第93話 アリスの実験室
王都ヴァルドンガルド。
セカイジュ騎士団総本部の敷地内、《魔導研究棟》へと続く渡り廊下。ただ歩いているだけだというのに、なんだこの水底に沈んだような息苦しさは。
犯人は明確だ。隣を歩く男、オスカー・ヴァルド・ガルドリアン副団長のせいである。
彼はずっと黙っている。一言も発さない。ドワーフの山から帰還して以来、この人のまとう空気は一変してしまった。以前の、監視者としてのピリピリとした熱のある厳しさとは違う。
もっと無機質で、触れればカチンと音がしそうな、冷え切った硝子細工の危うさ。
かつ、コツ。かつ、コツ。
磨き上げられた軍靴の音が、恐ろしく正確なリズムで廊下に反響する。背筋は定規で引いたように伸び、すれ違う団員への敬礼も角度一つ狂わず完璧。
非の打ち所がない「理想の指揮官」
けれど、俺にはわかってしまう。その能面のような完璧さの内側で、どろどろとした黒い感情が、行き場をなくして渦を巻いているのが。
『……おいルーク。気をつけろよ』
肩の上、不可視化している相棒――炎の精霊ヴァルが、脳内に直接ささやいてくる。
『あの副団長、見てるだけで息が詰まるぜ。魂が張り詰めすぎて、今にも弾け飛びそうだ。……あと、これから会う魔導士の女。あいつも大概だかんな』
「……わかってる」
唇を動かさず、息だけで返す。今日の任務は、研究棟への物資搬入だ。本来なら下級騎士の雑用だが、「特務候補生」という名の半ば囚人のような俺には、監視役のオスカーがもれなく付いてくる。
昨夜、図書館であんなボロボロの姿を見てしまったあとだ。気まずいなんて言葉じゃ足りない。なのにオスカーは、まるで何事もなかったかのように振る舞っている。
「ここだ」
不意に、軍靴の音が止まった。
目の前には重厚な鉄扉。
『第八研究室:立入禁止(爆発注意)』という、あまりにも不穏な木札が下がっている。オスカーが表情一つ変えず、ノックしようと手を上げた。
その、瞬間。
ドォォォォォォォン!!
腹に響く轟音と共に、鉄扉が内側から弾け飛んだ。
「うわっぷ!?」
とっさに身を屈める。紫色の煙がモクモクと廊下になだれ込み、鼻をつく火薬の臭いと、舌が痺れるような薬品の味が充満した。
ゲホゲホ、と咳き込みながら煙を払うと、紫煙の向こうから、場違いに可愛らしい声が聞こえてきた。
「あーあ、また失敗しちゃった。……カリくん、大丈夫?」
ヒヒーン、と高い嘶き。
煙が晴れると、そこには煤だらけのローブをまとった小柄な少女と、風をまとった美しい馬――上位霊獣シルフ・アステリオンの《カリヴェル》が佇んでいた。
「アリス……貴様、またか」
オスカーが、煙の中でも顔色一つ変えずに告げる。
少女――アリス・フェンリードが、パチクリと翡翠色の瞳を瞬かせた。
「あ、オスカー副団長! それに……えっと、ルークくん?」
彼女は俺を見るなり、パァッと顔を輝かせた。まるで、退屈な箱庭で新しい玩具を見つけた子供のように。
「わぁ、やっぱり! すごいすごい! 色が全然違う!」
アリスは、ぴょん、と跳ねるように俺の懐へ飛び込むと、いきなり顔を近づけてきた。
「え、あ、あの?」
「じっとしててねー。……解析!」
彼女の細い指先が、俺の眉間に触れる。その瞬間、視界が歪んだ。土足で脳みそを踏み荒らされるような不快感。全身を巡る霊素の流れが、彼女の瞳の奥へずずず、と吸い込まれていく。
まずい。俺の『隠蔽』は、物理的な放出は抑え込めても、こういう直接的な干渉には脆い。
「……うっわあ」
アリスが、ポカンと口を開けて後ずさった。
その目は、恐怖ではない。理解不能な未知を目撃した学者の、純粋で残酷な好奇心に染まっている。
「ねえねえ、副団長。これ知ってました?」
彼女は、悪気のかけらもない明るい声で、爆弾を投げ下ろした。
「この子の霊核、人間サイズじゃないですよ? 容量の目盛りが振り切れちゃってる……感覚的に、そうだなあ」
アリスは、楽しそうに空中に指で円を描く。
「副団長が、職人が丹精込めて作った、すっごく立派で頑丈な『樽』だとしたら……ルークくんは、『湖』かな?」
ぴきりと。空気が凍った音がした。
背中を、嫌な汗が伝う。やめろ。それ以上、言うな。
隣にいるオスカーの頬の筋肉が、微かに痙攣したのを、俺は見逃さなかった。
「……どういう意味だ、アリス」
オスカーの声は平坦だ。感情が抜け落ちている。
「え? だからね、出力の桁が違うの。人間って、どんなに鍛えても『器』の限界があるでしょ? 副団長なんか、その限界まで鍛え上げた、Aランクの完成形って感じ! すっごく綺麗!」
アリスは無邪気にオスカーを褒めちぎる。だが、それは死刑宣告にも等しい。
『あなたは、人間としての頂点に達してしまった。これ以上先はない』と言っているのと同じだからだ。
「でもねー、ルークくんは違うの。これ、構造がそもそも『人』じゃないかも。……うーん、例えるなら、大精霊クラス? あるいは、世界樹の根っこがそのまま人の形をして歩いてる感じ?」
決定打だった。オスカーが、かすかに息を呑む。
大精霊クラス。
博識な彼が、その言葉の意味を理解できないはずがない。精霊契約において、人間が扱えるのはせいぜい上位精霊まで。大精霊と契約できるのは、数百年に一人の『勇者』のみ。
そして、俺自身がその『大精霊クラス』の出力を持っているということは――
彼の積み重ねてきた努力も、血統も、研鑽も、すべてを無意味にする、理不尽な暴力そのものだということだ。
「……そうか」
オスカーが、口を開いた。その顔には、完璧な笑みが張り付いている。
「やはり、彼は……規格外だったということだな。アウストレア総団長が懸念するのもわかる」
落ち着いた、大人の対応。部下の異常性を冷静に受け止める上官の態度。
でも、俺の『精霊視』には見えてしまった。彼の中で、何かが音を立てて砕け散るのが。プライドという名のガラスが粉々になって、その鋭利な破片が、彼の心を内側からズタズタに傷つけていく様が。
『ルーク、まずいぞ。あいつの霊素、色が……』
ヴァルの警告通りだ。オスカーのまとう炎の霊素が、どす黒く濁り始めている。アリスは気づかない。彼女にとって、これはただの「面白い研究対象」でしかないからだ。
「すごいねー! ねえルークくん、あとで詳細な記録取らせてよ! あ、副団長も一緒にどうです? 『凡人』と『規格外』の比較検証なんて、論文にしたら絶対面白いし!」
悪意がないのが、一番タチが悪い。
《凡人》
王国第二王子にして、騎士団副団長、Aランクの英雄。誰よりも努力し、誰よりも国を思ってきた彼を、この天才魔導士は「凡人」と呼んだ。サンプル扱いで。
オスカーの手が、剣の柄に置かれている。指先が白くなるほど、強く、強く、握りしめられている。
「……いや、遠慮しておこう」
オスカーは、静かに言った。
「私は忙しい。……君たちのような、才能に溢れた者たちの遊びに付き合っている暇はないんだ」
くるりと背を向ける。
その背中は、以前よりもずっと小さく、そして拒絶の色を帯びていた。
「行くぞ、ルーク。……荷物は置いたな? 次の任務だ」
「あ、はい! ……すみません、アリスさん、また今度!」
俺は慌ててアリスに頭を下げ、逃げるようにオスカーの後を追う。
廊下に出ると、そこはまた、死のような沈黙に包まれていた。
違う。さっきより酷い。
来る時は「重い」だけだった。今は、「痛い」。前を歩くオスカーから発せられる拒絶のオーラが、針のように肌を刺す。
――なんで、こうなるんだよ。俺はただ、平穏に暮らしたいだけなのに。目立ちたくないのに。
俺がそこにいるだけで、息をするだけで、この人の努力を、誇りを、踏みにじっちまうのか。
大精霊クラス? 湖? そんなもん、俺だって欲しくて持ってるわけじゃない。
でも、そんな言い訳が、今の彼に届くはずもない。
「……ルーク」
不意に、前を歩くオスカーが呟いた。振り返らない。背中を向けたままだ。
「お前は……いいな」
「え……?」
「……いや。なんでもない」
それきり、彼は口を閉ざした。俺の耳には、アリスの無邪気な「凡人と規格外」という言葉が、呪いのようにこびりついて離れなかった。
俺たちの間にある溝は、もう、言葉で埋められる深さを超えてしまったのかもしれない。足元のフェデが、悲しげに「くぅン」と鳴いた。
俺は拳を握りしめ、ただ黙って、いまにも壊れそうなその背中を追いかけることしかできなかった。




