葉は戻すものね。すぐに用意するわ」

 お母さんは踵を返して洗面所に消える。

「熱はない?」

 唯兄におでこをこっつんこされる。

「……っていうか、リィ……。おでこまで冷たいよっ!?」

 言われた直後、唯兄の手が伸びてきて、頬や額を手であたためてくれた。

「あったかい……」

「あ……手はあたたかいけど心もあたたかいのでご心配なく」

 思わず笑みが漏れる。

「誰も手があたたかい人は心が冷たいなんて思ってないよ」

「逆はよく聞くじゃん」

 その手にずっと触れていたかったけれど、お母さんから声がかかった。

「あと二分もすれば溜まるわ」

「ありがとう」

 自室にかばんを置くとマフラーを取り、コートを脱ぐ。制服は着替えず、着替えを持って洗面所へ向かった。始終べったりと私にくっついていた唯兄が、

「お昼ご飯食べれそう?」

「うん、少しくらいなら。お昼、何?」

「長ネギときのこたっぷりの鶏ガラベースのおうどん」

「美味しそうだね」

 そんな会話をして洗面所のドアを閉めた。


 のろのろと制服を脱ぎ、バスルームに入る。

 気持ち的にはすぐバスタブに浸かってしまいたかったのだけど、低温火傷が怖くて仕方なく順序を踏む。

 シャワーで三十四度くらいのお湯から徐々に身体の末端を温め、身体全体が四十度のお湯に慣れたところでバスタブに浸かった。

 髪の毛や身体を洗うのは後回し。何よりも先に身体を温めたかった。

 身体の痛みよりも腹部の痛みのほうが強いことが気になって。

「やだなぁ……」

 戻したくない。

 こみ上げるような吐き気はない。けれど、刺すような痛みがいつ吐き気に転じるかは時間の問題のような気がする。

 いつもは四十度のお湯に浸かることしかしないけれど、どうにかして身体を温めたくて、四十五度のお湯をすぐに注ぎ足し始めた。

 ジリジリと温度の上がるお湯の中で肌が赤くなっていく。

「……このくらいが限界かな?」

 もう少し、もう少し……と思いながらお湯を足していたけれど、身体が耐えうる温度的にも、バスタブいっぱいになってしまった水量的にも、このあたりが限界。

 半身浴ではないから長くは浸かっていられない。心臓に負担がかかる前には上がらなくては……。

 五分ほど浸かったところで一端バスタブを出て髪の毛や身体を洗う。そして、最後にもう一度バスタブに浸かった。

 今度は三分と経たないうちに出る。

 シャワーで手先足先に冷水を浴びせ、抹消血管を引き締めてからバスルームを出た。

 身体はあたたまったというのに、腹部の痛みは依然消えぬまま。

「どうしよう……ご飯、食べられるかな?」

 不安に思いつつ、洗面所を出る。

 自室で化粧水をつけていると、唯兄が来て髪の毛が濡れたままダイニングに連行された。

「こっちの部屋の方があったかいでしょ?」

 確かに、暖房を入れてない自室よりもあたたかかった。

「リィはそれを食べる。俺は髪を乾かすっ!」

「ありがとう……」

 この流れはお決まりのパターンになってきていた。

 ローテーブルにはすでにスープボールが置かれている。

 なぜスープボールかというと、丼だと私が器負けしてしまうから。

 だから丼よりも二回りほど小さなスープボールによそってくれていた。

 お箸でおうどんを一本つかんで口に運ぶ。ちゅるちゅる、とすするのが苦手でも、一本だとどうにかすすることができる。

 食べたものが胃に到達したときにくる衝撃を恐れながら嚥下すると、予想していた痛みはこなかった。

「あ、れ……?」

 後ろでゴォォォォとドライヤーをかけている唯兄が、

「どうかした?」

 私の顔を覗き込む。

「ものが落ちても胃が痛くなくて……」

「は……? 何それ?」

「……最近、何を食べても胃にものが落ちたときの衝撃が苦痛だったのだけど、それがなくてびっくりした」

「ちょっとっ、そんなにひどかったのっ!?」

 ものすごい勢いで唯兄に詰め寄られた。

「で、でもっ、今、大丈夫だったからっ」

 そう言って二本目を飲み下しても、やっぱりひどく痛むことはない。

「大丈夫かも……?」

 まだ食欲はないけれど、これなら大丈夫かもしれない……。そう思えた。

 お母さんは私の隣で一緒に食べていて、私と唯兄のやりとりをじっと見ていた。

 私と同じように一本のおうどんをちゅるちゅる、とすすり、口の中に物がなくなると口を開いた。

「……胃にものが落ちてきて痛いっていうのは経験あるわ。でも、それがなくなったなら少しは快方に向ってるのかもね」

 その言葉に笑顔を添えられ、私は少しほっとした。


 いつもよりも早い時間、三時に病院へ行くと、九階のナースセンターには相馬先生と涼先生がいらした。

 思わずカウンター手前で足が止まってしまった私に涼先生がにこりと笑む。

「傷付きますね。そんなに警戒なさらないでください」

「は、はい……」

「私のところへ来ないということは、戻してはいないようですが……」

 顎に長い指を添え穏やかな表情で、しかし残念そうに話す。

「あ、あの……最近はご飯を食べてもあまり胃が痛まないし、治ってきているのだと思いますっ」

 必死に伝えると、

「御園生さん、そういうことは安易に考えないほうがいいと思いますよ」

 涼先生は話ながら私との距離を詰める。私は、後ずさりをすることで距離を保っていた。

 それを見ていた相馬先生に、

「おい、スイハ……。それじゃ診れねーだろーが……」

 呆れたふうに突っ込まれた。

「だって、戻してませんっ。だから消化器内科にはかからなくてもいいんですよね!?」

 決して歩くのをやめようとはしない涼先生に抗議しながら逃げる。

「診察ではなく挨拶ですよ」

 涼先生はにこりと笑って足を止めた。そして右手を差し出される。

「挨拶……ですか?」

「そうです。挨拶です」

「……挨拶に握手、ですか?」

「はい。挨拶に握手はおかしいですか?」

「挨拶」と「握手」。漢字を頭に浮かべてみたらさほど不釣合いな組み合わせではなかった。

 でも、何か引っかかるのはどうしてだろう。

 それを考えているうちに自分の右手を取られた。

 ぎゅっとあたたかな手に握られる。

「冷たい手ですね」

「冷え性なんです……。でも、来る前にはお風呂であたたまってきたんですけど……」

「それはいい心がけですね。あたたまることで胃は楽になりましたか?」

「はい」

 多少ですけれども……。

「そのあとに昼食を摂られたのでしょうか」

「はい」

「で、食べたあとには痛みがひどくなることはなかったのですね?」

「え? はい……どちらかというと、少し楽になったような気がします」

「……そうですか」

 問診のような会話、もとい挨拶が続く。

「先生……手はまだこのままですか?」

「えぇ。どうやら、私は御園生さんにとって大敵の医師になってしまったようですので、こうやって捕まえておかなければ問診もできませんからね」

 にこりと笑った笑顔はツカサそのもので、何度となく見てきた氷の女王スマイルだった。

 これは挨拶の握手ではなく、最初から捕獲のための動作だったのだ。

「涼先生は……ツカサのお父さんですね」

「えぇ、間違いなく司は私の愚息ですが……?」

「……そっくりです」

 顔も性格も何もかも……。

 多少の嫌みをこめて言ったのに、平然と「ありがとうございます」と言われてしまった。

 一連の会話を聞いていた相馬先生が、カウンターの中でひとり楽しそうに笑っていた。

 そのあと、私は簡単な問診と触診をされてから解放された。


 相馬先生の治療が終わると、冬休みの通院予定を決めるためにナースセンターに戻った。

「来週の月曜、二十日は俺のほうの治療を入れておく。通常次は水曜だが、おまえ幸倉に戻るんだろ?」

「はい。今日の夜か明日には……」

「だとしたら、月曜に来て水曜に来て翌日木曜日がパレスへの移動日っつーのはキツイな。――水曜日はいい。木曜日にパレスで昇に治療してもらえ」

「え? でも――」

「そのくらい問題ねーよ。麻酔薬は余分に持たせておくから痛みが出たらすぐに施術してもらえ」

 そのほうが私の身体は楽だし家族も楽だろう。でも、せっかくのお祝いの場で治療というのは、どうにも申し訳なさが先に立つ。

「あんなぁ……スイハはこれからも藤宮に関わっていくんだろ? だったらこれくらいやらせとけや。じゃねーと気苦労のもとが取れねーだろーが……」

「…………」

「黙んな……」

 デコピンを食らった額をさすりながら、

「関わると決めたのは私だもの。だから気苦労とかそういうのはないのに……」

「今は、だ。この先、おまえの立場を利用しようとする人間はごまんと出てくるし、それらの中に有する危険因子から身を守るために警護までつけられてんだろ?」

 先生が言うことは間違っていない。実際、そのとおりなのだろう。

 でも、言葉にされるのは耐え難いくらいに嫌だった。

「そんなのどうでもいいっ。ただ、私が関わっていたいだけっ。離れたくないだけでっ……」

「……スイハ?」

 涙が零れそうでぎゅっと目を瞑る。

「みんな、どうしてそいうこと言うんですかっ!? 藤宮とか利用とか護衛とかっ。そんなのっ、そんなのどうでもいいのにっ。私はただっっっ――」

 ポスン。

 何が起こったのかわからなくて、咄嗟に目を開けたら真っ暗だった。……というよりは、相馬先生に抱きすくめられていた。

 ポンポン――。

 先生は私の背を優しく叩いてくれる。

「悪ぃ……。ま、落ち着けや。ほれ、身体の力抜いて……」

 言われるまで気づかなかった。

 親指を中に入れて握り締めていた手は、力を緩めることが困難な状態だった。

 足の膝にもお腹のあたりにも力が入っていて、何よりも顔――顔の筋肉が強張り、顎に力が入って歯がギリギリと音を立てていた。

 先生は私が冷静になったのを察すると身体を離し、まずは手の拳を指一本ずつ剥がしてくれた。次に肩の辺りから解すように全身の力を抜いてくれる。

「おまえ、ストレス発散できてっか?」

「……ストレス、発散?」

「ストレスの脈がずっとマックスってーのはよくねぇよ。ちょっとしたことですぐ身体に余計な力が入るしな」

 ストレスの発散……って――どうやってするんだっけ……。

 虚を衝かれ、必死で頭を働かせようと思っても何も思い浮かばなかった。

「スイハの趣味はなんだ?」

「……ピアノ、ハープ、石鹸作り、森林浴、お散歩、読書――」

 並べていくと、

「それを最近やってるか? 最後にやったのはいつだ?」

「え……?」

「ピアノを最後に弾いたのはいつだ?」

 咄嗟に答えられなかった。ハープの調弦なら割とこまめにしているけれど、曲を弾いたり練習しているわけではない。

「そのくらい長く触れてないんじゃないか? 石鹸は?」

「高校に入学してからは一度も作っていません……」

「……森林浴は?」

「……先日、秋斗さんとツカサと一緒に――」

「それじゃストレス発散にはならねーな」

 却下、とでも言うかのように次を訊かれる。

「散歩と読書は?」

「お散歩……って言えるくらいに歩いたのは、秋斗さんとツカサと紅葉を見たときだけで、読書は全然――」

 学校の授業についていくのに必死で、家にいて身体を休めなくていい時間はほぼ予習復習にあてていた。

「何もやれてなかったわけか……」

 言われるまで気づかなかったなんてどうかしている。

「まぁな……藤宮ともなれば授業についてくのは半端ねーだろうし、夏休みは病院で治療漬けだったからな……。冬休みは少しくらい羽伸ばせや。頼めばシスコンブラザーズが遠出にも連れてってくれるだろ? 少し日常から離れろ」

 日常……。

 でもそれは、私が一番手放したくないもので、一番執着しているもので――。

「スイハ。頭ん中、空っぽにすることも大切だ。覚えとけ」

 先生……覚えることが多すぎて、覚えたところで実践しないと意味がないことばかりで、なんだかすごく――つらいです。

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