第97話 東方への旅立ち
旅立ちの朝ってのは、もっとこう、希望とかワクワク感とか、そういうのが詰まってるもんじゃないのか? 少なくとも俺が冒険者ギルドで依頼書をひっぺがしてた頃はそうだった。
「今日の稼ぎでうまい肉を食うぞ」っていう、単純で愛おしい欲望があった。でも今の俺たちの行軍には、そういう「隙」がまったくない。マジでない。
カツ、カツ、カツ。
整然と響く足音。馬の蹄のリズムすら統制されてるんじゃないかってくらい、気味が悪いくらい揃ってる。
「第二列、間隔が広いぞ。詰めろ」
「後方、荷馬車の幌が緩んでいる。風で音が鳴ると索敵の邪魔だ。直せ」
先頭を行くオスカー副団長の指示が飛ぶ。
完璧だ。マジで完璧すぎる。街道の小石ひとつ見逃さないような視野の広さと、部下の疲労度を計算し尽くした休憩のタイミング。水筒の水を飲む指示出しすら、「今なら喉が渇いているだろう」ってタイミングで飛んでくる。
カインなんかはもう、目をキラキラさせてるわけよ。
「すげぇ……やっぱ副団長は違うな! 俺らが見てないところまで全部見えてる!」
「ええ〜、ほんとですね〜。歩きやすいっていうか〜、なんか守られてる感あります〜」
ノルンものんびりした口調で同意してるけど、その狐耳はピクリとも動いてない。安心しきってる証拠だ。
でも俺には見える。オスカーの背中から立ち上る、張り詰めすぎて今にも千切れそうな糸の気配が。
彼の契約精霊、炎のグラン・グラディオスが、主人の肩でぐったりと首を垂れている。主の魔力を食わないように、極限まで存在を薄くしてるんだ。そうでもしなきゃ、今のオスカーの乾いた魂じゃ維持できないから。
『……痛々しいねぇ。ありゃ、自分で自分の首絞めてるようなもんだぞ』
俺の影の中で、雷の精霊アルクがぼやく。
ああ、まったくだ。彼は「完璧な指揮官」という鎧を着込んで、中身の弱さを必死に隠してる。その鎧が重すぎて、自分を押し潰そうとしてるのに、誰もそれに気づかない。
俺以外は。
昼過ぎ。街道が大きく開けた合流地点に差し掛かった時だ。
「――前方、友軍を確認!」
斥候の声に、空気が変わる。道の向こうから現れたのは、白銀と翠の意匠を纏った一団。
先頭に立つのは、陽光をそのまま髪に宿したような少女。
勇者、エリシア・リュミエル・フェルシア。彼女がそこにいるだけで、街道の空気が澄んでいくような気がする。光の粒子がキラキラと舞って、草花が一斉に顔を上げるような、そんな圧倒的な「主人公」の空気感。
オスカーが馬を止め、流れるような動作で下馬した。その所作ひとつとっても、絵画みたいに美しい。彼は兜を脱ぎ、恭しく一礼する。
「出迎えご苦労、勇者殿。……いや、エリシア卿」
完璧な敬礼。角度も、声のトーンも、王族としての威厳と、勇者への敬意が絶妙にブレンドされてる。
「合流地点までのルート確保、感謝します。副団長の指揮は見事ですね。予定時刻から一分の狂いもない」
エリシアもまた、凛とした声で応える。美しい光景だ。騎士と姫。英雄と指揮官。物語の挿絵にしたら、きっと誰もがため息をつくような名場面。
でも、そこには何もない。温度がないんだ。オスカーの言葉は台本を読んでるみたいに滑らかだけど、魂が乗ってない。エリシアの返答も、有能な仕事相手に対する事務的な感謝の域を出ない。
「ガルドリアの盾として、当然の務めです」
オスカーが微笑む。仮面みたいな笑顔で。
「貴女の剣が曇らぬよう、露払いを務めさせていただく。……どうぞ、こちらへ」
彼は手を差し出して、隊列の中央へ彼女を招く。自分は一歩下がって、あくまで「支える側」として。
その謙虚さが、今の彼には毒になるって分かってるのに、そう振る舞うことしかできない彼の不器用さが、俺の胃をキリキリと締め上げる。
その時だ。ふと、エリシアの翠の瞳が動いた。オスカーの完璧なエスコートを通り越して、その後ろ。モブとして気配を消していたはずの、俺の方へ。
キィィィン……
俺の腰のあたりで、布にくるまれた『木の棒』が、微かに、けれど嬉しそうに震えやがった。 (おい馬鹿、今は静かにしてろって!) 俺が慌てて柄を押さえるより早く、彼女の足が止まる。
さっきまでのオスカーに向けた「仕事モード」の硬い表情が、ふわりと、無防備なものに変わった。
彼女はオスカーへの会釈もそこそこに、吸い寄せられるようにこっちへ歩いてきてしまう。
ちょ、待てよ。空気読め。今はオスカーが主役のターンだろ? 俺は背景の木Aだぞ?
「……ルーカス候補生」
名前を呼ばれた。それだけで、周囲の視線が痛いほど突き刺さる。彼女は俺の目の前まで来ると、まるで迷子が道標を見つけた時みたいな、不思議そうな顔で小首を傾げた。
「……あなたもいかれるのですね。」
「え、あ、はい。……お久しぶりです、勇者様。今回は護衛任務で……」
俺が敬語でしどろもどろに答えると、彼女は瞬きを一つして、俺の周りの空気を探るように視線を彷徨わせた。
「不思議。……あなたの周りだけ、精霊たちの声がよく聞こえる気がします」
それは親愛の言葉じゃない。純粋な疑問と、抗えない引力を口にしただけの、独り言に近い響きだった。でも、その声音には、さっきオスカーに向けた完璧な礼節とは違う「熱」があった。無防備で、無自覚な共鳴。本人が理由もわからずに惹きつけられているような、理屈じゃない親密さ。
「わふ(ぼくもいるぞ)」
「あ……フェデも。元気そうですね」
フェデが鼻先を押し付けると、エリシアの表情がようやく年相応の少女のように綻んだ。
「……なんだか、懐かしい匂いがするわ」
彼女はフェデの頭を撫でながら、俺の隣に自然と立ち止まった。
まるで、最初からそこが定位置だったみたいに。
……おい、やめろ。
俺の隣は空いてるけど、そこは俺の場所じゃない。
視線を感じる。背中が焼けるような、冷たい視線。
恐る恐る前を見ると、オスカーが立っていた。彼は背を向けている。こっちを見ていない。完璧な姿勢で、前だけを見据えて、指揮官としての責務を全うしている。でも、分かるんだ。その背中が、泣いているのが。
(なんで、俺なんだよ……)
オスカーが喉から手が出るほど欲しがっているものを、俺は何もせずに持たされている。王族の血も、努力も、完璧な振る舞いも、全部すり抜けて。ただ「そこにいるだけ」の俺に、光が無自覚に集まってしまう。
ハルド鍛冶王が言った「太陽の隣の蝋燭」って言葉が、頭の中でリフレインする。
オスカーは今、どんな顔をしてる?きっと、あの能面みたいな笑顔を貼り付けたまま、心の中で血を流してる。
「……あの、勇者様。そろそろ行軍が」
たまらなくなって、俺は促した。
エリシアはハッとしたように顔を上げ、少し頬を染めて咳払いをした。
「ええ、そうですね。ごめんなさい、少し……気が緩んでしまったみたい」
彼女はもう一度フェデを見て、それから俺に小さく会釈をして列に戻っていく。その「気が緩んだ」という事実こそが、オスカーにとって一番残酷な答えだと気づきもせずに。
前を行くオスカーの背中が遠い。物理的には数メートルしか離れてないのに、そこには断崖絶壁みたいな溝がある。
彼は一人だ。何百人もの部下を率いて、勇者を護衛して、完璧に指揮してるのに。誰よりも孤独だ。
彼は盾だ。盾は、守るものの前に立つ。だからこそ――守られる者たちの「輪」には、絶対に入れない。一番前で風を受けて、一番孤独な場所に立っているのが彼だった。
「全隊、速度を上げろ! 日没までに森の境界へ到達する!」
オスカーの声が響く。誰も寄せ付けない、孤高の響き。
空はまだ青い。でも、俺たちの進む先には、深い森の影が口を開けて待っている。その影が、オスカーの足元から伸びているものと重なって見えたのは、きっと俺の考えすぎじゃないはずだ。
旅はまだ始まったばかり。なのに、もう何かが決定的に壊れ始めている音が、俺の耳には聞こえていた。




