三章 懐かしい面影④
※ ※ ※ ※
「見てしまったんだ……。」
不意に背後から葵の声がして、私は反射的に振り返った。
「葵……。これは…どういうことなんだ。」
私の問いに、葵は何も答えなかった。
ただ不安そうな目をこちらに向けるばかりだった。
「そうか……。そういうことだったのか。」
私はこのアルバムから全てを理解した。
葵との出会い、葵の行動、私の存在、その意味を。
だから、私は葵に尋ねた。
それは自分でも不思議なほど、落ち着いた声だったと思う。
「葵……。私は、死んでいるのだな。」
葵はひどく傷ついた表情をすると、見ているのも辛いといわんばかりに私から視線を外し、静かにうなずいた。
何故、私はここに居るのだろう
何故、葵は私と普通に過ごしているのだろう
何故、私は死んでしまった
何故、葵はこの真実を知ってしまった
何故、何故、何故、何故!?
正直、今の状況を正確に把握できていなかった。
「葵は……知っていたのか?」
声がかすれて思うように言葉が紡げない。
息も思うように出来ないような気がする。
心臓がどくどくと脈打つのが分かるのに、じんわりとべとついた汗が背中を流れているというのに、私は死んでいるだなんて。
信じたくない思いと、信じられるだけの事実に私は夢を見ているように、ぼんやりと虚ろに葵を見つめた。
葵は何も言わなかった。
たぶん私があまりにも哀れで、答えられなかったのかもしれない。
「怖く、ないのか?私は死んでいるんだぞ。」
私は搾り出すように言った。
そうでないと、泣き出してしまいそうだったから。
「怖くないよ!!だって、ナツコさんはナツコさんだもの!!」
私が生きている人間でも、死者だとしても、葵は変らずに真っ直ぐに私を見つめていた。
そんな葵の視線を、逆に私は見つめ返すことが出来なかった。
余りにも眩し過ぎて。
私は無言で立ち上がると、そのまま部屋を出ようとした。
このまま、葵の傍に居てはいけないとまず思ったからだ。
生きている人間と死んでしまった人間。
相容れぬ世界のものが、同じ空間に居てはいけないような気がした。
その様子に慌てた葵が私の腕を掴み、部屋から出るのを引き止めようとした。
自分が死んでいると自覚して尚、感覚は自分の元に有り、掴まれる腕の強さが、決して離さないという葵の意思を伝えているようであった。
「不思議だな。私は幽霊というやつなのに、葵には私を掴めるんだな。」
少し自嘲気味に笑った私を見て、葵は真摯な顔で私に言った。
「何も変らない。僕はナツコさんがどんな存在でも、かまわない。一緒に過ごせれば、いい!!」
その言葉は、私がかつて一番愛しい人から一番言って欲しかった言葉だった。
それを、一番愛しい人の血を受け継いだ人間が言うなんて、なんて皮肉だろうとも、感覚の麻痺した頭の隅で考えていた。
「……葵。離してくれ。少し、一人になりたい。よく……分からないんだよ。どうしていいのか?どうしてこうなってしまったのか?私は……分からないんだ」
「ダメだ!だって、ナツコさん。この腕を離してしまったら…もう会えないような気がするんだ…」
私の背後で、葵が泣きそうな声で訴えた。
だが、私はそんな葵を見ることが出来ず、じっと廊下を見つめていた。
黒光りした廊下は、死の世界を思い出させるほどに暗く、深い黒をたたえていた。
ぽたりと、雨音が部屋に響いた。
いつの間にか、夕立が来たのだろうか?
窓の外を見やったが、外は今まで通り明るく、雨など降っていなかった。
ならばこの水音は何だろう。
「ナツコさん……泣いているの?」
「え?」
頬に触れると、指先に水滴がついた。
葵に言われて、私は始めて自分が泣いていることに気がついた。
「どうして……涙なんて。」
自分が死んだことが悲しいのか、それともあの人が誰かと結婚していたことが悲しいのか、あるいはその両方か。
「ナツコさんが待っている人って、僕の……じいさん、だよね。」
「……あぁ。そのようだな。」
そう、葵があの人に似ているのは、あの人の血を受け継いだ人間だからであった。
それが分かったから、なおさら傍に居れないと思った。
「ナツコさんは、まだじいさんのことが好きなの?だから、泣いているの?」
「どうだろうな。好きだったけど、今はもう、分からない。でも、悲しいという思いは、まだ私の胸に残っている。私は結局彼に選んでもらえなかった。……イワナガ姫のようにな。」
ニニギの尊に嫁いだ姉妹だが、夫が選んだのは綺麗な妹で、姉のイワナガヒメは選んでもらえなかった。
「そうか……イワナガ姫も、こんな気持ちだったのか。」
愛しい人が、自分ではない誰かを愛した。そして自分は選んでもらえなかった。
そんな惨めさ、悲しさ、悔しさ。
涙の理由は、そんな醜い私の心を溶かし出すためのものなのかも知れない。
途端、葵は隣の部屋へ戻ると、アルバムを抱えて庭へ降り、乱暴にアルバムを放り投げた。
ばさばさと音を立ててアルバムがいびつに重ねられた。
そして無言のまま、葵は今の戸棚からライターを手に取ると、アルバムに火をつけようとした。
今までも突飛なことをする奴だったが、さすがの私もびっくりして、その行為を止めに入った。
「何してるんだ!?」
「燃やすんだよ、アルバムを。」
「やめろ!だめだ、こんなこと!!」
「ナツコさん、僕は怒っているんだ。ナツコさんを苦しめているじーちゃんを!」
「葵。お前はそんなこと望んでいないだろ!?このアルバムには、お前と誠の思い出も刻まれているじゃないか!」
「いいんだ。本当はじーちゃんに文句を言いたいところだけど、もうじーちゃんは死んでしまったから。」
「だから当てつけに写真を燃やすっていうのか?冗談じゃない!!」
私は葵が火をつけるより早く、アルバムを手に取ると、抱えたまま走り出した。
だって、本当に燃やしてしまったら、きっと葵は後悔すると、そう思ったから……。
ぽつ、ぽつと走る私の顔に、水滴がつき始めた。
今度は涙などではなく、正真正銘の夕立だ。
私はアルバムが濡れないように、上着の下に抱えて、なおも走り続けた。
後方から、葵の呼ぶ声が聞こえたが、気にしなかった。
誠の写真を守るために、否、葵と彼の祖父との思い出を守るために、私は走ったのだった。
激しく打ち付ける雨に、私の体は冷え始めた。
視界はぼやけて良く見えず、それでも前を向こうと私は懸命に目を開こうとした。
だが、雨は視界を奪い、感覚を鈍らせていた。
その時だった。
けたたましくクラクションの音が、雨音を縫うように鳴り響いた。
車のライトが私を照らし出し、私は眩しさに目を細めた。
そして鈍い衝撃が、私の体を駆け抜ける。
あぁ、そうか。私はこうやって死んだのだ。
フラッシュバックする記憶。
昨日の夜、聞いた声は幽霊の声ではなく、私の記憶が呼び覚ました音だったのだ。
体が、雨に濡れた地面へとたたきつけられる。
そして遠のいていく意識の中で、私は誠のことを思い出していた。
あの出会いの日を。
忘れえぬ想いを与えたあの人との出会いを。