ランペイジ
ご閲覧頂き誠にありがとうございます。
当たり障りのない日常だった。特に面白いこともなく、本当につまらなかった。けれど、そいつはある日突然やってきた。
長くてやわらかい白い毛に、どこまでも澄んだ青い瞳。小刻みに震える様子は僕の庇護心に直に響いた。鈴を転がすような声が心地良い。
「じゃ、私が旅行してる間、その子よろしく!」
「ちょ……待てよ、姉貴!」
僕の制止を振り切って、無責任な姉は扉を閉めた。呆然とする僕の横で、そいつはみゃあと鳴く。足元にいたのは片手に余裕で乗るくらいの大きさの子猫だった。あまり猫の種類には詳しくないが、おそらくペルシャだろうとだけは思った。
「……はぁ」
ため息を吐いて座り込む僕をよそに、子猫は部屋を走り回っている。一体その小さな体のどこに走り回るだけの体力があるんだろう。こいつの何倍も体の大きい僕が特に何もせずぐったりしているというのに、なんということだ。
「どうしろって……」
僕はペットを飼ったことがない。そんな僕に果たして猫の世話などできるのだろうか。いや、できるはずがない。第一、どうして僕に世話を頼んだのだろうか。ペットシッターに頼むこともできただろう。そう思ってから、僕は考えるのを止めた。姉に言ったら「面倒くさい」という言葉しか返ってこない自信があった。
「ていうか、こいつの名前なんだっけ……。確か前に姉貴が言ってた気が――」
そこまで言って、僕は猫の首にネームプレートがついていることに気づいた。僕は面倒に思いながらも猫に近づき、捕まえようと試みる。しかし、猫の動きは思ったよりも素早く、なかなか捕まえられなかった。
「くそっ……止まれ! 止まれってば……。うわっ!」
捕まえようと身を乗り出した途端、猫が毛を逆立てて飛び跳ねる。その振動で近くに積んであった箱が崩れ落ちた。僕はその雪崩に巻き込まれて倒れこむ。背中の上に箱と猫が乗った状態で、うつぶせた姿勢だ。正直、かなり辛い。
「なんなんだよ、もう……」
半泣きになりながら言うと、少しだけ箱が軽くなった。恐らく猫が下りたのだろう。僕は一安心して箱を掻き分けながら座り込んだ。すると、僕が座るのを待っていたかのように、猫はさっと膝の上に乗った。気持ちよさそうに喉を鳴らしていこっている。
なんて奴だ、と思いながらも、僕はその猫に触れた。何はともあれ、これはチャンスだ。そっと手を伸ばし、ネームプレートを探る。しかし、膝の上から聞こえる穏やかな寝息にとっさに手を引く。さきほど動き回ったせいで疲れたのだろう。体を丸めて静かに眠っていた。
今は寝かせておこう、と思った。
それから数日間は激動だった。走り回っているかと思えばいきなりへたり込んで眠りだしたり、空腹のせいかやけにすり寄ってきたりした。当然、こういうことに慣れていない僕はどうしたら良いのか分からずたじろいでしまう。預けてきた姉を恨みつつ、僕を置いて旅行している姉を羨みつつの毎日だった。
「ただいま~。あら、ずいぶんなつかれたじゃない。よかったわね」
「帰ってくんの遅い!」
暴れる猫を取り押さえていると、無駄に機嫌の良い姉が帰ってきた。彼女は僕の手から猫を取り上げると、思いっきり抱きしめた。
「ずーっと留守にしててごめんね、ランちゃん! 今日はごちそうにしてあげるから、許して――?」
そのとき初めて、僕はその猫の名を知った。
日常に刺激を与える小さな暴君についた”ラン”という名前は、きっと”ランペイジ”の略に違いないと、僕は一人うなずいていた。
お読み頂き誠にありがとうございました。