四章 永遠の想い②
※ ※ ※ ※
永い夢を見ているようだった。
あの出来事が、全て夢だったら良かったのに。
私は現実に意識を戻されたとき、そう思った。
「誠……?」
虚ろに映る面影に、私は無意識で彼の名を呼び、そして違うことに気がついた。
幼さの残るこの顔は……
「葵……。」
「し、死んだのかと思った。」
「馬鹿。私は既に死んでいるんだ。」
私を心配そうに覗き込む葵の顔から、私は自分が仰向けに倒れているのだと分かった。
不思議なことに、体の感覚が無い。
ゆっくりと右手を持ち上げてみる。
だが感覚の無い右手が、持ち上がっているのかさえ私には感じることが出来なかった。
葵の顔に触れようとその手を伸ばしたとき、自らの視界に己の指先が映ったことで、ようやく私は自分の手を認識できたのだ。
そして、葵の涙を拭いたくて、そのまま私は葵の頬に触れようとした。
しかし、その手は空を掴むかのように、葵をすり抜けた。
「な、ナツコさん!?」
葵が驚いた声をあげた。
そして葵も私に触れようとしたが、やはり出来なかった。
私が生前の記憶を取り戻したときから、私と葵は相容れぬ存在になってしまったのだと思った。
生者と死者。
六十年前の私と六十年後の葵。
両者は決して同じ空間に存在しないものである。
「あぁ。もう、帰る時間なのかもな。」
私は急にそう思った。
そんな私の言葉を聞いて、葵はうらめしそうに言った。
「祭り……一緒に行くっていったのに。」
「ごめん……」
「蛍だってみせてくれるんじゃなかったのかよ!」
「……ごめんな。」
「嫌だ!そんなの…そんな、ナツコさんまで、僕を置いていくのかよ…」
葵は私の傍らで、座ったまま、こぶしを握り締めて呟いた。
「葵……夏休みはいつまでも続かない。いつか、終わりが来る。お前も……とうに分かっているだろう。」
遠くから、風にのって祭囃子が聞こえてきた。
そうだ、明日は祭りだった。
帰るまでの時間は、もうわずかにしか残されていない。
私は本能のように、それを感じ、感覚の無い体をゆっくりと起こした。
いつまでも、寝ていられない。
わずかばかりの時間、有効に使わなくては。
「葵、祭りを見に行こう。一日早いけど、神社に行こう。」
そう言って葵を誘って、私は神社へと歩み始めた。
踏み出す一歩一歩が消え行く私へのカウントダウンのようにも感じられた。
神社の道すがら、私も葵も何も話さなかった。
ただ、蝉の声に耳を澄ませながら、この夏のことを思い出していた。
葵と出会った日のこと。
葵が実験で火事を起こしたこと。
雷の夕方のこと。
二人でやった宿題のこと。
そして、花火のこと。
私にとって、この夏は、若いまま死んだ自分に、神様がくれたプレゼントだったのではないかと思った。
誠への思いを浄化し、新たに生まれ変わるための夏。
それを鮮やかにしてくれた葵。
きっと、そうだと、私は妙な確信を持って頷いた。
「ナツコさん?急に笑って、どうしたの?」
「私は、笑っているか?」
「うん。」
「そうか。そうか。」
そう言って、再び私は頷いた。
気がつくと、既に神社の鳥居まで来ていた。
私たちは行き先を告げるわけでもなく、社の裏にある公園へと足を運んでいた。
そして、待ち合わせの木に二人並んで座った。
大きな木の木陰は、二人が座っても十分で、私たちに涼を与えてくれた。
茂みの向こうの神社の境内では、本番さながらの祭囃子が、小気味よく、何度も何度も演奏されている。
「なぁ、葵。私はあの人が好きで好きでたまらなかった。」
私は思いついたように、今まで考えていたことを葵に語り始めた。
「別れた後も意地を張っていたけど、やはり好きで。でも素直になるには時間が経ち過ぎていた。自分の心に正直になろうとしたときには、もう三年も経ってしまっていたんだよ。既に彼は私の知らない人生を歩んでいたし、私も違う道を選んで進んでいた。この想いを抱いて生きるには辛すぎた。進めない、戻れない、とても辛い時期だった。」
先ほど見た過去の記憶と、葵の持っていたアルバムの写真を思い出して、私の胸はちくりといたんだ。
「だけど、今は素直に思うんだ。あの人が、幸せでよかった。結婚をして、家庭を築いて、そして、お前が生まれて。それがわかって本当によかったと思うよ。」
葵がいたからこの夏は楽しかった。
色あせた世界が再び色づいたように、鮮やかで、輝いた夏だった。
「じーちゃんは、馬鹿だ!!ナツコさんがいたのに!!」
「あぁ、本当だな。だが、そんなところも含めて、私は彼が好きなんだと思うよ。」
「ナツコさん、趣味悪すぎ。じーちゃんも、研究馬鹿って言われていたらしいよ。僕の父さんと同じでね。」
「そうか。だから葵もその血を引いているわけだ。」
「う……。」
弱いところを突かれたようで、葵は言葉を詰まらせた。
研究馬鹿である自覚はあるようだ。
「葵。もっと素直になれ。変な意地なんて張らずに。」
「え?」
「本当は、父親のこと、好きなんだろ?一緒に住みたいんじゃないのか?」
「なんで……そんなこと言うんだよ?」
「だってお前、父親と会うときとても切なそうな表情をしている。それに分かっているんじゃないのか?お前の母親は、父親のことをどんなときも好きだったってことを。そして父親も母親を思っていたことを。だから、あの時、花火をしたんじゃないのか?」
「ナツコさんには、敵わないな。」
「あぁ、これでもお前よりずっと長く生きているんだ。」
「ナツコさんからの夏休みの宿題。まだ、答えは出ないけど、ちゃんと考えるよ。」
少し、晴れやかな顔で葵は言った。
そのはにかんだ笑顔を見て、私は少し安堵した。
「最後に感謝しなくては。あいつに。お前に合わせてくれてありがとうって」
そよそよと吹く風が、私の肩でそろえた髪を静かに揺らした。
じりじりと熱く照りつく太陽の力を、そっと和らげるような心地よい風が、私の周りを吹き始める。
私はその風に誘われるように、ゆっくりと立ち上がった。
「なぁ、葵。今なら磐永姫が、縁結びの神様になった気持ちが分かるよ。だって、あの人が幸せだったことが、こんなにも嬉しいんだ。」
「ナツコさん!!」
「さよなら。葵。」
その時、ごうと風が吹いた。
私は目を閉じてその風に身を任せる。
体の中が抜けるように軽くなり、私は空と一つになるのを感じた。
もう伝えることが出来ないかもしれないが、私は葵にどうしても伝えたい言葉があった。
だから声に出来ない声で、私は一言呟いた。
ありがとう、と。
この言葉、葵には届いただろうか?
そんなことを思いながら、私はもう一度空を仰ぎ見た。
澄み渡った青を湛える夏の空を。
空は、今日も天気だった。