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私のカードで浮気相手に貢いでいた婚約者、追加カードを止めた日、彼の会社まで止まりました

作者: 熾星
掲載日:2026/07/19


1.電話の向こうの女


 会議が終わった直後、桐生玲奈のスマホが鳴った。会議室を出たばかりで、腕にはノートパソコンを抱えたままだった。画面には次の資金調達審査に使う資料が開いたままになっている。着信表示は、白金台にある美容クリニックの番号だった。


「桐生玲奈様でいらっしゃいますか。こちら、白金台美容クリニックでございます。先日、小宮山心愛様が桐生様名義の家族カードでお支払いになった施術の件で、次回のご予約も高橋様のご連絡先でよろしいか、確認のお電話を差し上げました」


 玲奈は足を止めた。廊下の突き当たりにあるガラス窓に、自分の顔が映っている。化粧は崩れていないのに、表情だけが少しずつ冷えていった。


「……どなたの予約ですか?」


「小宮山心愛様でございます。桐生様と高橋悠真様もご存じだとうかがっておりますので、費用は追加カードで、と」


 高橋悠真は、玲奈と三年同居している事実婚の相手だった。婚姻届こそ出していないが、周囲には婚約者として紹介していた。起業当初、資金繰りに苦しんでいた悠真のために、玲奈は自分名義のクレジットカードに追加カードを発行し、彼に持たせていた。接待や会社の急な支払いに使えるようにするためだった。


 あのカードは、もう形だけのものだと思っていた。


 それが今も、別の女のために使われていたなんて。


「予約はキャンセルしてください。その追加カードも、本日中に利用停止にします」


 電話の向こうでスタッフが一瞬言葉に詰まり、慌てて謝罪した。玲奈は最後まで聞かずに通話を切った。二分もしないうちに、今度は別の番号から着信が入った。


「桐生様でいらっしゃいますか。こちら、星見丘別荘地管理事務所でございます。九号棟につきまして、本日夜、誕生日パーティー用のケータリング車両と花束配送の入場申請が出ております。申請者は小宮山心愛様です。九号棟の所有者様のご連絡先が桐生様のままですので、規定により確認のお電話を差し上げました」


「誕生日パーティー?」


「はい。備考欄には、高橋様が小宮山様のためにご用意されたサプライズ、と記載されております」


 その瞬間、玲奈は小さく笑った。星見丘別荘地九号棟は、悠真と暮らし始めた頃に買った家だった。彼の母親の体調が悪く、老後くらい静かな場所で過ごさせたいと言われ、玲奈は自分の貯金で頭金を出した。名義は玲奈のまま、高橋家に使わせていた。


 その家で、彼は別の女の誕生日を祝おうとしている。


 玲奈は窓辺に寄り、ゆっくり目を閉じた。数秒後、悠真に電話をかける。出たのは彼ではなく、甘すぎる女の声だった。


「玲奈さん? すみません、さっきユキちゃんをペットサロンに連れていったついでに、登録の電話番号を私のものに変えておいたんです」


 語尾がわずかに跳ねる。謝っているようで、勝ち誇っているようでもあった。


「悠真、今シャワー中です。呼びましょうか?」


 玲奈は二秒だけ黙った。


 そして通話を切り、スマホの銀行アプリを開いた。その場で追加カードを利用停止にした。




 夜十時、悠真が都心の高級分譲マンションに帰ってきた。そこは玲奈が独身時代に購入した部屋で、登記上の所有者は最初から最後まで玲奈ひとりだった。玄関の灯りはついているのに、リビングはいつもより静まり返っていた。悠真が靴を脱いで上がると、玲奈はソファに座っていて、目の前のローテーブルには鍵の束が置かれていた。


 玲奈はその鍵を、テーブルの中央へ押し出した。


「高橋。出ていって」


 悠真は眉をひそめた。目の奥に一瞬だけ後ろめたさがよぎり、それを隠すように苛立った表情になる。


「また何だよ」


 玲奈は彼を見つめた。声は低く、静かだった。


「小宮山心愛の美容代。星見丘の誕生日パーティー。ユキのペットサロンの登録番号。どれから説明する?」


 悠真の顔色がわずかに変わった。彼はネクタイを緩め、まるで大したことではないと言いたげに笑った。


「心愛はまだ若いんだよ。少し距離感が分かっていないだけだ。猫の世話もしてくれているし、会社の雑用だって手伝ってくれている。そんな子に目くじら立てることか?」


「じゃあ、その距離感が分かっていない子と暮らせばいい」


 悠真は言葉を失った。次の瞬間、表情が硬くなる。


「玲奈、いい加減にしろよ。ユキの世話を頼んだだけだろ。何をそんなに騒いでいるんだ」


 玲奈は答えなかった。立ち上がり、寝室へ向かう。以前のように説明もしなければ、怒鳴りもしなかった。数分後、彼の服と日用品を詰めた袋を玄関脇に置いた。悠真はリビングの真ん中に立ったまま、ようやく怒りを顔に浮かべた。


 そのとき、玲奈のスマホが震えた。銀行からの通知だった。小宮山心愛が、ユキのために高価な輸入缶詰を買おうとして、追加カードの決済に失敗していた。玲奈は画面を悠真に向ける。


「カード、止めたから」


 悠真の顔が一気に青ざめた。


「たかがカード一枚だろ。そこまでやるのかよ」


 彼は玄関棚の上にあった招き猫の置物を払い落とした。陶器の割れる音が、夜の部屋に鋭く響く。それは悠真の会社が初めて黒字を出した日に、玲奈が贈ったものだった。床に散った欠片を見た瞬間、玲奈の中に残っていた最後の温度が消えた。


「ここは私の家。今夜から、あなたに鍵も居住権もない」


「俺を追い出すつもりか?」


 悠真は鼻で笑った。信じられない冗談を聞いたような顔だった。


「内装費に二百万円出した。俺にもこの部屋の権利はある」


 玲奈はファイルから不動産登記の資料と、当時の内装費に関する合意書を取り出し、彼の前に置いた。


「内装費は、共同生活に伴う任意の負担として処理すると書いてある。登記名義は最初から私。ついでに言えば、この三年間、あなたの会社の中核アルゴリズムは私の利用許諾で動いていた。使用料は一円も払っていない」


 玲奈は目を上げた。


「精算したいなら、弁護士を通してゆっくりやりましょう」


 悠真の顔が赤く染まった。彼はしばらく玲奈を睨みつけ、ようやく歯の隙間から言葉を押し出した。


「……桐生玲奈。お前、そこまでやるんだな」


 玄関のドアが乱暴に閉まった。玲奈は空っぽになったリビングに座り、涙は出なかった。鍵交換の業者に連絡し、決済履歴、通話記録、メッセージのスクリーンショットをすべてクラウドに保存した。


 午前三時、小宮山心愛のSNSアカウントに新しい投稿が上がっていた。写真の中で、悠真は肩を出したままソファに寄りかかり、その腕の中でユキが眠っている。投稿には、こう添えられていた。


【ユキ、パパの腕の中でぐっすり。これからは三人家族だね】


 玲奈は静かにスクリーンショットを撮り、顧問の三浦弁護士に送った。


 この戦いは、まだ始まったばかりだった。



2.親族LINEの“いい子”


 翌朝、玲奈は実家に戻った。母は台所で朝食の支度をしている。まな板の上には握ったばかりのおにぎりと卵焼きが並んでいた。玄関の音に気づいても、母は振り返らなかった。


「玲奈、帰ってきたの? ちょうどよかった。悠真くん、私の卵焼きが好きでしょう。あとで持っていってあげて」


 玲奈は食卓に座り、きれいに詰められた弁当箱を見つめた。


「お母さん。私、悠真と別れた」


 台所の音が止まった。母は箸を持ったまま飛び出してきた。父もリビングから顔を上げ、眉間に深いしわを寄せる。


「どうして急にそんなことを言うんだ」


 父の声は低かった。


「またお前が強く出すぎたんじゃないのか。悠真くんは今、会社を大きくしているところだ。周りに女のひとりやふたり寄ってきてもおかしくない。そんな時期に騒いだら、男は外へ逃げるぞ」


 玲奈は両親を見つめた。笑いそうになったが、笑えなかった。


「浮気していたの。私のカードで別の女の美容代を払い、私の別荘でその女の誕生日会を開こうとして、私の猫まで預けていた」


 父は湯呑みを音を立てて置いた。


「男が外で仕事をしていれば、多少の付き合いはある。最後に家庭へ戻ってくるなら、それでいいだろう」


 玲奈の指が、ゆっくりと拳を作った。彼らにとって、娘の尊厳より、高橋悠真の会社の数字のほうが大事なのだ。


「私は、許可をもらいに来たわけじゃない」


 立ち上がろうとしたとき、スマホが立て続けに震えた。親族LINEに、悠真が写真を数枚投稿していた。そこには心愛がユキを抱き、柔らかく微笑んでいる姿が写っている。悠真のメッセージが続いた。


【心愛がユキの世話をしてくれている。助かっているよ】


 すぐに親戚たちの返信が流れ始めた。


【優しそうな子じゃない】


【成功する男のそばには、支えてくれる女が必要よ】


【玲奈は昔から強すぎるところがあるから、少し反省したほうがいい】


 玲奈はその文字を見つめた。胸の奥に重いものが落ちてくる。悠真の動きは、思っていたより早かった。自分を強すぎる婚約者に追い詰められた男に仕立て、心愛を健気で気の利く女に仕立て上げている。親族の誰ひとり、何があったのか玲奈に聞こうとはしなかった。


 玲奈はLINEに一文だけ打ち込んだ。


【裏切り者同士、どうぞお幸せに。私には二度と連絡しないでください】


 送信して、グループを抜けた。親戚全員の連絡先をブロックする。すると母が慌てて近づき、玲奈のバッグをつかんだ。


「何をしているの。弟の就職だって、悠真くんの人脈を頼るかもしれないのよ」


 玲奈はその手を振り払った。


「悠真が起業したときの三千万円、私が自分のマンションを担保にして用意したお金だって忘れたの?」


 母の顔色が変わった。


「私が利用許諾を取り消し、資金も引き上げたら、あの人は来月のオフィス賃料も払えない」


 両親はようやく黙った。その目にあるのは、娘への心配ではなかった。計算が狂ったことへの焦りだけだった。母が口を開き、声を少しだけ落とす。


「でも、そんな急に切るなんて……」


 玲奈はもう母を見なかった。


 実家を出て、そのまま高橋悠真の会社へ向かった。あの会社は、悠真が自分のものだと信じている土台だった。


 そして、玲奈が彼に貸していた舞台でもあった。



3.貸していた舞台


 高橋システム株式会社は、新しいオフィスビルの最上階に入っていた。玲奈がエレベーターを降りると、受付のそばに心愛が立っていた。玲奈がまだ袖を通していない限定品のコートを着て、花束を会議室へ運ぶよう社員に指示している。玲奈に気づくと、彼女は顎を少し上げ、甘い笑みを浮かべた。


「あら、玲奈さんじゃないですか。後悔して、悠真に会いに来たんですか?」


 玲奈の視線は、そのコートに落ちた。


「それ、私が自分の誕生日に買ったものだけど」


 心愛の表情が一瞬こわばる。すぐにまた笑った。


「でも悠真が言っていましたよ。玲奈さんには少し地味で、私にちょうどいいって」


 周囲の社員たちが俯いて笑った。誰も止めようとしない。玲奈は彼らの顔を覚えていた。起業当初、賞与を出し、悠真の代わりにチームをつなぎ止め、資金繰りが苦しいときには交通費や昼食代まで立て替えた相手たちだ。今、彼らの目は玲奈を一つの見世物のように見ていた。


 玲奈は挑発に乗らず、悠真の執務室へ向かった。すると心愛が前に出て、手にしていた熱いコーヒーを自分のスカートにこぼした。コーヒーは玲奈には触れていない。それでも、彼女は大きな声を上げた。


「玲奈さん、どうして押すんですか?」


 執務室のドアがほとんど同時に開いた。悠真が飛び出してくる。床のコーヒーを見ることも、玲奈に事情を聞くこともなく、彼は心愛の前に立ち塞がった。


「玲奈、家で騒ぎ足りずに、会社まで来たのか」


 彼に押され、玲奈の肩が廊下の壁にぶつかった。痛みが腕へ広がる。けれど玲奈は怒鳴らず、手も上げず、ただ床のコーヒーを見下ろした。心愛は悠真の背中に隠れ、目を潤ませている。


「悠真、玲奈さんを責めないで。きっと、感情的になってしまっただけだから」


 悠真の顔がさらに冷えた。


「少しは心愛を見習えよ」


 玲奈はバッグから紙ナプキンを取り出し、心愛に差し出した。


「シミになる前に拭いたほうがいいですよ」


 悠真は言葉を失った。彼はきっと、玲奈が叫び、心愛を叩き、彼らが望む“取り乱した女”になると思っていたのだろう。けれど玲奈は静かだった。その静けさが、彼の目に不安を浮かべさせた。


 玲奈は封筒から正式な通知書を取り出し、悠真の前に置いた。


「技術利用許諾の解除予告です。三浦弁護士から、高橋システムの代表メールアドレスと登記上の本店所在地にも送付済みです」


 悠真は中身も見ずに、それを二つに破いた。


「こんな脅しが通用すると思っているのか」


 紙片が床に散る。玲奈は表情を変えなかった。


「信じなくても構わない。今日の午後六時、中核アルゴリズムのクラウド認証キーを停止します。桐生アルゴリズムを使っている全サービスは、いったん下げてください」


 悠真の顔色が、はっきり変わった。心愛が彼の腕をつかむ。さっきまでの勝ち誇った目に、警戒が混じった。


 玲奈はわずかに微笑んだ。


「小宮山さんは若くて可愛い。好きなら、大事にすればいい」


 彼女はエレベーターへ向かった。扉が閉まる直前、三浦弁護士に電話をかける。声は低く、迷いはなかった。


「解除通知は予定どおり有効にしてください。出資者と主要取引先にも、高橋システムが今後、私のアルゴリズムサービスを利用できない旨を通知して」


 玲奈は一度言葉を切った。


「取引先にも弁護士名義で書面を出してください。今後、私は高橋システムに対して新たな個人保証も与信補完もしません。過去の保証については、契約に基づいて順次精算します」


 契約には、無断転用や未払いがあった場合、玲奈側がクラウド認証キーを停止できる条項があった。彼はそれを読みもしなかっただけだ。


 彼が最も得意げに立っているときに、足元の床が自分のものではなかったと知ればいい。かつて玲奈は、尽くせばいつか分かってもらえると思っていた。今なら分かる。良心のない人間に、温情は意味を持たない。貸したものを一つずつ返してもらって、初めて彼は自分が何も持っていなかったことに気づくのだ。



4.この家は誰のもの


 三日後、玲奈は仲介業者と買主を連れて、マンションの内見に向かった。この部屋はもう売ると決めていた。あまりにも多くの嫌な記憶が染み込んでいる。壁も床も、自分がどれほど価値のない男を生活に入れてしまったのかを、いちいち思い出させた。


 玄関を開けると、リビングから笑い声が聞こえた。悠真はまだ出ていなかった。心愛は玲奈のソファに座り、シルクのワンピース姿で、リビング中央の家具を指差して甘えている。


「悠真、このソファ、ちょっと冷たい感じがする。今度はピンクにしない?」


 悠真は彼女の頭を撫でた。


「いいよ。好きにすればいい」


 玲奈は玄関に立ったまま、ゆっくり笑った。


「家具を選ぶ前に、まず出ていくべきじゃない?」


 悠真が振り返り、顔を険しくした。


「他人を連れて何をしに来た」


 買主は目の利く中年女性だった。室内の状況を見て、すぐに眉をひそめる。


「桐生さん。この物件は、まだ居住者がいる状態ですか?」


 心愛が先に口を開いた。声だけは無邪気だった。


「奥様、何か勘違いされていませんか。ここは悠真の家です」


 玲奈は不動産登記の資料をテーブルに置いた。


「所有者を確認してください」


 悠真はそれを一瞥し、開き直ったような顔になった。


「内装費を出したのは俺だ。住む権利くらいある」


「退去通知は弁護士を通して送付済みです。今日は私物の確認と搬出をします。荷物は搬送業者に預け、保管費用はあなたへの請求に加算します」


 悠真が何か言おうとしたとき、玲奈の目がバルコニーへ向いた。そこにはユキのベッドとキャリーケースが置かれていたはずだった。今は、キャリーだけが空のまま残っている。


「ユキは?」


 心愛は新しいネイルを眺めながら、口元だけで笑った。


「あの猫? 毛が落ちるし邪魔だから、知り合いのところに預けました。純血種なら繁殖に使えるって聞いたので」


 玲奈の頭の中で、何かが鈍く鳴った。ユキは手術を終えたばかりで、体調が戻りきっていない。あの猫は悠真と暮らした三年だけでなく、玲奈が起業当初の眠れない夜を耐える間も、そばにいてくれた存在だった。彼らは、猫一匹さえ守らなかった。


「住所」


 心愛は楽しそうに笑った。


「教えません」


 玲奈は手を上げ、心愛の頬を打った。リビングが静まり返る。悠真が近づいてきたが、玲奈は身をかわした。彼らとこれ以上言い合うつもりはなかった。すぐにスマホを開き、ユキの首輪につけていたGPSを確認する。位置は郊外の古い倉庫で止まっていた。


 玲奈は歩き出しながら、警察に通報した。


「無登録の繁殖業者と、動物虐待の疑いがあります。今から現地へ向かいます。警察と動物愛護団体の協力をお願いします」


 背後で悠真が怒鳴った。玲奈は振り返らなかった。


 倉庫は郊外にあった。外壁は色あせ、入り口には古いケージが積まれている。玲奈が着いたとき、警察はまだ到着していなかった。半分開いたシャッターの隙間から、中の様子が見えた。狭いケージに何匹もの猫が閉じ込められ、消毒液の刺すような臭いが漂っている。ユキは隅で丸まり、目に力がなく、体には雑な固定具が巻かれていた。


 玲奈の胸が強く痛んだ。けれど中に飛び込むことはしなかった。スマホのカメラを向け、現場の映像を残す。数分後、警察官と動物愛護団体のスタッフが到着し、倉庫の責任者は言い訳を並べたが、すぐに事情を聞かれることになった。


 スタッフに抱き上げられたユキは、弱々しい前足を玲奈の手に乗せた。玲奈は顔を近づけ、額にそっと触れる。


「もう大丈夫。迎えに来たよ」


 そこへ悠真と心愛が遅れてやってきた。心愛の頬にはまだ赤い跡が残っていた。警察を見て、彼女の顔が青ざめる。悠真は怒りをすべて玲奈に向けた。


「心愛を叩いたこと、ただで済むと思うなよ」


 玲奈はユキを抱いたまま、低く言った。


「無登録の繁殖業者にこの子を渡したとき、死ぬかもしれないとは思わなかったの?」


 悠真は冷たく笑った。


「猫一匹だろ。子どもも産めないくせに、今度は猫のために騒ぐのか」


 心愛がすぐに悠真の腕に絡み、バッグから産婦人科の診断書を取り出した。


「悠真、もうやめよう。先生に言われたの。赤ちゃん、八週目だって」


 悠真が固まった。次の瞬間、顔に歓喜が広がる。


「本当か?」


 心愛はうなずいた。目には得意げな光がある。悠真は玲奈を振り返り、ようやく勝ったと言いたげな顔をした。


「聞いたか。俺には子どもができた。星見丘の別荘には心愛を住ませる。高橋家にふさわしいのは、彼女だ」


 玲奈は二人を見つめ、ふっと笑った。その笑い声は小さかったが、悠真の眉をひそめさせるには十分だった。


「何がおかしい」


 玲奈はユキをスタッフに預け、指先を拭いた。そしてバッグから、折りたたんだ医学検査報告書のコピーを取り出した。周囲に見せることはせず、悠真だけに差し出す。


「三年前、なかなか妊娠しなくて、二人で検査に行ったよね。覚えている?」


 悠真の表情が少しずつ固まっていく。玲奈は診断のページを開いた。そこには、先天性無精子症と記されていた。心愛の顔から血の気が引く。


 玲奈は悠真に近づき、二人にしか聞こえない声で言った。


「おめでとう。この子が証明してくれたことがある」


 彼の顔が真っ白になっていくのを見つめた。


「裏切られていたのは、私だけじゃなかったみたいね」



5.第五話 噛み合う二人


 倉庫の中は、警察官とスタッフがやり取りする声だけになった。悠真は報告書を凝視している。白目が赤くなり、ゆっくり心愛へ顔を向けた。心愛は一歩後ずさり、唇を震わせる。


「悠真、嘘よ。玲奈さんがあなたを騙そうとしているだけ」


 玲奈は報告書をバッグへ戻した。


「本当かどうか、自分で病院へ行って確かめればいい」


 悠真はそれ以上何も聞かなかった。心愛の肩を乱暴につかむ。警察官がすぐに割って入った。心愛は泣き叫び、悠真が自分を傷つけようとしたと訴える。悠真は子どもの父親が誰なのかと怒鳴った。


 玲奈はユキを抱き直し、その光景を冷めた目で見ていた。かつて二人は並んで玲奈を踏みつけた。今は、たった一枚の報告書で互いを引き裂いている。


 倉庫の責任者は警察に連れていかれた。心愛は無登録の繁殖業者にユキを預け、動物虐待に関与した疑いで事情を聞かれることになった。悠真には、現場での暴力的な行為とマンションへの不法な居座りを理由に、玲奈の住居へ近づかないよう弁護士から正式に通知が送られた。


 玲奈がマンションに戻ると、搬送業者がすでに下で待っていた。彼女は悠真の荷物をゴミのように捨てたりはしなかった。一点ずつ写真を撮らせ、記録を残し、箱詰めして一時保管所へ送った。スーツ、パソコン、腕時計、成功した経営者を演出するための小物が、次々に部屋から運び出されていく。


 ここは、玲奈の家だった。


 ようやく、空気まで取り戻した気がした。


 夕方、三浦弁護士から連絡が入った。高橋システムの主要取引先数社には、利用許諾解除の通知が届いている。玲奈のクラウド認証キーに依存していたサービスは広範囲で不具合を起こし、出資者は緊急説明会を求め、取引先は未払い分の支払いを迫っていた。


 すぐに悠真から電話がかかってきた。玲奈は出なかった。しばらくして、玄関の外でドアを叩く音がした。厚い扉越しに、悠真の声がみっともなく響く。


「玲奈、開けろ。こんなことできるわけないだろ。あれは俺の会社だ」


 玲奈は扉の内側に立ち、静かに答えた。


「私の技術よ」


「悪かった。玲奈、頼む。認証キーを止めないでくれ。あれは俺の人生なんだ」


「いいえ。私の人生よ。あなたは三年間、借りていただけ」


 外が数秒だけ静まった。次に聞こえた声は、さっきよりずっと低かった。


「本気で俺を殺すつもりか」


 玲奈はドアを開けなかった。


「私は、私のものを返してもらっているだけ」


 警備員がすぐに来て、取り乱した悠真を連れていった。玲奈は荷物を持って下へ降り、しばらくホテルに移るつもりだった。外は雨だった。悠真は濡れた地面に膝をつき、高価なスーツを泥で汚していた。


 もう、社長には見えなかった。


 ただ、化けの皮が剥がれた男に見えた。


 その夜、彼は家を失い、ありもしない子どもを失い、会社を動かしていた未来まで失った。


 そして玲奈は、自分のものを取り戻した。



6.瓦礫の上の買収


 高橋システムが崩れるのは、玲奈の想像より早かった。中核アルゴリズムの利用許諾を失い、主力サービスは次々と更新不能になった。顧客は損害賠償を求め、出資者は次の資金投入を凍結し、銀行は融資条件の再審査を始めた。違約金の穴を埋めるため、悠真は会社の設備を安く手放すしかなくなった。


 玲奈は新会社の仮オフィスで、オークション情報を見ていた。彼女はすでに、桐生アルゴリズム株式会社を設立している。これまで高橋システムの名で動かしてきたプロジェクトは、ようやく本来の持ち主のもとへ戻ってきた。


 佐伯がデスクのそばで指示を待っていた。彼女は玲奈の秘書兼法務アシスタントで、弁護士との連絡、外部との調整、買収関係の手続きを担当している。口数は少ないが、必要な資料を必要な時に必ず揃えてくれる人だった。


「直接こちらの名前が出ない法人で入札して」


 玲奈はコーヒーを手に取った。


「価格はできるだけ抑えて。彼は今、現金が必要だから」


「承知しました」


 悠真が誇っていたサーバー、ワークステーション、検証用機材が、解体された家具のようにオークションに並んでいた。数日後、それらは安値で落札され、玲奈の新会社の倉庫へ運び込まれた。


 舞台は崩れた。


 大道具だけが戻ってきた。


 役者はもう、そこに立つことができない。


 心愛の状況も、よくはなかった。彼女は若い社長を捕まえたつもりでいたのだろう。けれど一夜にして、悠真は借金だらけの男になった。取引先や債権者からの電話を避けるため、彼の口座に残っていたわずかな現金を持ち出し、数日間姿を消した。


 しばらくして、玲奈は商業施設で彼女を見かけた。心愛は安いコピー品のコートを着て、化粧品売り場で試供品を試していた。かつて玲奈の限定コートを着て会社で勝ち誇っていた女は、今やライトの下で疲れ切った目をしている。


 玲奈は何も言わなかった。ただ心愛の目の前で、一番高いスキンケアセットの会計を淡々と済ませた。店員が笑顔で頭を下げる。


「桐生様、お車までお運びいたします」


 心愛は棚の陰から、嫉妬を隠せない目で玲奈を見ていた。近づこうとしたが、商業施設の警備員に止められ、会員証の提示を求められていた。玲奈は振り返らなかった。


 何も言わないことが、いちばん相手を傷つけることもある。


 数日後、悠真が桐生アルゴリズムのビルの前に現れた。髭は伸び、スーツはしわだらけで、安い酒の臭いがした。玲奈が出てくると、彼はその場で膝をつき、彼女のスカートの裾をつかもうとした。


「玲奈、頼む。もう一度だけチャンスをくれ」


 警備員が前に出て彼を遮った。玲奈は階段の上から、かつて愛した男を見下ろした。佐伯に合図をし、小さな箱を渡させる。


 中に入っていたのは、欠けた招き猫だった。悠真があの日、床に叩きつけたものを、玲奈が拾わせて接着させた。ひびは残っている。どれだけ繕っても、元には戻らなかった。


「持っていって」


 悠真が顔を上げた。目にかすかな期待が宿る。


「玲奈……」


「誤解しないで。壊れたものは、もう使えないって思い出してもらうため」


 玲奈は車に乗り、二度と彼を見なかった。人は泥の底まで落ちて、初めて自分が誰の肩の上に立っていたのかを思い出す。


 けれど、遅すぎる後悔ほど軽いものはない。



7.家族という名の請求書


 玲奈の両親が再び訪ねてきたとき、弁当も卵焼きも持っていなかった。持ってきたのは、困り果てた顔だけだった。母は応接室で紙コップを握り、恐る恐る口を開く。


「玲奈。悠真くんもあんなに追い詰められているのよ。一度くらい助けてあげてもいいんじゃないの。三年も一緒にいたんだから、情くらいあるでしょう」


 玲奈は父を見た。父はため息をつき、その疲れた顔の中にまだ打算を残していた。


「彼が完全に破産したら、お前の弟の縁談にも響く。前の婚約者がああなったと聞けば、うちと付き合いたい家なんてなくなる」


 玲奈は思わず笑いそうになった。結局、弟のためなのだ。彼女はバッグから書類の束を取り出し、両親の前に置いた。


「あなたたちの大事な息子が、違法賭博とクレジットカードの現金化で作った借金。総額五百万円。私は一度だけ肩代わりした」


 母の目が、一瞬だけ明るくなった。その口が開く前に、玲奈は続けた。


「今、その債権は弁護士事務所が管理している。これ以上私に接触するなら、正式に通知を出してもらう。必要なら警察にも相談する」


 母の顔が青ざめた。


「実の弟なのよ。見捨てるの?」


 玲奈は立ち上がった。


「先に私を姉だと思わなかったのは、あの子のほうよ」


 彼女はドアを指した。


「帰って」


 両親はうなだれて出ていった。それから二度と訪ねてこなかった。玲奈は古い番号を解約し、親族LINEもすべて断った。実家の情報は、佐伯が必要に応じて選別して報告してくれたが、玲奈はたいてい途中で止めさせた。


 両親はその後、弟の後始末のために実家を担保に入れたらしい。弟は傷害事件で勾留された。親戚たちは今度は両親を責め、同じLINEで、昔の玲奈は親孝行だったと懐かしんでいた。玲奈はもう、それを読むこともなかった。


 血を吸われながら、生んでくれてありがとうと感謝し続けられる人間なんていない。




 ユキの体は少しずつ回復した。陽の当たる窓辺で伸びをし、青い目で静かに外を見る。人間の世界の計算も、裏切りも、利益も、あの子には分からない。ただ、自分をケージから抱き上げてくれた人と、震えているときに頭を撫でてくれた手だけを覚えている。


 玲奈は古いマンションを売却した。その売却益の一部を動物愛護団体に寄付し、残りは新会社の研究開発費に回した。手元に残したものは多くない。ユキが最初に使っていた古い首輪だけを、彼女は箱にしまった。


 それは弱さではない。


 かつて本気で生きようとした証だった。




8.魚は自分から針を飲んだ


 悠真はしばらく姿を消した。郊外の古い木造アパートに移ったらしい。壁紙は黄ばみ、室内は湿っぽく、キッチンには一口コンロしかない。高層ビルのオフィスで資金調達を語っていた男は、今ではコンビニ弁当に半額シールが貼られる時間を待っていた。


 彼が追い詰められた頃、口座に突然五十万円が振り込まれた。それは玲奈が与えた金ではない。三浦弁護士が、警察と相談のうえで追跡可能な形にした資金だった。警察は悠真と心愛の脅迫めいたやり取りをすでに把握していたが、具体的な行動を確認する必要があった。玲奈は違法な盗聴などしていない。送られてきた脅迫メッセージ、音声、別荘周辺での不審な徘徊記録を、すべて弁護士と警察に提出していただけだった。


 悠真は、それを玲奈がまだ自分に未練を持っている証拠だと思い込んだ。小さな居酒屋で数人の“友人”を集め、顔を赤くして笑っていた。


「玲奈はまだ俺を愛している。この金が証拠だ」


 周囲は彼に調子を合わせ、もう一度返り咲けると持ち上げた。実際には、そのうち何人かは債権者側の調査員で、すでに彼の発言を弁護士へ渡していた。悠真だけが何も知らなかった。


 数日後、心愛が再び現れた。顔には傷があり、服も安っぽくくたびれている。彼女は悠真の前に跪き、息が詰まるほど泣いていた。


「悠真、ごめんなさい。本当にあなたの子なの。お医者様が、奇跡みたいなこともあるって……」


 彼女は偽造した診断書を差し出した。悠真はそれを信じた。人は絶望すると、自分をもう一度立ち上がらせてくれる嘘なら何でも信じたがる。それが藁ではなく、毒蛇だとしても。


 二人はすぐに、玲奈から金を取る方法を話し始めた。過去に玲奈がマンションを担保にして悠真を支えたこと、会社を立ち上げるまでの詳細を世間にばらすと脅してきた。玲奈は男を利用してのし上がっただけだ、と言いふらすとも書いてあった。やがて文面はさらに直接的になり、星見丘の別荘に出入りする予定にまで触れ始めた。


 玲奈はすべてを三浦弁護士に渡した。警察はしばらく単独行動を避けるよう助言し、星見丘別荘地の周辺で警戒を強めた。玲奈は警察の指示に従い、別荘の防犯カメラ、門扉の記録、緊急通報装置を確認した。


 彼女は挑発したわけではない。ただ、数日前に整理業者との予定として公開した投稿を、あえて消さなかった。


【今夜、星見丘で古い荷物を整理します。ひとりだと、かえって静かでいい】


 二時間後、悠真と心愛の両方がその投稿に反応した。監視室で佐伯が画面を見つめ、少し緊張した顔をしている。


「桐生社長。警察は近くで待機しています。別荘内外の防犯カメラもすべて起動済みです」


 玲奈は静止した門の映像を見つめた。


「自分たちで入ってくるのを待ちましょう」


 午前二時、星見丘の別荘。悠真が足を引きずりながら側門の近くに現れた。片手には工具箱から持ち出した折りたたみナイフ、もう片方の手には粘着テープがある。心愛は古いバッグを抱え、彼の後ろをついてきた。二人は声を潜めて言い争っている。金が手に入ったら、どちらが多く取るかでもめていた。


 側門は施錠されていなかった。警察の許可のもとで残しておいた入口であり、防犯カメラが最も鮮明に映る位置でもあった。二人はリビングに入り、悠真が玲奈の名を低く呼んだ。心愛は引き出しを開け、棚の中の書類を床にばらまいた。


 やがて二人は、金庫の中にあった銀行資料をめぐって口論を始めた。


「私は六割もらうから。私がいなきゃ、今日あの人がここに来ることも分からなかったでしょ」


「黙れ。ここは本来、俺の家だったんだ」


 悠真は心愛の頬を叩いた。玲奈は安全室のモニターで二人を見つめていたが、心は少しも動かなかった。


 犯罪ひとつ取っても、みっともない人たちだった。


 二人が寝室のドアを開けた瞬間、室内の照明が一斉についた。近くで待機していた警察官たちが別荘に踏み込む。悠真の手からナイフが落ち、心愛は悲鳴を上げて逃げようとしたが、すぐに取り押さえられた。


「動かないでください。警察です」


 悠真は安全通路側から姿を見せた玲奈を見ると、救いの縄を見つけたように叫んだ。


「玲奈、違う。俺は助けに来たんだ。心愛が君を襲おうとしていた」


 それを聞いた心愛が、半狂乱で叫び返す。


「高橋悠真、最低。彼女を縛って金を出させようって言ったのは、あなたでしょう」


 二人は警察の前で互いを責め合った。醜いほど、息が合っていた。玲奈は灯りの下に立ち、三浦弁護士が整理した証拠一覧を手にしている。


「住居侵入、脅迫、強盗予備、傷害未遂。あとは検察が判断するでしょう」


 悠真は連行される直前、玲奈を睨みつけた。


「玲奈。本当に、そこまで冷たいのか」


 玲奈は一歩だけ近づいた。声は穏やかだった。


「冷たいんじゃない」


 腐りきった男を、まっすぐ見た。


「あなたたちが選んだ結末よ」


 パトカーの赤と青の光が遠ざかっていった。星見丘別荘地は再び静けさを取り戻す。玲奈は玄関前に立ち、長く息を吐いた。


 この茶番は、ようやく終わろうとしていた。



9.判決の日


 地方裁判所で判決が言い渡された日は、空が重く曇っていた。高橋悠真は複数の罪で有罪となり、懲役九年の実刑判決を受けた。小宮山心愛も共犯として、さらに動物虐待と書類偽造に関わる事実が認定され、懲役六年となった。判決を聞く二人の間に、かつての甘さは一切残っていなかった。残っているのは、互いへの憎しみだけだった。


 悠真は拘置所の服を着て、十歳は老けて見えた。心愛は連れ出されるときも、全部悠真に命令されたのだと泣き叫んでいた。悠真は歯を食いしばり、彼女の腹の子が自分を壊したのだと罵り返した。


 玲奈は裁判所の前に立っていた。腕の中には、すっかり元気を取り戻したユキがいる。ユキは周囲を不思議そうに眺めていた。救い出されたばかりの頃の怯えた様子は、もうなかった。佐伯がそばに歩み寄る。


「旧宅の寄付手続きが完了しました。動物愛護団体のほうから、桐生社長のお名前を出して感謝を伝えたいと」


「名前は出さないで」


 玲奈はユキの頭を撫でた。


「必要なところに使ってもらえれば、それでいい」


 玲奈はあのマンションを売却し、星見丘別荘地の所有権も整理した。高橋悠真に関わるものは、生活の中からすべて取り除いた。忘れるためではない。自分を、それらで定義しないためだった。


 後日、三浦弁護士から、悠真が刑務所で玲奈の婚約報道を耳にし、激しく取り乱したと聞いた。それは玲奈が作った話ではなかった。財界で、玲奈が老舗企業グループの後継者と親しいらしいという噂が勝手に広まり、いくつかのメディアが曖昧な記事にしただけだった。玲奈には、それを訂正する興味も、悠真に説明する義理もなかった。


 話を聞き終え、玲奈は静かにうなずいた。


「今後、彼に関する報告は不要です」


 その日を境に、玲奈は二度と高橋悠真のことを自分から聞かなかった。



10.私の世界は、ここから始まる


 二年後、ニューヨーク。巨大な電子掲示板に、桐生アルゴリズム株式会社の銘柄コードが表示された。数字は少しずつ上がり、資本市場が玲奈の技術の価値を最も直接的な形で認めていく。メディアは彼女を「技術業界の鉄の女」と呼んだ。


 玲奈はその呼び名が好きではなかったが、否定もしなかった。女が優しければ弱いと言われ、強ければ冷たいと言われるのなら、自分が聞くべき声だけを選べばいい。


 祝賀会の会場で、シャンパングラスの縁に光が落ちていた。瀬名蒼が玲奈に向かってグラスを上げる。


「おめでとう。君のアルゴリズムは、業界を変えた」


 瀬名は玲奈の新しいビジネスパートナーで、海外市場を担当している。穏やかで、頭がよく、いつ黙り、いつ言葉にするべきかを知っている男だった。彼は玲奈の過去を詮索しない。ただ、今の玲奈と、これからの未来を見ていた。


 二人は技術について語り、市場について語り、会社が次に進む道について語った。


 腐って過去に沈んだ人たちの話だけは、しなかった。


 玲奈は時折、日本へ戻って仕事をした。あるとき、心愛が収容されている女子刑務所の近くを車で通りかかった。窓の外はよく晴れていた。玲奈は車を止めなかった。後日、佐伯から、心愛は中でもあまりうまくやれておらず、人のものを欲しがってはトラブルを起こしていると聞かされた。


 玲奈は聞き終える前に、書類を次のページへめくった。


「もういい」


 日差しが手の甲に落ちて、温かかった。腐った人や出来事は、時間が土に還していく。彼らがどれほど惨めになったかを、何度も振り返って確かめる必要はなかった。


 玲奈はただ、前へ進めばよかった。


 玲奈はユキを連れて旅をするようになった。アイスランドでは、オーロラの見える透明な屋根の宿に泊まった。ユキは柔らかな毛布の上に丸まり、その青い目に空の光を映した。パリでは、セーヌ川沿いを歩いた。夜風が髪を揺らし、自由の匂いがした。


 母から最後の助けを求める電話がかかってきたとき、玲奈はホテルのバルコニーで海を見ていた。父が病気になったこと、弟がまた借金を作ったこと、帰ってきてほしいこと。母の途切れ途切れの泣き声を、玲奈はしばらく聞いていた。やがて波の音が、その声を覆い隠した。


 玲奈は電話を切り、その番号を解約した。


 あの人たちが高橋悠真と出来の悪い息子を選んだ日から、玲奈はもう、好きなときに差し出される犠牲ではなくなった。家族カードに縛られる事実婚の相手でも、親に都合よく扱われる娘でもない。


 彼女は桐生玲奈だった。


 自分の運命を、自分の手に取り戻した人間だった。




 ユキは年を取った。若い頃のように窓辺へ跳び上がることは少なくなり、玲奈の膝のそばで静かに眠ることが増えた。いちばん暗い日々を一緒に越え、その後の陽だまりの朝も、一緒に過ごしてくれた。


 ある夕方、瀬名がカクテルを二つ持って、砂浜の向こうから歩いてきた。


「これからも、一緒に進んでいく?」


 玲奈はグラスを受け取り、果てのない海を見つめて、少しだけ笑った。


「ええ」


 海風が、過去の影を遠くへ流していく。


 過ぎたことは、煙のように風へ消えていった。


 そして彼女の人生は、ここから始まる。


――完――



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