第98話 ルナヘルムの結界
空気の味が変わった。
ガルドリアの鉄錆びた匂いが消えて、ミントと蜂蜜を霧にしたような、甘くて冷たい空気が肺に入ってくる。深呼吸一回で、身体の中の澱んだものが全部溶けて毛穴から出ていきそうな——暴力的なまでの清浄さだった。
目の前に広がるのは、ただの森じゃない。
木の一本一本が、俺たちの知ってる「木」とは解像度が違う。幹は城の塔みたいに太くて、葉っぱ一枚一枚が薄く発光してるみたいに鮮やかだ。
東方の大森林、エルフの故郷。
人間があんまり歓迎されない聖域。
「……全隊、停止」
先頭を行くオスカー副団長の声が、いつもより硬い。
無理もない。森の入り口、巨大な二本の巨木が門のように立ちはだかる場所には——目に見えるほど濃密な「壁」があったから。
結界だ。
それも、その辺の魔導士が張るような簡易的なやつじゃない。数百年、千年単位で維持されてきた、世界樹の霊素を直接吸い上げて駆動する超高密度の防衛システム。半透明の膜が陽炎みたいに揺らめいて、森と外の世界を完全に隔絶している。
「止まれ、人の子よ」
声が降ってきた。
風に乗るような、鈴を転がしたような——でも確実にこっちを見下している冷たい響き。樹上から、数人の影が音もなく降り立つ。
エルフだ。
細身で背が高くて、耳が長い。身に纏っているのは森の色に溶け込む緑と銀の軽装鎧。手には美しい曲線を描く弓。矢じりはすでに、正確にオスカーの眉間と心臓を狙っている。
うわあ、歓迎されてねぇ。
俺の足元で、フェデが「くぅ〜ん(あそばないの?)」と呑気にあくびをした。お前は大物すぎる。
「我らはセカイジュ騎士団。勇者エリシア・リュミエル・フェルシア殿の護衛として、ガルドリア王国より参った」
オスカーが馬を降り、兜を脱いで深く一礼する。
完璧な所作。相手が矢を向けていても、眉一つ動かさず礼節を尽くす。王族としてのプライドと、外交官としての慎重さが同居した——見事な態度だった。
でも、エルフたちの目は冷ややか。
彼らにとって人間っていうのは「短命で、欲深くて、森を汚す蛮族」くらいにしか思われてないのがよくわかる。
「勇者エリシアの帰郷は聞いている。……だが、これほどの数の『鉄の匂い』が森に入ることまでは、歓迎していない」
リーダー格らしき銀髪のエルフが、鋭い視線で騎士団の列を舐めるように見た。鉄の匂い。武器のことか、それとも戦意のことか。
エリシアが、オスカーの横に進み出る。
「通してください、ラファエル。彼らは私の大切な仲間です」
エリシアの声に、エルフたちの表情がわずかに和らぐ。ああ、やっぱ勇者ってすげぇ。身内判定されるとこんなに空気が変わるのか。
でも、リーダー格のラファエルって男は、まだ警戒を解かない。
「エリシア、君の言葉でも、掟は曲げられない。この結界は『汚れなきもの』しか通さない。魔素に触れた者、心に暗い影を持つ者は——森が拒絶する」
面倒くさいセキュリティだな。
要するに、一人ひとりボディチェックならぬ「魂チェック」をするってことか。
「……承知した。我ら騎士団、世界樹に誓って恥じるものは持っていない」
オスカーが毅然と言う。
そして、検査が始まった。
見ていて胃が痛くなるような光景だった。騎士たちが一人ずつ、結界の前に立つ。エルフが水晶のようなものをかざす。水晶が白く光れば合格。濁ればアウト。
オスカーの部下たちは精鋭揃いだ。魔素汚染なんてあるはずがない。
でも、エルフたちの態度は変わらない。「ふん、まあいいだろう」「早く通れ」と言わんばかりの、露骨な嫌悪感。まるで、汚いものを扱うような手つき。
オスカーの番が来た。
彼はガルドリアの第二王子だ。本来なら、こんな森の入り口で足止めを食らっていい身分じゃない。でも彼は、文句ひとつ言わず結界の前に立った。
水晶がかざされる。
一瞬、水晶の中に赤い火花のような色が混じった気がした。オスカーの心の奥にある、焦燥感や嫉妬の色だろうか。エルフの眉がピクリと動く。
「……通りなさい。だが、森の中で火を弄べば、その命はないと思え」
捨て台詞つきだ。
オスカーは無表情のまま「肝に銘じよう」と短く答えて、結界を通り抜けた。
背中が強張っているのが、ここからでもわかる。屈辱だよな。わかる。自分が率いてきた部下たちの前で、あんな犯罪者予備軍みたいな扱いをされて——それでも「勇者の護衛」という任務のために、彼は全部飲み込んでるんだ。
「次、そこの黒髪の」
げっ、俺か。
カインとノルンが心配そうにこっちを見てる。俺は「へいへい」と心の中でボヤきながら、フェデを連れて前に出た。
目立ちたくない。マジで、ここは何事もなくスルーさせてくれ。
俺は全身の毛穴という毛穴を閉じるイメージで、霊素の出力を極限まで絞る。
Dランクの凡人。俺は凡人。ただの荷物持ち。
そう念じながら、結界の前に立つ。
ラファエルが、疑わしそうな目で俺とフェデを見た。
「……獣連れか。躾はできているんだろうな」
「あ、はい。一応、噛まないんで」
噛むどころか、お前らより位が高い霊獣様だけど——とは言えない。俺は愛想笑いを浮かべる。
水晶が、俺の胸元にかざされた。
その時だ。
キィィィィィィン……
耳鳴り? いや、違う。
音がしたのは水晶じゃない。目の前の、巨大な結界そのもの。
今まで「壁」として立ちはだかっていた半透明の膜が、俺が近づいた瞬間に波打った。まるで、待ちわびていた主人が帰ってきた時の犬みたいに。
パァァァァァァァッ!
弾けた。
結界が、光の粒子になって弾け飛んだ。いや、壊れたんじゃない——開いたんだ。
俺を通すために。
森の入り口一帯を覆っていた拒絶の壁が、歓喜の歌を歌いながら、勝手に左右へ割れて道を作った。
光の粉が、キラキラと俺とフェデの周りに降り注ぐ。足元の土から、季節外れの花が一斉にポンポンと咲き乱れる。風が吹く。どこからともなく集まってきた小さな光の精霊たちが、俺とフェデの周りをキラキラと舞い踊り始めた。
『わーい! ルッくんだー!』
『おかえりー!』
ちょ、お前ら! 精霊語で喋るな! 見えてない設定だろ!?
肩の上でヴァルが「ぶふっ」て鼻を鳴らした。笑い事じゃねぇ。
「な……!?」
ラファエルが、目を剥いて絶句している。弓を構えていた他のエルフたちも、ポカンと口を開けて弓を取り落としそうだ。
「け、結界が……歓喜している……?」
「ありえない……古の賢者が通った時でさえ、これほどでは……」
「あの人間、何者だ……?」
ザワザワと森が騒ぐ。
まずい。これはまずい。
俺は「Dランクの荷物持ち」だぞ。結界に歓迎されてどうする。そこは「ペッ」ってしてくれよ。「お前みたいな凡人は通さん!」って言ってくれよ。
俺は冷や汗ダラダラで、必死に取り繕った。
「あー、えっと……なんか、壊れちゃいました? 古い機械とか叩けば直るみたいな……」
苦し紛れすぎる言い訳。
だが、エルフたちの反応は劇的だった。
さっきまで俺たちをゴミを見るような目で見ていた隊長が、震える手で胸に手を当て、深く、深く頭を下げたのだ。
「……失礼いたしました。森が……世界樹の枝が、貴方様を『客人』として招き入れておられるようです」
声色が180度違う。敬意どころか、畏怖すら混じってる。
「どうぞ、お通りください。……祝福されし御方よ」
兵士たちが、サーッと道を開ける。
俺は居心地の悪さに死にそうになりながら、その花道を歩いた。そして、結界の向こう側で待っていたオスカーの横を通り過ぎる時——
見てしまった。
彼の目が、感情の抜け落ちたガラス玉みたいになっているのを。
「……また、お前か」
声に出したわけじゃない。でも、彼の唇が——確かにそう動いた気がした。
王族の彼が、汗水たらして、魂を削って、やっとの思いでこじ開けた扉。それを俺は何もしないで、ただ歩くだけで、ファンファーレ付きで開け放ってしまった。
努力も、誇りも、覚悟も。
全部、「才能」という名の理不尽な暴力で殴り倒してしまったようなもんだ。
「……すごい」
後ろから、エリシアの声がした。
彼女は驚いたような、でもどこか嬉しそうな顔で俺を見ていた。
「やっぱり。森も、ルーカスのことを歓迎しているのね」
やめてくれ。
そんなキラキラした目で見ないでくれ。その視線が、オスカーの背中にどれだけ深い影を落としているか——あんたには見えてないのかよ。
俺は逃げるようにフェデの背中に隠れた。フェデは空気も読まずに『ここ、空気がおいしい!』とか言って尻尾ブンブン振ってる。こいつのメンタルが羨ましい。
開かれた道。歓迎ムードのエルフたち。
でも、俺たちの間に流れる空気は、来る時よりもずっと重く、冷たくなっていた。
オスカーは、もう一度だけ俺の方をちらりと見て、すぐに前を向いた。
「……行くぞ。時間は限られている」
その声は、完璧な指揮官のものだった。一ミリの感情も乗っていない——ただの機能としての声。
俺は何も言えず、ただ黙って彼の背中を追うしかなかった。
美しく咲き乱れる祝福の花を踏みしめながら、俺たちは、深い森の奥へと飲み込まれていった。




