第94話 魔王の誘い
ざん、 ざん、ッ。
風を斬る音じゃない。あれは、もっと重い、夜の闇そのものを物理的に断ち切ろうとするような、そんな粘ついた音がした。
王都ヴァルドンガルドの夜は冷える。石造りの宿舎の壁は冷気を溜め込むし、布団は煎餅みたいに薄いしで、俺――ルーカス・ヴァレリオは寝付けずにいた。
いや、嘘だ。本当は、胸の奥がざわざわして眠れなかったんだ。隣のベッドでは、フェデが「くぅ〜……」と幸せそうな寝息を立てて、完全にへそ天状態で爆睡している。
この無防備な毛玉を見ていると、世界のことなんてどうでもよくなるくらい癒やされるんだけど、今夜ばかりはどうしても、昼間のことが頭から離れなかった。
『副団長は、すごく立派な樽!』
『ルークくんは、湖かな?』
アリスの無邪気な声が、呪いみたいに鼓膜へ張り付いている。
樽と、湖。
努力で磨き上げた器の限界と、生まれ持った理不尽な容量。あの言葉を聞いた時の、オスカー副団長の顔。能面みたいに笑ってたけど、あの人のプライドが音を立てて砕けるのが、俺には見えちまったんだ。
『……おいルーク。起きてんだろ』
脳内に直接、ぶっきらぼうな声が響く。炎の上位精霊、ヴァルだ。
「……悪い、起こしたか?」
『いや。あの音がうるさくてな』
「音?」
『わからねぇか? 空気が軋んでやがる。……行ってみな。お前が作った“歪み”だ』
ヴァルに言われて、俺は上着を羽織り、宿舎を抜け出した。石畳の冷たさが靴底越しに伝わってくる。騎士団総本部の夜は静かだ。見張りの兵士たちの規則正しい足音以外、なにもないはずなのに。
本部の裏手。日中は新人たちが汗を流す第3訓練場の方角から、その音はずっと響いていた。
ブォン!!
空気が爆ぜる。月明かりの下、一人の男が剣を振っていた。上着は脱ぎ捨てられ、薄いシャツ一枚。汗で背中に張り付き、湯気が立ち上っている。
オスカー・ヴァルド・ガルドリアン副団長だ。
いつもなら、彼は完璧だ。髪の毛一本乱さず、銀の鎧を隙なく着こなし、理想的な笑顔と敬語で部下を導く。それが俺の知っている副団長。でも、今そこにいるのは、何かに取り憑かれたような修羅だった。
「……ッ、しぃ!!」
鋭い呼気と共に、模造刀が走る。速い、目で追うのがやっとだ。
ガルドリア流剣術の基本、「袈裟斬り」。それをただひたすら、何百回、いや何千回と繰り返している。正確無比。重心の移動、踏み込み、刃筋。どこをどう切り取っても、教科書に載せられるくらい完璧なフォームだ。カインが見たら、感動して泣くかもしれない。
だけど。俺の『精霊視』に見えてしまう世界は、まるで違っていた。
『……ひでぇ色だ』
ヴァルが、不快そうに呟く。
『炎が濁ってやがる。あいつの契約精霊の声も届いてねぇな。……自分の魂を薪にして燃やしてやがる』
オスカーの体から立ち上る霊素は、本来なら綺麗な赤色のはずだ。それが今は、どす黒く煤けている。
彼は、見えない敵と戦っていた。いや、敵じゃない。彼が斬ろうとしているのは――たぶん、俺だ。正確には、俺やフェデが持っている「理不尽な力」そのもの。
「……足りない」
剣を振るう合間、オスカーの唇から言葉がこぼれ落ちた。それは独り言というより、呪詛に近かった。
「技は……極まった。速度も……上がった。だが……」
ブォンッ! 風圧だけで、地面の砂が舞い上がる。人間が到達できる領域としては、間違いなく最高峰の一撃。Aランク冒険者だって、この一撃を受け止めるのは骨が折れるはずだ。
でも、彼は首を振る。
「……届かない」
絶望的な響きだった。俺の脳裏に、ドワーフの鉱山での光景が浮かぶ。オスカーが命がけで防ごうとした溶岩の奔流。それを、フェデは「お手」ひとつで石に変えた。
戦いですらない。現象の書き換え。どれだけ剣を研いでも、どれだけ筋肉をいじめ抜いても、嵐に向かって剣を振るうようなものだ。オスカーは、その「壁」の高さに気づいてしまっている。
気づいているのに、認めることができなくて、体だけを動かし続けている。
「……くそッ、兄上は……兄上だけは……!」
また一太刀。今度は、兄であるレオンハルト王子への感情だろうか。手紙に書かれていたという『優秀な盾』という言葉。それが彼を縛り付けている。
俺にはわかる気がした。彼は「盾」になんてなりたくないんだ。誰かを守るために傷つくことを厭わない、あんなに高潔な人なのに。本心では、すべてを薙ぎ払う「剣」になりたがっている。光り輝く、誰よりも前を行く王の剣に。
俺が、そうさせてしまったのか。俺が無自覚に振るった力が、彼のプライドを粉々にして、こんな夜中に亡霊みたいに剣を振らせているのか。
「……はぁ、はぁ、……ッ!」
オスカーがよろめいた。限界なんだ。とっくに。
声をかけるべきか? 「十分強いですよ」って? いや、それは今の彼には「強者の余裕」という名の侮辱にしかならない。
俺は拳を握りしめ、逃げるようにその場を離れた。背中で聞く剣の音は、夜明けまで止むことはなかった。
***
翌日の夕暮れ。俺は隠密スキル全開で、城下町の裏路地を歩いていた。いや、ストーカーじゃない。断じて違う。ただ、オスカーが非番だっていうのに、一人でフラフラと街へ出て行くのを見かけちまったんだ。あの精神状態で一人歩きなんて、危なっかしくて放っておけるわけがない。
オスカーは、賑やかな大通りを避けるように、薄暗い路地裏へと足を進めていく。その背中は、騎士団の鎧を着ていないせいか、いつもより一回り小さく見えた。
西の空が、紫色に染まっていく。魔王領に近いこの街特有の、不気味な黄昏。
ふと、オスカーの足が止まった。廃墟になりかけた古い石造りの倉庫の前だ。影が動いた。地面の影じゃない。建物の陰から、ぬるりと「人の形をした闇」が滲み出してきたんだ。
「……誰だ」
オスカーの声。鋭い。さすがに腐ってもAランク、気配察知は鈍っていない。俺は物陰に身を隠し、耳をそばだてる。
現れたのは、フードを目深に被った小柄な男――いや、魔族か? 気配が薄い。霊素の流れが、普通の人間とは逆回転しているような気持ち悪さがある。
「おやおや。ガルドリアの至宝、第二王子殿下ではありませんか」
間者の声は、老婆のようでもあり、少年のようでもあった。耳の奥が痒くなるような、粘着質な響き。
「貴様、魔王軍の手先か」
オスカーが腰の剣に手をかける。だが、間者は動じない。クスクスと、嘲笑うように肩を揺らすだけだ。
「ええ、ええ。ですが今は戦いに来たのではありませんよ。……ただ、可哀想なあなたに、少しばかり『真実』をお伝えしに来たのです」
「戯れ言を。斬るぞ」
「斬れますか? その剣で。……あの『規格外』の小僧には、かすり傷ひとつ負わせられないその剣で?」
ピクリと。オスカーの肩が跳ねた。間者は、そこを見逃さない。言葉の毒を、傷口に直接流し込んでいく。
「見ていましたよ、あの鉱山での戦い。あなたは立派でした。完璧でした。……ですが、世界はあなたを称賛しましたか? いいえ。称えられたのは、運だけで強大な力を手に入れた、あの子供と獣だけ」
「……黙れ」
「悔しいでしょう? アリス嬢も言っていましたね。あなたは『よくできた樽』だと。所詮は入れ物、中身が決まればそれまで」
「黙れと言っている!」
オスカーが剣を抜く。切っ先が震えている。間者は一歩も引かず、むしろ両手を広げて歓迎するように笑った。フードの奥で、赤黒い瞳がギラリと光る。
「認めましょうよ、オスカー様。この世界は間違っているのです。正しき者が報われず、力ある者がすべてを奪う。……ならば、あなたも手に入れればいい」
間者の手から、黒いもやのようなものが立ち上る。それは魔素だ。甘く、重く、人の心の隙間に入り込む、誘惑の香り。
「魔王様は、公平なお方です。求める者には力を与える。……嫉妬? 劣等感? 大いに結構! それを燃やせば、あなたは光すら焼き尽くす『黒き炎』になれる。あの新人など足元にも及ばない、真の王に!」
ゴクリ。
オスカーの喉が鳴ったのが、離れた俺の場所まで聞こえた気がした。彼の霊素が、揺れている。グランの赤い光が弱まり、黒い影が心臓に絡みつこうとしている。
まずい。飛び出すか?俺が足に力を入れた、その時だった。
「――ふざけるな」
低く、地を這うような声。
「私が、欲しいのは……そんな、借り物の力ではないッ!!」
銀光が閃いた。
迷いこそあった。恐れもあった。それでも、オスカーが振り抜いたのは、騎士として鍛え上げた「正道の剣」だった。
ズンッ!!
間者の身体が、袈裟懸けに両断される。 悲鳴も上げず、影は霧のように散り散りになった。斬った、拒絶した。オスカーは、荒い息を吐きながら、剣をだらりと下ろす。
勝ったのか? いや。
『……ククク。立派、立派』
斬られたはずの間者の声が、路地の壁という壁から反響する。姿はない。だが、呪いのような言葉だけが、べっとりとその場に残る。
『ですが、覚えておきなさい。……拒絶しても、現実は変わりませんよ』
影が、オスカーの足元にまとわりつく。
『光の隣に、影は立てない。あの勇者の隣に立つのは、あなたではない。……お前は、永遠に二番手だ』
「消えろぉぉぉぉッ!!」
オスカーが、何もない虚空を薙ぎ払う。炎の精霊術が炸裂し、路地の壁を焦がした。
静寂が戻る。残されたのは、焦げ臭い匂いと、肩で息をする一人の男だけ。
「私は……ガルドリアの騎士だ……」
自分に言い聞かせるような、掠れた呟き。剣を鞘に納める手が、カチャカチャと音を立てて震えている。
彼は勝った。魔王の誘いを、その誇りで跳ね除けた。すごい人だ。普通なら、あんな甘い言葉を囁かれたら、心が折れてもおかしくないのに。
でも。俺には見えてしまった。彼が斬り捨てた黒い霧の一部が、消滅せずに彼の影の中にスーッと吸い込まれていったのを。
種は、蒔かれてしまったんだ。
『永遠に二番手』
その言葉は、たぶんどんな魔法よりも深く、彼の魂に突き刺さっている。
『……ルーク。帰ろうぜ』
ヴァルが、沈んだ声で言った。
『今、お前が出ていってみろ。「助けましたよ」なんて顔して。……あいつ、その場で自害しかねねぇぞ』
ああ、そうだな。俺が出ていけば、彼の「一人で誘惑を断ち切った」という最後のプライドまで奪うことになる。
俺は唇を噛み締め、音もなくその場を去った。
遠ざかる背中で感じるオスカーの気配は、まるで嵐の前の静けさのように、不気味に静まり返っていた。




