おれがしんだ日 【七日目】
「はい、ちゅうもーく」
消えたと思った。感覚的には、声がしたからそれにはっとした、という感じだ。ちょうどうたた寝からの覚醒する瞬間に似ている。まだ、おれは消えることが出来ないのか。もう嫌だ。考えたくないし、何もしたくない。
死んでいるのに、死にたいと願う。滑稽なことだ。
「こっち向けよ」
おれの声ではない。かといって、知り合いの声でもない。死んだ母親のでもないし、おれを捨てた父親のでもない。この声は、なんだろう。
「あー、見えねぇの? 仕方ねぇ奴だな……」
ぶつぶつと不平を言う呟きがしたかと思うと、急に光がおれに入り込んでくる。ゆっくりと暗闇が薄まっていき、やがて目の前に黒い人影が見えた。
それは、本当に奇妙なもので、黒い影、としか形容できない。かろうじてその影が人の形をしているのが分かる。だが、影だから女性なのか男性なのかも分からない。声は女性だが、話し方は男性的だ。いったいどちらなのだろう。
「それにしても、間に合ってよかったわー」
影が楽しそうにケタケタと笑うが、その笑い声がこれまた奇妙だった。まるで、骸骨が歯を鳴らしているような笑い声で、少しだけ気味が悪い。それでも、おれの存在もあまり言えたものではないから、おあいこさまだ。
「間に合った、って……」
「ああ、そうそう。お前にちょっと用があってな?」
「……用?」
「なに、たいしたことじゃない。ちょっと手伝って欲しいだけだ」
「……何を手伝えばいいんだ……?」
どうせ、消える身だ。おれにも出来そうなことであれば、それを手伝ってから消えるのでもいいだろう。消えかけていたのを、こいつが呼んだせいで出来なかったけどな。
「話しが早ぇな。その方が助かるよ」
「いいからさっさと言えよ。おれはもう消えたい」
「それだから、オレに目を付けられたんだよ」
「え……?」
目を、付けられたとは、どういうことだ。そう言おうとすると、気配を察したのか、影が楽しそうな声で次の言葉を言い放った。
「お前、死神になれ」
おれが死んでから七日目、死神宣言をされた。
どうして、こうなってしまったんだろう。
おれはただ、死んで消えて、楽になりたいだけなのに。
「お前を見て、その素質があることが分かった。ちょっと手伝ってくれねぇか?」
どうして、おれは嬉しいと感じたんだろう。もうだれも、おれを見てくれないし覚えられていられるわけでもないのに。おれを見つけてくれたのは、人でも、ものでもなく、何てことはない、ただの影だ。
それだけでおれは少し嬉しかったが、それでもおれは、消えたい欲求の方が強かった。
「ことわる」
「はぁ?」
「おれは消えたいって言っただろ」
「お前さぁ……」
影が、そのままおれへと音もなく近寄り、少しだけ項垂れているおれの顔を覗き込んでくる。
「そう簡単に楽になれると思ってんの?」
「……どういう」
息を呑む必要はないはずなのに、生唾を飲み込む仕草をする。もちろん、わざとじゃない。無意識にそうしていただけだ。影が話し続ける。
「人間ってやつは、みぃんな生きている間に何かしら悩んで悩んで苦労して死ぬんだ。それが人間だ。それなのに」
影が忍び笑いをする。
「お前は全部、諦めてきたんだろ」
息が詰まったような気がした。おれだって生きている間は、相当に悩んだり苦しんだりした。少なくともおれはしたと思っているし、ちゃんと人並みに苦悩も痛みも我慢してきたと思う。
そして、おれは最終的にいつもそれらを仕方がないと受け入れてきた。そうでもしなければ、だめだと思ったんだ。そうでもしなければ、おれは、壊れてしまう。それだけは、駄目だ。避けなくては。おれがこのまま生きていくためには、ここで壊れるわけにはいかない、と。
結局、あっけなく死んでしまって、それすらも意味がなくなったけど。
「全部つらいから、投げ出したんだろ。そうしたら、面倒臭くないからなぁ?」
こいつに、おれの何が分かるというのだろう。たしかに、おれは人様に誇れるほどのものは持っていない。挙げるとすれば、諦めの早いところだ。
それを、いま目の前の影に駄目だしのようなものを食らった。いったいこいつは何様なのか。おれに駄目出しできるほど偉いのか。それならそれで諦めはつくが、見た目からしてあまり偉いようには見えない。
ぎっと目の前の影を睨みつける。
「あんたは……おれの、何が分かるっていうんだ?」
「全部さ。お前の生い立ちや、生き方、信条、環境、すべてを見た」
「それなら、おれが何を欲しているのかも分かっているんだろう?」
「だーかーらぁ、それが甘いって言ってんだろぉ?」
「甘い?」
「そうだ。お前の生き方で上の方から指令が出たんだよ。ご愁傷様!」
死んでからご愁傷様と言われるとなんだかしっくりきてしまって、虫の居所が悪い。思わず眉をしかめて、目の前の影を再度睨む。
「そうやって生前に楽して死のうとする奴らは、地獄行きか死神になるって決まってんだよ」
「……知らなかった」
「そりゃそうだ。今年でその取り決めがされたからな」
「へぇ」
「で、オレの第一号がお前ってわけだ」
「じゃあ、おれじゃなくても他にいるんだよな?」
「まぁ、そういうことになる」
「おれは地獄行きを選ぶと言ったら?」
「その通りにするまでさ。これは強制じゃないしな」
「……」
もしここで地獄行きを選ぶとしても、きっと目の前の影はおれを止めずに、ほかの奴らの元へと去るだろう。消えるのではなく、地獄だ。その場所についてあまり詳しくは知らないが、恐らく消えるよりも考えるよりもつらいところなのだろう。
何かの罪を犯した、というのならまだ分かる。だが、おれは事故死だ。決して自殺や殺人ではない。それなのに地獄行とはどういう了見なのだろうか。
おれはただ、消えて、何も考えたくないのに。誰にも知られず、覚えられず、忘れられて、おれという存在すらも消えてしまいたいのに。消えもせずに死神になるか地獄行きになるかどうかだなんて、おれにはどちらも考えられない。
「今も昔も地獄は毎年定員オーバーする勢いで増加傾向にあるしなぁ」
「…………あんたはおれをどうしたいんだ」
「どうもしねぇ。勘違いすんなよ、オレは仕事でお前の前にいるだけだ」
「そうか。……なぁ」
「あぁ?」
「あんたは、おれをちゃんと見てくれるか?」
もしも地獄に行って、またあの消える間際に感じた孤独感を味わうよりは、死神にでもなった方がいくらかマシかもしれない。
今は寂しくなくても、向こうで膨大な孤独や寂しさを感じてしまえば、もうそれまでだ。おれは、壊れたくても壊れられずに狂って、永遠と酷似した時間を過ごすことになる。
こいつが、おれを見てくれるというのなら、おれは、死神でもなんでもなってもいい。見ない、というのならばおれにとってここも地獄と同じだ。その時は潔く地獄に行こう。消えずにここに残っていたとしても、ここもつらいことしかない。
そう考えると、おれにはまるで選択肢がないことに気が付いた。何だ。さほど悩むことではないな。
影が、不敵に笑ったような気がした。続いて、意地の悪い笑い声と、低い声が同時にその場で鳴り響く。まるで教会の鐘の音だ。崩れ落ちた民家だけが残っている村に響き渡る、錆びてしまった教会の青銅の鐘の音。
「最期まで、ちゃあんと見といてやるよ。手伝ってもらわねぇといけねぇしな」
見えるわけでも分かるわけがないはずなのに、影がふ、と口の端を吊り上げたように見える。その笑みに、怖気とともに意味の分からない安堵を感じた。
これで、おれは大丈夫だ。
安心して、死神になろう。
「さぁ、どうする?」
決まった。
「おれを、死神にしてくれ」
骸骨が愉快そうに、不気味に笑い続けた。