水は名前を持たない─『水たまりと ひと夏の日常』
(こちらは、武 頼庵(藤谷 K介)様の『みずに纏わる物語』企画参加作品になります)
夏の強い西日と、氷屋の前にある冷たい水たまり。
常識ゼロの美青年と、男勝りで情に厚いお母さん、そして元気いっぱいな5歳の娘。
三人(?)が織りなす、ドタバタでちょっとあたたかな居候の日常をお楽しみください。(*人´ω`*)
①落書き
──その日の夕暮れ時、街は強烈な西日に包まれていた。
五歳の『ひまり』は、年季の入った氷屋の店先に残された、小さな水たまりをじっと見つめていた。
水面には、真っ赤に焼け焦げる夏の空と、ひこうき雲の白い線がくっきりと映り込んでいる。
丸くて青い胴体に、棒のような手足が四本飛び出しているだけの、お世辞にも上手とは言えない人型。
ひまりは、水たまりに映る赤い空を見つめながら、画用紙に青い人型を描いていた。
その下には、指先を真っ青に染めながら書いた『みずのおにいちゃん』という、歪で拙いひらがなが添えられていた。
ひまりが最後の仕上げとばかりに青いクレヨンを強く押し付けたその瞬間……。
──ぽちゃん。
どこかで一滴、冷たい雫が静かな水面に落ちたような澄んだ音が、ひまりの小さな耳の奥に確かに響いた。
──次の朝、画用紙の上に描かれていた青い人型は、影も形もなくなっていた。
クレヨンの油分だけがかすかに紙に残っている。
かわりに、商店街の最も古い区画、今にも崩れそうな築五十年の木造家屋の裏口に、全身からダラダラと滴を垂らしたひとりの青年が、ぼんやりと立ち尽くしていた。
青年は二十代半ばほどに見えた。
すらりとしたやせ形で、肩まで届く少し長めの髪は、水に濡れているせいだけではない、淡い水色を帯びて、まるで陽の光を透かした浅瀬の水面のような、不思議な色だった。
肌は驚くほど白く、濡れた頬には夏の夕日が淡く反射している。
顔立ちは男とも女とも言い切れないほど端正で、長いまつげの奥には、澄み切った泉を思わせる青灰色の瞳が静かに揺れていた。
どこか儚げで、水へ溶けてしまいそうな印象を与える青年だった。
② かおるとの出会い
「おかあさん! おかあさん!、この人、あたしが描いたひとだよ!」
仕込みのために勝手口を開けた『かおる』の裾を、ひまりがグイグイと力いっぱい引っ張った。
天真爛漫な五歳児の瞳は、まるで新しいおもちゃを見つけた時のように爛々と輝いている。
そして、至極当然のような顔で裏口を指差した。
店主である「かおる」は三十代半ば。
古びた店舗兼住宅の『なぎさ商店』をひとりで切り盛りし、夏は氷屋、冬は雑貨や日用品を扱う『なんでも屋』として、商店街の人々に親しまれていた。
最初はいつもの娘のごっこ遊びだろうと、かおるは「はいはい、すごい絵が描けたわねー」と軽くあしらうつもりだった。
──しかし、見上げるような雲ひとつない快晴だというのに、目の前に立つ中性的な顔立ちの青年の服からは絶え間なく水が滴り落ち、足元に大きな水たまりを作っている。
「どちらさま?……あなた、どうしたの? 川に落ちたの? それともゲリラ豪雨にあっちゃったの?」
かおるが警戒と困惑の混ざった声を投げかけると、青年はただ透明な瞳で彼女を見つめ返した。
「……ワカラナイ」
「お家はどこ? 連絡先は?」
「……ナイ」
その瞳には、嘘や悪意といった人間の感情が一切存在していないように見えた。
(騙そうするにしても……本当に居場所がない人なのかしら……?)
思案する かおると青年の間を割り込むように、ひまりが「はーい!」と元気よく手を挙げた。
「みずのおにいちゃんだから、おウチは海なんじゃない? それか、お風呂のなか!」
根拠のない能天気さで胸を張る娘に、かおるは額を押さえた。
「……ひまりが描いたから生まれたって、まさか本気で言ってるわけじゃないわよね?」
「ワカラナイ。デモ……アノ声ダケは、ウマレル前カラ知ッテイタ気ガスル……」
青年の声は、澄んだ泉の底から響いてくるように静かだった。
「あたしが描いたんだから、ここに住めばいいじゃん! いっしょにあそぼうよ!」
それに対して、ひまりは「ほらね!」とばかりに腰に両手を当て、にっこりと満面の笑みを咲かせる。
かおるは腕を組み、深いため息をついて見上げた。
この家は、汗を流して手入れをし、ひまりを産み落とした思い出の詰まったボロ家だ。
木枠の引き戸は建て付けが悪く、夏は蒸し風呂で、冬は隙間風が吹き抜ける。
「はあ……まあいいわ。警察に突き出す前に、風邪引かれたら寝覚めが悪いからね」
けれど、雨露を凌ぐ屋根と、誰かを迎え入れる温もりだけは変わらず、そこにあった。
「さっさと着替えなさい。うちの……男物の服が押し入れに残ってるから」
かおるは頭を抱えながらも、青年を店の奥へと招き入れた。
「……うーん、名前が無いと不便ね……なぎさ、くんって呼ぶわね」
かおるが大きめのTシャツを差し出しながら言った。
「それじゃ、なぎさおにいちゃんだね!」
ひまりが嬉しそうに青年の周りをぐるぐると走り回る。
「……ボクはナギサ?……オニイチャン?」
「見ればわかるわよ。男物の服着せてるじゃない」
青年は、濡れた髪を拭きながら不意に首を傾げた。
「……ボクは、水の精ダヨ?」
「流石に『水の精さん』って、そのまま呼ぶ訳にはいかないわよ」
かおるは一瞬だけ遠くを見るような目をし、不思議な青年から静かに落ちる水滴を見つめた。
「昔ね、その名前の人がいたの。……もう、ここにはいないけどね」
だが、すぐにいつもの頼もしい母親の顔に戻ると、青年の背中をポンと叩いた。
「さ、着替えたら氷の仕込み手伝いなさいよ! タダ飯は食わせないんだから!」
かおるのその言葉には、喪失を抱えながらもたくましく生きる強さと、行き場のない怪しい青年をも受け入れてしまう情の深さが満ちていた。
「なぎさおにいちゃん、よろしくねーっ!!」
着替え終わった青年に向かって、ひまりが助走をつけて勢いよく飛びついた。
「わーい! おにいちゃんのカラダ冷たい! きもちいいー!」
青年の腰に抱きつき、コアラのようにしがみついて弾けるような笑顔を見せる。
「……ヒマリのカラダは、オヒサマにニテイル……」
青年は一瞬驚いたように目を見開いたが、抱きついてくるひまりの身体のあたたかさに、不思議そうに瞬きを返した。
「こらひまり、ベタベタ引っ付かないの! なぎさくんも困ってるでしょ!」
あきれ顔で叱るかおると、青年の首から腕を離さず「えへへ」とはしゃぐ ひまり。
──それが、かおるたちと、名もなき水の精霊の妙な居候生活の始まりだった。
③お皿の数は幸せの数
「じゃーん! かおる特製カレーですよ!」
水の精と名乗る謎の青年を受け入れた『なぎさ商店』──そんなこんなで夕食時。
かおるが大きな鍋を食卓の真ん中へ置くと、湯気と一緒に甘く香ばしい香りが部屋いっぱいに広がった。
「わぁーっ!やったぁ! おかあさんのカレーだ!」
ひまりは目を輝かせながら、両手をぱんと合わせる。
「あたしね、おかあさんのカレーが世界でいちばん好き!」
その言葉に、かおるは少し照れくさそうに笑った。
「はいはい。そんなに褒めても、お肉は増えないわよ」
「えーっ!」
頬を膨らませるひまりを見て、かおるも思わず吹き出す。
「ほら、冷めないうちに食べよ。いただきます」
「いただきまーす!」
二人に続いて、なぎさもぎこちなく手を合わせた。
「……イタダキマス」
目の前の皿をしばらく見つめたあと、スプーンでひと口すくい、恐る恐る口へ運ぶ。
その瞬間だった。
「……!」
なぎさの瞳が、わずかに見開かれる。
舌の上に広がる玉ねぎの甘み。野菜の旨味。あとから追いかけてくる香辛料の香り。
温かさが、ゆっくりと身体の奥へ染み渡っていく。
「……アタタカイ」
ぽつりと漏れたのは、味よりも先に感じた言葉だった。
もうひと口、またひと口。
無表情だった顔に、ほんの少しだけ驚きの色が浮かぶ。
「……水以外のモノを、オイシイと思ッタノハ……初メテダ」
かおるは優しく笑い、おかわり用のしゃもじを手に取った。
「気に入ったなら、たくさんあるから遠慮しないで食べなさい」
「ウン」
短くうなずくなぎさの隣で、ひまりが嬉しそうに笑った。
「でしょ? お母さんのカレー、おいしいでしょ!」
「うん」
得意げな声に、再び短くうなずき、食卓は笑顔で満たされた。
──なぎさがこの家へ来るまでは、食卓に並ぶ皿はいつも二つだった。
今は、少し欠けた茶碗や、年季の入ったカレー皿も、三人分が当たり前のように並んでいる。
「いただきまーす!」
ひまりが元気いっぱいに声を上げる。
一口食べるなり、ほっぺたを緩ませて満面の笑みを浮かべた。
「おいしい! やっぱり、みんなで食べるともっとおいしいね!」
その一言に、かおるは「そうだね」と優しく笑い、なぎさは二人の顔を見比べて小さく首をかしげた。
「……ミンナで食ベルと、オイシくナル?」
「なるのよ。不思議だけどね」
かおるがそう答えると、なぎさはもう一口カレーを口へ運び、静かにうなずいた。
「……ホントだ」
蝉の声が遠くで響く夕暮れ。
笑い声の混じる小さな食卓は、カレーの湯気よりもあたたかな空気に包まれていた。
④文明の利器?
──水の精である、なぎさが居候を始めて数日が過ぎた、ある朝のことだった。
「……うわっ、なにこの部屋! 蒸し風呂!? 灼熱地獄!?」
朝の準備のために居間へ入ってきたかおるは、足を踏み入れた瞬間の嫌な湿度と熱気に思わず声を上げた。
ふと壁を見上げると、古いエアコンのランプが点滅している。
リモコンの表示は『ドライ・強風・30度』。
「ちょっと、なんでドライがかかって……って、なにこれ!?」
畳の真ん中に、『何か』が転がっていた。
──いや、人だ。
たぶん。
手足は細く縮み、頬はこけて骨の形が丸分かり、目は凹み、口は半開きのまま「ア」の形で固まっている。
「ぎゃあっ!? ナギサくんが死んでるぅーーーっ!?」
全身が見事なまでにカサカサで、まるで数千年前の砂漠の遺跡から発掘された──干からびたミイラだった。
「ちょっと大丈夫!? 息してる!? 救急車!? いや待ってその前に警察!? え、うちの居間が第一発見現場になっちゃうの!?」
掃除していた箒を盛大に放り投げ、かおるはパニック状態で右往左往する。
「あ、おかあさんおはよー……。どうしたの?」
そこへ、パジャマ姿のひまりが目をこすりながらトコトコとやってきた。
「見ちゃダメひまり! トラウマになるから!」
「あ、みずのおにいちゃん、干物になってるー!」
ひまりは怖がるどころか興味津々で目を輝かせ、ミイラの真横にしゃがみ込んだ。
「せめて、ニンゲン扱いしてあげて!?」
「……キノウ、えあこん、トイウモノヲ……ツケテミタ」
床のミイラがカサカサの声で呟く。
「ドライに当たり続けたら除湿されるのは当たり前でしょ! あんた水分そのものなんだから!!」
かおるは壁のリモコンをひったくり、声を荒らげた。
ひまりが首を傾げ、ポンと手を叩く。
「あ、カッパさんもお皿かわくと元気なくなるもんね」
「カッパどころの深刻さじゃないわよ! 完全脱水症状なの!」
かおるは慌てて台所へ走り、なみなみと水の入った大容量のやかんを持って戻ってきた。
「えーい! 死なないでよーーっ!」
ばしゃっ!!
景気よく水をぶっかけた、その瞬間。
──シュワァァァァァァ……!
カラカラに乾いた超巨大スポンジが、一瞬で水分を吸い上げるような音覚が部屋中に響き渡った。
瞬く間に青年の頬がぷくーっと膨らみ、細っていた腕がしなやかに肉づき、五秒後には水も滴るいつもの涼しげな美青年が座っていた。
「……助かった」
「助かったじゃないわよ!!」
かおるは盛大に自分の頭を抱えた。
「朝起きて居間にムンクの『叫び』みたいな顔で転がってる人がいる家庭の主婦の気持ちになりなさいよ!」
「……むんく?」
「知らなくていい!!」
ひまりは復活した青年の頬を、ぷにぷにと楽しそうに突いた。
「もどったー」
「うん」
「また、干物になる?」
「たぶん」
「ふむふむ……」
ひまりは至極真剣な顔でうなずくと、かおるを見上げた。
「じゃあ、お母さん。みずのおにいちゃん、ときどきジョウロで育てよう?」
「観葉植物じゃないのよ、なぎさくんは!?」
その日から、居間のテーブルには霧吹きとジョウロが常備されることになった。
──とはいえ、毎朝ミイラを発見させられては、かおるの胃と心臓が保たない。
「なぎさくんは、とにかく水がないとダメみたいね……。だったらちょうどいいわ。市民プールの監視員のバイト、やってみなさいよ」
かおるが差し出したチラシを、青年はまだ少し湿っぽい手で受け取った。
「かんしいん……?」
「そう! 一日中水のそばにいられるし、涼しいでしょ! ついでにお給料も稼いできなさい! ボロ家だけど、自分の食い扶持くらいは自分で稼ぐの!」
──こうして青年は、顔が利くかおるの紹介で、市民プールの監視員として働き始めた。
⑤日常の波紋と『水野セイ』
──監視員として働き始めた、最初の週末。
休憩時間になると、なぎさは誰に言われるでもなく、静かなレーンの端へ身を滑らせた。
仰向けになって水面へ身体を預ける。
力を抜いた身体は、水に抱かれるようにゆっくりと揺れた。
目を閉じると、耳に届くのは子どもたちの笑い声と、水音だけ。
──水の精である彼にとって、水の中に身を浸し、波の気配に身を任せることが、己の「安らぎ」に繋がっていると改めて感じていた、──が。
(……あの家も、少し似ている)
「おーい、なぎさ! 休憩終わりだぞー!」
監視員仲間の声が飛ぶ。
「……ワカリマシタ」
なぎさは音もなく、プールから上がった。
濡れた前髪から水滴が頬を伝い、陽射しを受けた白い肌がきらりと光る。
その姿に、プールサイドの女子高生たちが思わず視線を向ける。
「ねえ……あの監視員さん、モデルさん?」
「すご……きっとハーフの人じゃない?」
しかし当の本人は、自分が見られていることなど少しも気付かず、監視台へ戻っていった。
──水沢 遥は、大学の水泳部に所属する選手だった。
高校時代は期待の選手として注目されていたが、大学に入ってからは思うように記録が伸びなくなっていた。
焦れば焦るほどフォームは崩れ、泳げば泳ぐほど体と水が噛み合わなくなっていく。
さらにその時期、身体つきが女性らしく変化したことも重なり、周囲からの心ない視線や陰口も増えていた。
『最近、胸ばっかり大きくなって、泳ぎは完全に止まったよね』
『男の目でも気にしてフォーム崩してんじゃないの?』
そんな言葉から逃げるように、彼女は大学のプールを避け、一人で市民プールに通っては黙々と泳ぎ続けていたのだった。
(あと一本……あと一本だけ)
そう自分に言い聞かせ、ターンを繰り返す。
その瞬間、
ピキッ。
「っ……!」
焦りから限界を超えて泳ぎ込み、脚に激痛が走ったのはプールの中央だった。
脚に力が入らない。
身体が沈む。
腕を動かそうとしても、水だけが指の間をすり抜ける。
(うそ……動いて……!)
水底へと沈んでいく遥。
息が苦しい。
水面が遠い。
(こんなところで……)
肺が焼けるように痛い。
(まだ……私……泳ぎた……)
必死に息を求めながら、「もうダメだ……」と意識が遠のく中で──彼女は見た。
水面を滑るように……いや、まるで水そのものと一体化して滑り込んできた青年の姿を。
水中から素早く自分の腰を抱き上げ、プールサイドへ優しく横たえ、躊躇なく適切な応急処置を行う美しい青年の顔。
触れた唇の感触と、息を取り戻した遥の胸に、激しい衝動が走り抜けた。
(※なぎさは監視員の仕事を始める前に、応急処置をしっかりと習っていたのでした)
呆然とする彼女や、騒然とする周囲のことを気にせず、監視台に戻ろうとする青年。
「はぁ…、はぁ……ちょ、ちょっと待って! あんた名前なんていうの!?」
恥ずかしさと動転している気持ちで息を荒げて詰め寄る遥に、青年はたどたどしい口調で答えた。
「ボクは……ミズ ノ セイ(水の精)……」
「みずの・せい……『水野セイくん』ね! 覚えたから!」
人間としての言葉に慣れていない彼の拙い答えを、遥は勝手に「水野セイ」という姓名だと誤解したのだった。
◇
「ねえ、セイくん。私はビキニと競泳水着、どっちが似合うと思う?」
それ以来、彼女の中で彼は『セイくん』となり、毎日のように市民プールに通っては猛アタックを開始した。
「……ワカラナイ」
「じゃあ実際に見て決めてよ」
遥は更衣室から出てくるたび、わざとらしく彼の前でくるりと回って見せた。
日焼けした健康的な肌に、水滴が光る。
「……プールで、キュウに動イテハ、イケナイ」
「もうっ! ホントに反応薄いんだから!」
──そんなやり取りが続いていた、ある日の練習終わりのこと。
何本目かのターンを終え、プールサイドで肩で息をつく遥の頭上から、なぎさがぽつりと呟いた。
「……水が、逃ゲテイル」
「え?」
「キミは水ヲ、チカラで押シ付ケテイル。ダカラ、水が散ル」
遥は言葉の意味する所がよく分からず、首をかしげた。
「じゃあ、どうすればいいのよ……」
なぎさは監視台から下り、プールの水面を指先でそっとなでた。
波紋はほとんど立たない。
「押スンジャナイ。水ト一緒二進ム。腕ヲ急ガナイ。水が手ニ集マルマで待ツ。……ソノ方が、水ハ力ヲ貸シテクレル」
最初は意味が分からず半信半疑だった遥だったが、言われた通りに息を整え、力を抜いて水に身を預けてみた。
すうっと腕を伸ばし、水が手に吸い付く感覚を待ってからかく。
(……え?)
──今までとは、手応えがまるで違った。
壁に手をつき、プールサイドに置いた時計を見る。
「うそ……」
自己ベストには届かない。
──それでも、ここ数か月まったく縮まらなかったタイムが、1秒だけ確かに更新されていた。
振り返ると、セイはいつも通り無表情で立っていた。
「今ノ方ガ、水ハ嬉シソウダッタ」
「……それ、コーチの指導より分かりにくいよ!」
遥は涙ぐみそうになるのを誤魔化すように、笑ってツッコミを入れた。
──命を救われたからだけじゃない。
誰も見ようとしてくれなかった自分の努力と、自分の泳ぎを、この人は真っ直ぐ見てくれた。
「ねえセイくん! こ、今度ふたりで美味しいご飯食べに行こ!」
遥の心の中で、彼への想いが本物の恋へと変わった瞬間だった。
「助けてくれたお礼もあるし……一緒にご飯行こう!…… 行くでしょ!?」
遥はそう言って、彼の手を強引に引っ張ろうとした。
「みんなイッショではダメなのカ……?、ナゼふたりナノカ、理解デキナイ」
「り、理解しなくていいから!」
なぎさの言葉に顔を赤らめる遥だったが……ちょうどその時、隣のレーンから外れた子供用のビーチボールが、ぽーんと弾みながら足元まで転がってきた。
持ち主の小学生が、プールサイドを走ろうとしているのを見て、遥が制止の手をあげる。
「あ、危ない。待ってて、今取ってあげるから」
遥が親切心でしゃがみ込み、ボールを拾い上げて「はい、次から気をつけてねー!」と子供に渡した──ほんの三秒ほどの出来事だった。
「…よしっ、で、ご飯なんだけど──あれ? セイくん?」
満足げに振り返った遥の手には、空気しか握られていなかった。
掴んでいたはずのひんやりとした感触は消え失せ、足元から監視台の下の排水溝に向かって、シュッと一直線に伸びる『ひとすじの濡れた水跡』だけが残されていた。
「え……? ちょっと、どこ行ったのセイくん!? 急に消えないでー!? 話聞いてよ、セイくーん!!」
遥の悲痛な叫び声がプールサイドに響き渡っていた。
◇
──夕飯前、かおるが台所でトントンと包丁を振るっていると、脱衣所の引き戸がガラッと開き、濡れ鼠のセイがぬっと出てきた。
「うわっ!? なに? どーしたの!?」
驚いたかおるが浴槽を覗くと、誰も溜めていないはずの空のバスタブから、勢いよく水がオーバーフローして床へとなだれ込み、シャワーの口からは、ドバドバと透明な水が流れたままになっていた。
かおるは慌ててバスタオルを一枚、なぎさの顔面に投げかぶせて、シャワーの蛇口を閉める。
「……なぎさくん。なんでうちのお風呂場を水没させてるの。シャワー流しっぱなしだし……」
「セイと呼ばれるから逃げた」
「……よく分からないけど、逃げ場所に人の家の風呂場を選ぶないで……」
ぽつりと言ったかおるは、小さく首をかしげる。
「ところで、セイって何?……水の精霊だから?」
「……最初に、かおるは言った。
『流石に『水の精』って、そのまま呼ぶ訳にはいかないわよ』と……だから、あれはダメな名前だと思った」
かおるは数秒黙り込み、
「違う違う、そこだけ真面目に受け取らなくていいから!、正体が他の人にバレたらダメだからよ!」
と頭を抱えた。
「あ! みずのおにいちゃん、おかえり……うわっ、水があふれてる! えへへ、お風呂場プールだー! えへへっ♪」
そこへ、おもちゃの金魚すくいセットを持ったひまりがパタパタと走ってくる。
「ひまり、遊ばないの! もう、どいつもこいつも水散らかして……!」
濡れた髪を拭きながらポカンとしている なぎさと、オーバーフローした床でバシャバシャとはしゃぐ ひまり。
「ヒマリは、水をヨロコバシテいる……」
「まったくもう……この子たちったら」
かおるは盛大なため息をつきながらも、どこか可笑しそうに口元を緩める。
──この日を境に、『水野セイ』という名は、夏の市民プールで少しずつ噂になっていき、その小さな波紋が、やがて街中へ広がっていくことを、この時はまだ誰も知らなかった。
⑥ 終、クレヨンの絵本と夢のつづき
「──でね! なぎさくんじゃないセイくんは逃げて、ばしゃーん!ってお風呂場がプールになっちゃったの!」
夕飯を終えたばかりの居間。
五歳のひまりは、食卓の上に広げた画用紙を両手でバンバンと叩きながら、目を輝かせて熱弁を振るっていた。
「あらあら。なぎさくん、水泳のお姉さんから逃げちゃったのね?」
「そうだよー! お風呂場に隠れたの! それでね、あたしが金魚すくいするの!」
身乗り出して身振り手振りで語るひまりの姿を、かおるはクスッと笑いながら見つめていた。
ひまりが指先を真っ青にして描いた画用紙には、丸くて青い胴体に棒のような手足がついた『みずのおにいちゃん』。
そしてその周りには、カレーの皿、ミイラみたいな干物、プールの波と水着のお姉さん、そしてお風呂場でバシャバシャとはしゃぐ小さな女の子の絵が、クレヨンで画面いっぱいに描かれていた。
ひまりが夕方からずっと集中して描いていたのは、彼女の頭の中に広がる、最高に愉快でちょっと切ない『なぎさおにいちゃん』の大冒険だったのだ。
「……そっかぁ。なぎさくん、プールで女の子を助けて『水野セイ』になっちゃったんだ」
「うん! でもね、おかあさんのカレーも食べたくなったんだよ!」
「ふふ、食いしん坊な水の精さんね。……はい、お話しして喉乾いたでしょ」
かおるが麦茶の入ったコップを置くと、ひまりは「ごくごく」と勢いよく飲み干し、ぷはぁっと息を吐いた。
「お母さんのカレーも食べて、なぎさおにいちゃんのお話もいっぱいして……あぁー、たのしかった!」
満足そうに大きく腕を伸ばしたひまりだったが、次の瞬間、ふわぁぁ……と大きなあくびがひとつこぼれた。
ずっと絵を描いて、かおるに夢中で物語を語り、お腹いっぱいカレーを食べた身体に、一気に心地よい眠気が押し寄せてきたらしい。
「ほらほら、目がくっつきそうよ。お布団敷こうね」
「ん……あたし、まだ……お話し……できるもん……」
強がりながらも、ひまりの頭はこてんと畳の上へ落ちていく。
抱きかかえていた画用紙をぎゅっと胸に抱きしめたまま、ものの数秒で「スースー」と規則正しい小さな寝息が聞こえ始めた。
「……たくましすぎるわね、ひまりの想像力は」
かおるは苦笑しながら押し入れからお布団を引っ張り出し、眠りについたひまりの小さな身体を優しく寝かしつけた。
そして、ひまりの手からこぼれ落ちそうになっている画用紙を、起こさないようにそっと引き抜く。
画用紙の端には、拙いひらがなで書かれた『みずのおにいちゃん』の文字。
かおるはその文字を指先で優しくなぞりながら、ふっと柔らかく目を細めた。
「……なぎさ、か」
ひまりが描いた、架空のおにいちゃん。
けれどその名前は、かつてこの家で一緒に暮らし、いつの間にか遠くへ行ってしまった大切な人の名前と同じだった。
ひまりはまだ幼くて、その人の顔も声も覚えていないはずだ。
それでも、血の繋がりか、それともこの家に残るかすかな面影を感じ取ったのか──ひまりの描く『なぎさおにいちゃん』は、どこかあたたかくて、少し寂しがり屋で、とびきり愛おしい存在として描かれていた。
「ふふ……本当にこんな風に、ふらっと戻ってきてくれたら賑やかでいいのにね」
かおるはぽつりと呟くと、画用紙を大切に折り曲げないよう、居間の棚の引き出しへと仕舞った。
網戸越しに届く、夏の夜風。
かおるは小さく息を吐くと、押し入れから薄い毛布を出してきた。
ひまりの小さな身体に優しくかけてやり、そのおでこにそっと手を当てる。
ひまりは毛布の温もりに包まれながら、満足そうに「んぅ……」と小さな声を漏らし、寝返りを打った。
「……なぎさおにいちゃん……また、あそぼうね……」
寝言とともにこぼれた小さな言葉に、かおるは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
首振りを繰り返す古い扇風機の音と、ひまりの小さな寝息が部屋を穏やかに満たしていく。
かおるは扇風機のスイッチを風量「弱」に切り替えると、娘の隣にゆっくりと横たわった。
「おやすみ、ひまり……」
ひまりの手元に残された青いクレヨンの甘い残り香りと、どこか清らかな水の気配に包まれながら──なぎさ商店の夜は、どこまでも優しく更けていくのだった。
(作者より)
連載ぽいけど、残念ながら続かない!ヽ(=´▽`=)ノ<自分の体力と気力と企画期限が尽きました!(爆)
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
……というわけで、連載風に勢いよく駆け抜けてまいりましたが、作者の気力・体力・企画の締め切りがトリプルで限界を迎えたため、まさかの「ひまりちゃんの夢&創作お話でした!」というウルトラCで完結(?)とさせていただきました(爆)。m(_ _)m<すいません!!
実は構想段階では、あのプールサイド逃走劇のあと、「水野セイ」という謎のイケメンが街を歩いていると、本人は相変わらずマイペースに(人助けをして)過ごし、いつの間にか勘違いした女性たちが次々と恋に落ちていく『無自覚天然ハーレム展開』へ突入する予定でした(笑)(*´艸`*)
遥ちゃんをはじめ、女性陣が「私のセイくんよ!」「いいえ私を助けてくれたのよ!」と勝手に火花を散らす横で、本人は「……水野セイという名前はダメ」&カレーのことしか考えていない……というカオスな日常をお届けしたかったのですが、それはまたいつか、作者のHP&MPが全回復した時の幻の続編ということで……!(@_@;)
ひまりちゃんの愛らしい想像力と、かおるさんの抱く少し切ない面影。ひと夏のさわやかな余韻とともに、皆様の心に少しでも涼しい風が吹いたなら幸いです。
お付き合いいただき、本当にありがとうございました!(人*´∀`)。*゜+




