一章 夏の日の出会い①
また立ち返る水無月の
嘆きは誰に語るべき
沙羅の瑞枝に花咲けば
悲しき人の目ぞ見ゆる
(芥川龍之介『相聞』より)
※ ※ ※ ※
一章 夏の日の出会い
あぁ、今日もいい天気だ。
私は空を見上げて思った。
目の前には青く澄んだ空が広がり、そのところどころにモコモコした雲が散らばっている。
夏特有の透き通った深い青は、今の私の目には鮮やか過ぎて、少し顔をしかめた。
また、夏が来た。
私の心は夏が来るたびに、ちくちくと痛む。
繰り返される季節に、ただ一人取り残されたようで焦る自分がいる。
だが、変ることのない日常を一人で過ごしている。
そして夏になると、何も変らない自分に、また少し失望するのだった。
あの時から、どれ程の時間が経ったのだろう。
否、そんな風に感傷に浸るには短い歳月のような気もする。
今、4度目の夏がめぐろうとしていた。
あの人と別れてから、4度目の夏。
本当はもっと時間が経っているのではないかと錯覚するほどに、長い3年だった。
「馬鹿みたいだ。」
木陰に佇み、空を見上げながら、私はポツリと呟いた。
背を巨木に預けながら、今度は足元に視線を落とす。
思わずもれる溜息が、地面へ映った葉の影に吸い込まれていくようだった。
神社の裏にあるこの公園は、夏休みだというのに遊ぶ子供の姿も無かった。
世界で私だけが存在しているのでは、と思うほどに人の声が聞こえない。
今の世の中、神社など好き好んでくる子供など、ほとんどいないのだろう。
そよそよと吹く風が、私の肩でそろえた髪を静かに揺らした。
じりじりと熱く照りつく太陽の力を、そっと和らげるような心地よい風を受け、私は静かに目を閉じた。
「どうして…こんな風になったのだろうな。」
過去を悔いても仕方がないと思いつつも、思考はやはり過去の愚行を振り返り、そして感情はやり場のない後悔と悲しみに支配されてしまう。
私はそんな自分の気持ちを振り返るように、二度、三度と頭を振った。
「後悔したって仕方ないだろ!!馬鹿者!!」
大きな声で叫んでみる。
気持ちを切り替えるために。前を向いて歩くために。
だが、そんな自分をあざ笑うかのように、神様がいたずらをした。
そうとしか思えない偶然が起こったのだ。
突然風がどうっと吹いたかと思うと、遠くから人の声がする。
その声は境内のほうからこの公園へと近づいてきた。
「え!!こんなところに公園があったんだ」
茂みを越えて私の目の前に現れた男の顔には見覚えがあった。
あの顔。
忘れもしない。いや、忘れられない男の顔。
だが、男は私に気づかないようで、そのまま通り過ぎようとする。
そんな男の肩を、私は我を忘れて男の肩を掴んで言った。
「お、お前!!」
「え?」
男は驚いたように振り向いた。
「私だ!忘れたのか?」
名乗っても男は怪訝な顔をするばかりだった。
そのときになって、私はようやく気づいた。
完全な人違いであることを。
目の前の男は、自分の知っている男に似ていなくもなかった。
目元や口元、何よりもその雰囲気が。
だが、完全に違うところがあった。
それは男と称するにはいささか早い。少年と呼ぶほうが正しい年だったからだ。
私が知っているのは25歳の男性だ。目の前の人物はどう考えても15やそこらだろう。
「す、すまん!!知人に…よく似ていて」
私は恥ずかしさから慌てて弁解した。
自分でも羞恥心で顔が真っ赤になっているのが分かった。
少年はそんな私を、始めは驚いた顔で見ていたが、やがてにっこりと笑って言った。
「いえ、大丈夫です。そんなに慌てて声をかけるんだから、きっと凄く会いたかった人だったんでしょ?」
「う…ま、そ、そんなところだ。」
「その人じゃなくてごめん。おねーさん、ずっとここにいたの?待ち合わせ?」
「いや、待ち合わせではない。ちょっと…その人のことを思い出していたところだったんだ。すまない。」
「ふーん」
少年はそういうと、私の顔をじっと見つめた。
いい年した女が、こんな失態をするなんてと、内心呆れたのだろう。
くすっと笑うと今まで私が佇んでいた木陰に行くと、私を手招きした。
「おねーさん、こっちでお話しようよ。そこじゃ暑いでしょ?」
「あ、あぁ。」
私は誘われるまま、少年の隣に腰を下ろした。
木陰は今までの暑さとは別世界のように、涼しく、そして心地よかった。
「おねーさん、名前なんていうの?」
「名前…。そんなもの、忘れてしまった。」
「忘れたって・・・。んじゃ、なんて呼べばいいんだよ。」
「好きに呼ぶといい。」
「んじゃ、どこに住んでいるの?この辺りの人なの?」
「いや、もっと遠いところに住んでいた。」
「住んでいた?」
「あぁ、ちょっと事情があって…家を出てきたんだ。」
あの人と別れてから、私は家族とも気まずくなってしまった。
家も今までの名前も捨てて、新しい生活をしようと、私は一切を置いてきた。
だから、今の私には、帰る場所も名前も無いに等しい。
「お前こそ、名前はなんていうんだ?」
「浅砂葵。」
「葵か。お前はこの辺りに住んでるのか?」
「家は東京だよ。ここにはじいちゃんの家があって、今はそこにいる。」
「そっか、夏休みだからな。」
私がそういうと、葵はうん、と曖昧な返事をして境内のほうを見やった。
「こっちには友達とかいないし、つまんないから早く帰りたいんだよな。」
確かに折角の夏休みに、友人もいない片田舎に来ては、さぞかし帰りたいだろうと、私は納得した。
とは言うものの、ここは元気付けてあげるのが年長者の役目というものだろう。
私は葵を励ますように、楽しいことを挙げてみた。
「そんなつれない事いうな。そうだな、再来週になればこの神社でも祭りがあるだろうし、ここは水も綺麗だから蛍もいる。都会にはない楽しさはあると思えばいいじゃないか。」
「そうだけど・・・」
少しふてくされた様子からすると、私の提案は彼の心を引くには足りなかったらしい。
そんな葵が思いついたように言った。
「そうだ!おねーさん、話し相手になってよ。」
「え?私がか?」
「そうだよ!どうせ、僕に似た男の人を待っているんだろ?丁度いい暇つぶしになるよ!!」
「いや。別に待っているわけじゃないんだが・・・」
「予定とかある?デートとか??あ、でもその相手を待っているんだっけ?」
予定があるかと問われれば、特に予定も無い。
家を出てしまい、別段することも無く、だからこそ、こんなに天気がいいにも関わらず、木陰で休んでいるわけなのだから。
そう考えて、私は葵の提案を受けることにした。
「いいよ。どうせ暇だし。お前の話相手くらいなってやる。」
「本当!?んじゃ、明日、またここで待ってて!!」
「ふふ。分かった。…では、そろそろ私は帰るよ。」
「え。もう?」
「あぁ。」
「んじゃさ、最後にもう一度、おねーさんの名前教えてよ」
「だから好きに呼んでいい。…いや、むしろ好きな名前を付けてくれ」
そう言って、私は葵に背を向けた。
「ナツコ」
不意に、背後から葵が声をかけたので、私は立ち止まり、振り向いた。
「おねーさんの名前。ナツコさんって呼ぶ!」
夏に会ったから夏子…ナツコか。
なんて安直なと思いつつ、自分が好きに呼べといった手前、訂正も出来なかった。
私は苦笑交じり微笑むと、葵に手を振り、そのまま別れた。