一章 夏の日の出会い②
次の日、神社の裏にある公園に行くと、中央にある巨木の下で、葵が待っていた。
「ナツコさーん」
「早いな」
誰かが待っているのは心地よいと私は感じた。
これまでは、誰が待っているわけでもなかった場所が、急に色鮮やかに見え、特別な場所に思えた。
「よかった……。ナツコさん、来ないんじゃないかって心配してたんだ。」
「そうか、遅れて悪かったな。」
本当は、昨日の約束など葵は忘れているのではないかと思った。
だから、少し遅く公園に足を運んだのだ。
だが、意外にも葵が先に着ていた。
私は葵を疑ってしまったことが申し訳なくて、まっすぐに彼の顔を見ず、あえて空を見つめながら尋ねた。
「さて、今日は何をするか?」
私が聞くと、葵は少し考えた後、すくっと立って駆け出した。
「お参りしよ!!」
「は……?お参り??」
「そうだよ。ここって神社の裏だろ?折角だからお参りしなくちゃ」
「ま、そうだが……」
早く早くと引きずられるように、私は境内まで連れてこられてしまった。
田舎にしては格式ある神社のようで、古い社であったが人の手入れがきちんとされている。
開け放された社の中は薄暗く、いかにも神秘的な何かがいるような、そんな気が伝わってきた。
私の傍らで、パンパンと拍手を打ち、なにやら真剣な面持ちでお参りしている葵を見て、私もそれに習った。
二礼、二柏……と、今の私には何の願い事も無いことに、はたと気づいた。
やりたいことも、叶えたい夢もなくなってしまった。
あの人と別れてから、世界の半分が無くなってしまったように、虚ろだったから。
(とりあえず、世界平和になりますように……)
適当な願いをして、最後に一礼をする。
傍らの葵を見ると、なにやらまだ熱心に願い事をしている。
この時期の子供であれば、叶えたい夢や希望など満ち溢れているのだろう。
そんなことを思ってしみじみと葵を見つめていると、その視線に気づいたのか、葵が目を開けた。
「な、なんだよ……」
「いや、真剣にお願いしているなぁと感心していたんだ。」
「そりゃ、自分の人生がかかってるんだ。真剣にもなるさ。」
「ん?どんな願い事をしたんだ。」
「……高校に合格できますようーにって。」
「……お前、受験生なのか?」
「う……。ま、世間的にはそう呼ばれるかも。」
「んじゃ、こんなところで油売ってる場合じゃないだろ!?帰って勉強しなくては!!」
「だから……お参りしたんじゃん。勉強しなくても高校に合格できるようにってさ。」
「お前は……」
ずぼらというか、寛大というか、余裕というか……。
焦りとかそういった気持ちは……無いのだろうな、と私は葵の様子を見て思った。
「では、私が勉強を見てやる。」
「いーよ。そんなの。適当にやればいいだろ!」
「ダメだ。私と話をしていたから勉強ができなくて、高校に落ちたなんて言いがかり、付けられたくないからな。」
「そんなことしないよ。」
葵は心外とばかりに唇を尖らせて、抗議した。
「それに……ここは学問の神様じゃないからな。お参りしても、あんまり効果はないかも知れないぞ。」
学問の神といえば、菅原道真が有名だろう。
だが、ここに祭られているのは磐永姫だ。学問とは縁遠い神様だろう。
「えー、そうなの?」
ちぇ、お賽銭損した。などと罰当たりなことを口にしながら、社の脇に書いてある、縁起を葵は読み始めた。
「イワナガヒメ……?」
「縁結びの神様って言われているが、どうだろうな?」
「ふーん、イワナガヒメ……コノハナサクヤヒメ……ニニギ……」
どうやら縁起には天孫降臨のくだりが書いてあるようだ。
地上に降りたニニギという神様が、コノハナサクヤ姫を見初めて結婚を申し出た。
それを喜んだ姫の父は、姉のイワナガ姫も一緒に輿入れさせたのだった。
しかし、イワナガ姫は醜かったため、ニニギは姉を送り返してしまった。
これを恥じたイワナガ姫は「万人の縁を結ぶようにしましょう」といって、縁結びの神になった、という話だ。
「イワナガ姫の気持ちって、僕には理解できないなぁ」
神社の縁起を読み終えたらしい葵はポツリと言った。
「だってさ、自分は夫に捨てられて、妹は幸せな結婚をしたんだろ?僕なら妹やこのニニギって奴を恨むと思うな。」
言われてみればそうだ。
自分が不幸になったから、他人の幸せを成就してあげようなどと、普通は思わないだろう。
「確かに……そうだな。やっぱり神様だから、人間とは違うんだろうな、思考回路が。葵ならどうする?」
「僕は……そんな風に誰かを思ったことがないから、分かんないな……。」
顔を赤らめながらぼそぼそと呟く葵の姿は初々しく、私は思わず笑ってしまった。
なんだか、年の離れた弟が出来たような、そんな感覚だった。
「な、なんだよ、馬鹿にするな!!」
「馬鹿にしてないさ。ただ、可愛いなと思ってさ。」
「やっぱり馬鹿にしてるじゃないか!」
「してないよ。」
「してる!!」
ぽかぽかと私を殴るフリをする葵から逃げるように、私は境内を走った。
その後を葵が追う。
私と葵、2人の声のほかは人間が発する音はなく、ただ蝉の声ばかりが空気を響かせてなっていた。
日差しは夏の様相を体し、じりじりと肌を焼いた。
夏が始まる。
私が一番嫌いな季節が。
だけど今年は、いつもの夏とは異なるだろうと、そんな風に漠然と思った。