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光のもとでⅠ 最終章 恋のあとさき  作者: 葉野りるは
本編
13/117

13話

 相馬先生は脈診をしてから鍼を打つ。いつもと変わらない。

 病院だけがいつもと何も変わらないのかもしれない。

 ここ最近、自分が誰なのかわからなくなるとがある。

 クラスメイトと話していても、家族と話していても――自分がどこにいるのかふとわからなくなる。

 でも、誰にも何も言われない。

 だから、たぶんうまくやれているのだと思う。

 これが、一般的に言う「普通」なんだ、と思うことにした。

 心が麻痺したような、そんな感覚。

 痛くもつらくもない。その代わり、楽しくも嬉しくもない。よくわからない。平坦――。

 高校に入ってからずっと、ジェットコースターに乗っているような状態だったからかな。

 今歩いている道がひどく平坦で、まるで病院の廊下のように思えた。

 段差がない、坂という坂もない。すり足で歩いても転ぶこともない。

 それが患者にかかる負担を減らすと同時に、筋肉を奪うものだということを私は完全に忘れていた。

 テスト前からテスト期間の十日弱で、そんな状況に慣れてしまった。

 勉強さえしていればよくて、テストさえクリアできればよくて。

 人の激情に触れることはなかった。もしかしたらあったのかもしれないけれど、私には伝わってこなかった。感じ取ることはできなかった。

 この日、楓先生の彼女さんに会うまでは――。


「飯、食えてんのか?」

「はい、食べてます」

「どのくらい?」

「半人前弱くらい」

「そうか。ストレスマックス、胃腸にだいぶ負担かかってるが……薬は?」

「薬は適度に……。痛みが出れば追加飲みもします。でも、ODはしていません」

「腹、壊してんのか?」

「壊れてはいない……と思います」

「ちょっと触んぞ」

 先生の指先がお腹に触れ、触れた場所をゆっくりと回すように押される。

 これは、腸の確認をするときにされる触診。

 困ったことに、どこを押されても鳩尾に痛みが走る。

 でも、それは湊先生にもずっと伝えてきていることだし今に始まったことでもない。

「蠕動運動が弱い。……なるべく消化のいいもん食っとけよ」

「はい」

 先生の口調は相変わらずで、対応もいつもどおりで、そんなことにほっとしていた。

 それに、鍼やカイロの施術をしてもらうと痛みも身体も軽くなる。何よりもそれが嬉しかった。

 自分の身体で何かをダイレクトに感じられることに、安心した。


 治療がすべて終わって携帯コーナーに着いたのは三時。

 でも、私が楓先生の携帯を鳴らすことはなかった。

 だって、そこにいたから。

 楓先生は九階の携帯コーナーにいたのだ。

「楓先生?」

「アハハ……ちょっと手に負えなくて休憩しに下りてきちゃった」

 苦笑して見せるけど、疲れが色濃く見える。

「顔を合わせば口喧嘩にしかならなくてね」

 まじまじと先生の顔を見ていると、

「何?」

「いえ……あの、先生が……人に見えたから」

 先生は、くっ、と笑い、その笑い方が秋斗さんとかぶる。

「翠葉ちゃん、俺は医者だけど、医者も人間だよ?」

「はい……ごめんなさい。わかってはいるんですけど……先生のプライベートはあまり知らなかったから」

「……そうだね。出逢ってからずっと、俺は医者で翠葉ちゃんは患者だったもんね。――その枠、飛び越せるかな?」

 顔を覗き込まれて尋ね返す。

「飛び越す、ですか?」

「そう。俺はこの先もずっと医者だし、翠葉ちゃんは病院にかかってる限りは患者さんだ。でも……司のお兄さん、くらいには昇格できないかな」

 ちょっとした衝撃があった。

 そうだった。湊先生はツカサのお姉さんだし、楓先生はツカサのお兄さんなのだ。

 当たり前なのだけど、当たり前すぎて、それと同じくらいに先生であることが当たり前すぎて、ちゃんとリンクしていなかったかもしれない。

「たとえば、秋斗は蒼樹くんの先輩だけど、俺も一応そうなんだよ?」

 だめ押しのように言われて私は笑う。

「そうでしたね、そうでした」

 ふたりクスクスと笑いながらエレベーターに乗り込み十階へ上がった。


 十階は相変わらず物々しいセキュリティが敷かれている。

 指紋認証、声紋認証、網膜認証、重量センサー、それらをひとつひとつ解除して扉を開けていく。

 エレベーターホールとフロアを仕切る四枚の扉を抜けたところにある詰め所。そこには黒いスーツを着た男の人がふたりいた。

 過去二回ここへ来たことがあるけれど、詰め所に人がいるのは初めて見た。

 歩くたびに弾力を感じる絨毯は、ホテルなどに使われていてもおかしくない。うっかりしたら、ホテルにいるのかも、と錯覚を起こしてしまいそう。

 そんなことを考えながら歩を進めると、ナースセンターらしき場所に私の知らない看護師さんがいた。

「何か変わりありましたか?」

 楓先生の問いかけに、看護師さんは「いいえ」 と短く答える。

「そうですか」

 楓先生は病室のドアの前に立つと、

「ちょっと離れててね」

 と苦笑を見せた。

 ノックをしてからドアを開ける。と、絶妙なタイミングで物が飛んできた。

 壁に当たる手前、ふかふか絨毯に落下したのはプラスチック製のコップ。

 びっくりしている私をよそに、楓先生はほかに物が飛んでこないことを確認してから病室へ足を踏み入れる。

 私はカップを拾い、そのあとに続いた。

「物は投げない。俺じゃなかったらどうするつもり?」

「楓さんだったんだから問題ないでしょっ!?」

「でも、お客さんを連れてくるって言っておいたでしょ?」

「連れてこないでって言ったでしょっ!?」

 彼女さんは、「絶対安静」で入院しているはずなのだけど、とてもそんなふうには見えない。

 ものすごい声量で言い返していた。


 大声や人の怒鳴り声は苦手。この会話を聞いただけで身が竦む。

 私、来ないほうが良かったんじゃないかな……。

 楓先生に視線をやると、

「びっくりさせてごめんね」

 言いながらも、彼女さんの自己紹介を始める。

「こちら、東果歩あずまかほさん。東西南北の東に果物が歩むって書いて、東果歩」

 それだけ言うと、くるりと身体の向きを変える。

「果歩。こちら、御園生翠葉ちゃん。御苑の御に花園の園に生まれる。それで御園生。翠葉は翡翠の翠に葉っぱの葉。綺麗な名前だよね? そのハープの持ち主さんだよ」

 楓先生はソファの横に置いてある黒いハープケースを指差して紹介を終えた。

 え……? 先生、名前の紹介だけですか?

 唖然としていると、

「あら綺麗。私の捻りのない名前とは大違いね」

「果ー歩っ、誰もそんなこと言ってないだろ?」

「楓さんの説明がそう聞こえたって言ってるのっ」

 すぐに言い合いが始まってしまう。

 私はおろおろしながらも彼女さんを観察していた。

 彼女さんはくっきり二重できれいなアーモンド形の目をしている。髪の毛は肩よりも少し長いくらいで柔らかな栗色。たぶんカラーリングをしているのだと思う。瞳の色とはだいぶ違って見えたから。

 ベッドの上にいるから定かではないけれど、背の高い人なんじゃないかと思う。

 首筋がすっとしていて腕が長い。羽毛布団に隠れてはいるけれど、脚も長いように思えた。

「アズマカホデス。ドウゾヨロシク」

 急に自己紹介をされて戸惑う。

 思い切り棒読みの挨拶だった。

「……御園生、翠葉です」

 先に続ける言葉がわからない。

 よろしくお願いします、と言うのもなんだか変な感じだ。それこそ、何をよろしくなのか、と訊かれてしまいそう。

 気分的には、「お邪魔しました」と今すぐ病室を出てしまいたい。

 困った……。

 望まれて来たならともかく、これは思い切り拒まれてるのではないだろうか。

 私が来た意味はない気がする。

 とてもじゃないけどハープの演奏をさせてもらえるとは思えなかった。

「翠葉ちゃん、とりあえず座って?」

 楓先生に促され、ソファのある方へと案内される。

 ベッド脇を通り過ぎたとき、移動テーブルの上に教材のようなものが見えた。そして、ルーズリーフにシャーペン。プリントには気になる文字も――。

 ぱっと見、勉強していたように思える。

 彼女さんは私を見るのではなく、それらをチラチラと気にしているようだった。それに対して楓先生は、

「リンゴジュースがあったな」

 なんて、私をもてなす準備を始める。

「楓先生、いいです……」

「そうよ。長居されるの迷惑だし」

 きつい一言が飛んできた。

「果歩っ」

「だから頼んでないって言ってるでしょっ!?」

 言い合いが始まるとハラハラする。

 でも、単なる言い合いであることにはすぐに気づいた。

 顔を合わせれば口喧嘩、とはこのことなのだろう。

 ものすごく重要なことでケンカしているのではなく、何か気に食わないことがあって、それで人に当たっている。そんなふうに見えた。

 それを楓先生が頭から抑えるように、「果歩っ」と言うのがイライラに拍車をかけているのかもしれない。

 抑えられると反発したくなる。そのいい例がこの場にあった。

 玉紀先生――これ、どうしたらいいと思いますか?

 ものすごく、ホットライン的な電話をしたい心境に駆られた。


 とりあえず……このケンカは意味を成さない。それだけはわかる。

 なら、これを止めるのにはどうしたらいいか――もっとも簡単な方法は、ふたりを引き離すこと。

「先生、私、相馬先生のところに忘れ物してしまったみたいで……」

「え? じゃぁ、取ってくるよ?」

 まるで、「行かないで」という目で見られた。

 楓先生、大丈夫。ここから出ていきたいのは山々だけど、先に出るのは楓先生だから。

 ここのセキュリティには私の登録がされていない。したがって、私がひとりで九階へ下りることはできても上がってくるのには楓先生が一緒でないと無理。

 こういうとき、楓先生は私を動かすよりも自分が動こうとする。

 私を帰したくないと思えばなおさらそういう行動に出るだろう。

「何を忘れたの?」

 先生はものの形状を訊いてきた。

「このくらいの小さな緑色のポーチです」

 先生、嘘ついてごめんなさい。でも、あとで謝るから許してください……。

「わかった、ちょっと待っててね? っていうか、果歩っ、間違っても物を投げたりするなよっ?」

「だからっ。私、そこまでひどい人間じゃないってばっ」

「さっきコップ投げた人間がよく言う」

「うるっさいっ。とっとと行けばっ!?」

 何度聞いても呆気に取られる。

 彼女さんと話すときの楓先生は、私の知る楓先生とは全くの別人だった。


 楓先生が病室を出ると一気に部屋がしんとした。

 彼女さんは病室のドアが閉まるとシャーペンを手に取り、すごい勢いでルーズリーフに文字を書き殴っていく。

 身の置き所に困っていた私は、なんとなしに手に持っていたマグカップの匂いを嗅いだ。

 リンゴジュース……。

 冷蔵庫にはリンゴジュースが入っていると言っていた。

 もしかしたら、彼女さんが唯一飲める飲み物なのかもしれない。

 静かに席を立ち、室内の簡易キッチンに向う。カップを水洗いして、冷蔵庫から飲みかけのリンゴジュースを取り出し注いだ。

 そっとサイドテーブルに近づき、音を立てないようにカップを置く。

 とても真剣にシャーペンを走らせていたから、私は声をかけずに病室を出ようとした。

「ちょっと……」

 声をかけられ振り返る。

「ここで楓さん待ってるんじゃないの?」

 口調はきつい。視線もきつい。でも、それにはそれだけの理由があるはず。

 楓先生の好きになった人が、何もないのにこんな対応をするはずはないから。

「……お勉強、されていたんですよね? そこへハープを持ってこられても、人を連れてこられても、邪魔だとしか思わないと思います」

 通りすがりに見えた「提出期限」の文字。

 彼女さんは急いでそれを仕上げなくてはいけないのだろう。

 それを楓先生が知っているのかはわからない。わかるのは、彼女さんには提出しなくてはいけないものがあるということ。

「……そーなの。コレ、今週までに大学へ提出しなくちゃいけないの。なのに入院長引くわ楓さんは寝てろ寝てろってうるっさいわっっっ」

 あぁぁぁ……――思い切りうな垂れたくなる。

 楓先生、これはね、鬱陶しがられても仕方ないと思うの。

 彼女さんはおさまりがつかない、といった感じで布製のペンケースを投げつけた。

 投げられるものがあれば投げたい、そんな心境なのかもしれない。

 今まで行動を制限されたことのない人がベッドから動けない、というのはかなりのストレスだろう。もともと行動を制限されている私ですら感じるストレスなのだから、自分が感じる以上のストレスと推測する。

 楓先生……わかってるはずなのに、わかってるはずなのに、どうして――。


 私はゆっくりベッドに近寄り、さきほどサイドテーブルに置いたリンゴジュースを差し出した。

「とりあえず……糖分摂りましょうか? 少しは落ち着くかも……」

「……ありがと」

 彼女さんはゴクゴクとそれらを飲み干した。まるでお酒でも飲むような飲みっぷりで。

「……食べ物もさ、食べたいのに食べると気持ち悪くなる。匂い嗅いだ時点でアウト。もー、どーにもなんなくてねっ」

 そのあと、「ごめん」と勢いよく謝られた。

「楓さんにしか八つ当たりできないの。でも、間違いなく……すい、すい……」

「翠葉です」

「あ、そうだった。翠葉ちゃんにも当たっちゃったよね。ホント、ごめん」

「いえ……。楓先生が私をここに連れてきたのは東さんと話すためだと思います」

「あ、東さんはやめて? なんか気持ち悪い。カホでいいから。 で? 何? 話すため? 楓さんは悠長にハープがどうのって言ってたけど?」

「それはきっと口実です」

 果歩さんはきょとんとした顔をした。

 視線や口調の鋭さはなくなっていた。

「私、運動を制限されているんです。日常生活にも制限があって……夏休みはずっと入院していました。なので――動けない人のストレスには理解が深いほう、というか、経験者だから共感できる、というか……」

 もう、言っていてなんだか悲しくなってくる。少しだけ、「楓先生ひどい」と思った。

 だけど、私が思ったのと同時に果歩さんが口にする。

「それって、楓さんひどくない?」

「……そう思ってもいいでしょうか」

「いいいいっ。だって患者になんてことさせてんのよっ。あの腐れ外道っ」

 その言葉にはっとした。

 あぁ、わかってしまった。楓先生が私に医者と患者以外の関係を求めた理由が。

「果歩さん……。そこ、クリアしてます。私、ここへ来る前に、医者と患者以外の関係、提示されてました」

「え……?」

「……私、高校が藤宮で、楓先生の弟さんとは友達なんです」

「……司?」

「……お知り合いですか?」

「うん。ここにレポート資料運んでくれるのってたいてい司だから」

 そうなんだ……。

「えぇと……だから、司のお兄さんというポジションを提示されたのと、私の兄が楓先生とは先輩後輩の関係なので、兄の先輩、というポジションも提示されていて……」

 楓先生は果歩さんと私を会わせる前に、それなりの環境を整備していたことになる。

 私が違和感を覚えないように、気づかないうちに――かなり直前ではあったけれど……。

「楓さんって絶対にいい人の面かぶった悪人よねっ。翠葉ちゃん、騙されないように気をつけてねっ!?」

 最終的には怒りの矛先がすっかり楓先生に向かい、私は果歩さんとお話ができるようになっていた。

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