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第92話  図書館の闇

 夜の図書館には、独特の質量がある。  


 王都ヴァルドンガルド、セカイジュ騎士団総本部の地下深く。広大な空間を埋め尽くす大書庫は、学術院にあるような小綺麗なライブラリとはまるで別物だ。

 あそこが知の殿堂だとしたら、ここは墓場に近い。天井まで届く巨大な黒檀の本棚。そこにぎっしりと詰め込まれているのは、過去の対魔王戦の記録や、歴代騎士団の戦術指南書。  

 

 空気が重い。

 

 インクが酸化したような酸っぱい匂いに混じって、血と鉄と、ほこりっぽい戦記の残り香が染み付いている。


『……ケッ。どいつもこいつも、美談にしやがって』  


 俺の肩の上で、赤い毛玉が不満げに鼻を鳴らした。炎の精霊ヴァルだ。尻尾の先で燃える青い炎が、苛立ちを隠せないようにゆらゆらと揺れている。


『あの戦争は、こんな本に書けるような綺麗なもんじゃなかったぜ。もっと泥沼で、空が毎日燃えてて……口の中はずっと灰の味がしてた。絶望の味しかしない日々だったんだよ』

「……ああ。俺の記憶も断片的だけど、ひどい光景だったことだけは覚えてる」  


 小声で同意しつつ、俺は分厚い古書をめくる。  

 指先に指先に触れる紙はざらついていて、長い年月を経た茶色がかったしみが、乾いた血痕のように見えた。

 時刻はとっくに深夜を回っている。本来なら、明日の地獄のような訓練に備えて、泥のように眠っているべき時間だ。  

 なのに、目が冴えてどうしようもなかった。昼間の光景が、フラッシュバックする。カインの一撃。そして、去り際のオスカーの背中。あの完璧に凍りついた、作り物めいた笑顔が、まぶたの裏に焼き付いて離れないのだ。  

 だから、気晴らし半分、調べ物半分でここに来た。

 

 探しているのは『数百年前の魔王戦争』の結末。特に、当時の精霊王がどうやって魔王を封印したのか。その際に支払ったはずの“代償”についての記述。けれど、ページをいくらめくっても、欲しい言葉だけが抜け落ちている。


『……肝心な記述が、足りませんね』  


 風の精霊フィオが、緑色の小鳥の姿で本の上を覗き込み、悲しげに羽を震わせた。


『“勇者と精霊王は、深淵の王を封じ、世界に光を取り戻した”。……書かれているのは結果だけ。人間たちは、都合の悪い真実――我が王が最後に何を支払ったのか――を、綺麗なおとぎ話に書き換えてしまったようです』

「……なぁ、お前らも覚えてないのか? あの最後の瞬間のこと」  


 俺がすがるように問うと、ヴァルがバツが悪そうに耳を伏せた。


『あァ? わりぃなルーク。あの時はオレたちも限界で……テメェがオレたちを守るために、強制的に繋がり(リンク)を切って遠ざけたんだよ』

『ええ。私たちが核を砕いてでも戻ろうとした時には、もう全てが終わっていましたから』  


 フィオの声が沈む。  

 そうか、こいつらも肝心なところを見ていないんだった。

 俺の前世の記憶も穴あきチーズみたいにスカスカだ。だからこそ、人間側が残した記録に手がかりがないかと思ったんだが。


「……やっぱ、載ってないか」  


 都合の悪いことは歴史から消す。どこの世界でも、いつの時代でも変わらない、権力者の常套手段。  

 はぁ、と深く重たい溜め息を吐き出して、本を棚に戻そうとした。  


 その時だ。

 

 奥の区画――閲覧制限がかかっている『禁書庫』のエリアから、微かな光が漏れているのが見えた。  

 あそこは、上級騎士以上の身分証パスがないと入れない場所だ。俺みたいな特務候補生には縁がない聖域。あるいは魔域。  


 誰かいるのか?  こんな時間に。  

 泥棒か、他国の間者なら、騎士団に通報しなきゃならない。  

 俺はとっさに気配を消す。呼吸を浅くし、だだ漏れになりがちな霊素の蛇口をぎゅっと絞る。得意の『隠蔽マスク』だ。これなら、Aランクの騎士でもそうそう気づかない。  


 音を殺して近づく。  

 書架の陰から、そっと覗く。


 ――いた。  


 魔導ランプの蒼白い、病的な明かりの中に、ひとりの男が座り込んでいた。  


 オスカー・ヴァルド・ガルドリアン。  

 昼間の、あんなに完璧だった軍装とは違う。シャツ一枚のラフな姿だ。けれど、その背筋は定規で引いたみたいに伸びている。  

 彼は、一心不乱に本を読んでいた。いや、“読んでいる”なんて生易しいものじゃない。文字を、食らっている。  

 ページをめくる指先が、白くなるほど強く紙を掴んでいる。鬼気迫る形相だ。普段の涼しげな貴公子の面影は、どこにもない。  

 何を見てるんだ?  俺は目を細めて、精霊視サイトを凝らす。文字までは読めないが、本の表題から漂ってくる霊素の“色”で、どんな種類の本かはだいたいわかる。


 どす黒い紫。そして、毒々しい赤。  


 『霊核強制拡張の理論と禁忌』  

 『精霊契約の“書き換え”に関する考察』  

 『古代儀式――魂の代償について』


 ……おいおい。冗談だろ、副団長。  

 背筋に冷たいものが走った。  


 あれは、まともな騎士が読むもんじゃない。魔導ギルドなら一発で発禁図書扱いだ。霊素循環のことわりを無視して、無理やり力を引き出すための外法げほう。  


 命の前借りに近い術式だぞ、それは。  

 オスカーは、ページをめくる、めくる、めくる。  

 その目は充血していて、焦りと渇望に満ちていた。


「……ない」  


 静寂の図書室に、乾いた声が落ちる。独り言だ。


「……こんな記述ばかりだ。精神の崩壊、霊核の自壊、寿命の欠損……リスクばかり書き連ねて、肝心の“到達”については……」  


 ドンッ、と机を拳で叩く音が響いた。積み上げられた本がぐらりと揺れる。


「私は……あんな、運だけで手に入れたような力に……負けるわけには……」


 聞いてしまった。聞いちまったよ、本音を。  


 あの完璧な笑顔の下で、ドロドロに煮詰まっていた感情のおりを。  

 カインに一撃を入れられたこと。俺とフェデが、ドワーフの山で理外の力を見せつけたこと。それが、真面目すぎた彼のプライドを、粉々に砕いちまったんだ。  


 Aランク。霊核数値スコア一万二千。  

 人間としては到達点だ。天才の領域だ。血の滲むような努力でそこまで行ける奴なんて、一握りもいない。  

 でも、俺たちみたいな「異端」の前じゃ、その数字は無意味に見えちまう。  

 俺の、測定不能の歪み。フェデの、理不尽なまでの神性。努力じゃ埋まらない溝があるって事実が、彼をここまで追い詰めている。


『……ルーク。あの男の周り、霊素が濁り始めてるぞ』  


 ヴァルが低い声で警告する。


『あれは、探究心じゃねぇ。渇望だ。……魔が入り込む隙間だらけだぜ』  


 わかってる。  

 声をかけるべきか?  


「副団長、そんな本読んでも意味ないですよ」って?  

「俺なんか気にしないでください」って?  


 だめだ。何を言っても、今の彼には「強者の余裕」という名の猛毒にしかならない。  

 俺が迷っている間に、オスカーがふと、顔を上げた。視線が、暗闇の中の俺を正確に捉える。


「……誰だ」  


 鋭い声。殺気が混じっている。  

 見つかった。俺は観念して、書架の陰から姿を現した。


「……こんばんは、副団長。いやあ、奇遇ですね。俺もちょっと、調べ物があって」  


 なるべく、間抜けな声を出したつもりだ。  

 オスカーの目が、一瞬だけ泳ぐ。机の上の禁書を、無造作に、でも素早く他の本の下へ隠す手つき。  


 そして、次の瞬間には――


「ああ、ルークか。……熱心だな」  


 仮面が貼り付いた。いつもの完璧で、隙のない理想の上官の顔。でも、張り替えたばかりの壁紙みたいに、端っこが浮いている気がする。目が、笑っていない。ランプの光が作る影が、やけに濃く見える。


「副団長こそ。……こんな時間まで、お疲れ様です」

「……部下に後れを取るわけにはいかないからな。指揮官として、常に最善を学ぶ必要がある」  


 嘘だ。  

 あんたが学ぼうとしてたのは、指揮官の心得なんかじゃない。もっと危険な、魂を削って力を得るための、禁断の抜け道だ。


「……ほどほどにしてくださいよ。カインたちも、副団長が倒れたら泣きますから」  


 精一杯の皮肉交じりの気遣い。オスカーは、ふっと口元だけで笑った。


「心配無用だ。……私は、ガルドリアの盾だからな。折れることなど許されない」  


 その言葉が、自分自身への戒めなのか、それとも呪いなのか。彼は立ち上がると、隠した本を抱えたまま、「先に戻る」と言い残して出口へと向かった。  

 すれ違いざま、ふわりと焦げ臭い匂いがした気がした。火薬のような、あるいは、心が焼け焦げたような匂い。


『……主。あの男、契約精霊の声が届いてねえぞ』  


 ヴァルが苦々しげに呟く。


『グランの野郎が、必死に呼びかけてるのに……あいつ、耳を塞いでやがる』  


 契約精霊のグラン。

 規律と守護を司る炎の上位精霊。  


 オスカーの正しさの象徴だったはずの相棒の声すら、今の彼にはノイズでしかないのか。


「……やばいな」  


 俺は、誰もいなくなった閲覧席を見つめる。

 そこには、重苦しい沈黙だけが残されていた。  


 正しい道を行こうとして、正しさに押しつぶされそうになっている男。  

 その背中を押してやれる資格なんて、理不尽な力を持ってのうのうと生きてる俺には、ないのかもしれない。


「……帰ろうぜ、フェデ。フィオ。ヴァル」  


 足元のフェデが、不安そうに「くぅン」と鳴く。俺はその頭を撫でながら、重たい足取りで階段を登った。  


 図書館の闇は、思ったよりも深くて濃い。  

 それが、これからの俺たちを飲み込もうとしている前兆みたいで、俺は身震いを一つした。


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