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第90話  兄からの手紙

 あー、くそ。


 空気が重い。あの胃の痛くなる報告会が終わってからというもの、俺の胃袋はずっと見えない手に雑巾絞りされているみたいだ。キリキリと、中身がないのに悲鳴だけを上げ続けている。


 特務候補生寮、俺に割り当てられた一室。無駄にふかふかすぎて逆に腰が痛くなる高級ベッドへ大の字になりながら、俺は天井の板張りを見上げている。


 一、二、三……。あそこの木目、なんか人の顔に見えてこないか。……いややめよう。現実逃避のために木目を数えるなんて、末期症状もいいところだ。すぐ横では、フェデがだらしなく腹を出して爆睡している。  

 こいつの神経の図太さは、一体どういう構造になってるんだ? よくもまあ、そんな幸せそうな寝息を立てられるもんだ。


『ルーク、眉間のシワすごいぞー?』


 枕元のもこもことした感触が動く。ひょっこりと赤い毛玉が顔を出した。炎の精霊、ヴァルだ。こいつはまた、俺の胃痛なんぞ知ったことかと言わんばかりの、すっとぼけた顔をしてやがる。


「……うるさいな。誰のせいだと思ってんだよ」

『俺らのせいじゃねぇし。あの堅物副団長が、勝手に張り詰めて勝手に弾け飛んだだけだろ?』


「言い方! もっとこう、人としての配慮というか、薄皮一枚で包むとかさぁ」

『事実だろ。あいつ、自分の殻に閉じこもって窒息しそうだったじゃん。見てるこっちまで息苦しかったぜ』


 ヴァルはフンと鼻を鳴らして、ふいっとそっぽを向いた。


 まあ、精霊の目から見ればそう映るのかもしれない。あいつらは感情と現象が直結している生き物だから。でも人間ってのは、そんな単純なからくりじゃ動いてないんだよ。

 プライドだとか、立場だとか、王族としての面子だとか。そういう、生きる上では何の役にも立たないくせに重たい装飾品をジャラジャラと魂にぶら下げて、本当は歩くのもやっとなくせに「軽い軽い」って笑ってなきゃいけない。そういう、とてつもなく面倒くさい生き物なんだ。


『ルークさま……』


 今度は、宙を泳ぐ人魚のラグが、心配そうに俺の鼻先へ冷たい指を触れてくる。ひやりとした感触に、熱を持った思考が少しだけ冷やされる。


『水が、澱んでいます……副団長のお部屋から、冷たくて、どろりと重たい雫が落ちるような気配が』

「……マジか」


『はい。流れを堰き止められた水は、やがて腐ります。今のあの人は、出口のない湖のようです』


 ラグの静かな言葉に、背筋を冷たいものが這い上がった。出口のない湖。水は入り続けるのに、どこへも行けない。それはつまり、あとは水位が増して、中にあるもの全てを飲み込んで沈んでいくだけってことじゃないか。


 ***


 その頃。副団長執務室。そこは、光の届かない深海の底みたいに静まり返っていた。

 明かりもつけず、分厚いカーテンを閉め切った薄暗い部屋。空気すらも動くことを拒否しているような閉塞感の中、オスカー・ヴァルド・ガルドリアンは、執務机の前で石像みたいに固まっていた。


 その手には、一通の手紙。


 ガルドリア王家の紋章が押された封蝋。そして、第一王子の私印。兄上、レオンハルトからの手紙だ。

 王都に戻ったばかりだというのに。報告会が終わって、まだ数時間しか経っていないというのに。もう、届いた。早すぎる。まるで、最初からこうなる結末を知っていたみたいに。あるいは、私が失敗することを見越して、あらかじめ用意されていたかのように。


「……ふぅ」


 震えそうになる指先を、もう片方の手で必死に抑え込んで、封を切る。  

 カサリ、と。乾いた音が、静寂の中でやけに大きく鼓膜を叩いた。

 中に入っていたのは、上質な羊皮紙が一枚だけ。兄らしい、流れるような、それでいて刃物みたいに鋭利な筆跡。オスカーの視線が、恐る恐るその文字の上を滑る。


『帰還、ご苦労』


 短い書き出し。本来なら労いの言葉であるはずなのに、ちっとも体温を感じない。氷で作られたナイフのような言葉。


『報告は受けている。北方の吹雪、そして坑道での戦い。……被害ゼロでの帰還、流石だと言っておこう』


 心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。知ってる。全部、知ってるんだ。

 

 私がどんな体裁を取り繕った報告書を出そうが、関係ない。兄上の「目」は、あの極寒の雪山にも、灼熱の坑道にも届いていたのだ。私がフェデの圧倒的な力に気圧されたことも、ルークに実質的な指揮権を奪われたような形になったことも、全部。


 何もかも。


『お前はやはり、優秀な盾だな』


 その一文で、呼吸が止まった。

 

《盾》


 はっきりと、そう書かれていた。剣ではない。王ではない。盾、だと。


『部下を守り、損耗を防ぎ、戦線を維持する。その能力において、お前の右に出る者はいないだろう。……前線で泥を啜り、身を挺して国を守る。それこそが、お前の天分だ』


 文字が、ぐにゃりと歪んで見える。これは褒め言葉なんかじゃない。綺麗な包装紙に包まれた、死刑宣告だ。


 兄上は言っているんだ。

「お前はそこで止まっていろ」と。

「王になろうなどと、身の程知らずな夢を見るな」と。


『剣(王)にはなれないが、国のためによく尽くしてくれている。……安心しろ。お前のような“便利な道具”を、私は無下に扱ったりはしない』


 便利な道具、道具だと?  

 私は……王族だぞ。  

 同じ血を引く、兄弟だぞ。


『そろそろ、身の振り方を考えたらどうだ? 辺境に土地と公爵の地位でも用意してやろう。そこで一生、泥にまみれて“守り”に徹していればいい。……それが、お前にとって一番の幸せだろう?』


 カシャリ

 手の中の羊皮紙が、悲鳴を上げた。無意識に握りしめた拳の中で、兄上の言葉がくしゃくしゃに潰れていく。


「……ふざ、けるな」


 喉の奥から、乾いた笑いが空気が漏れるように溢れた。  


 幸せ?  

 これが?  

 兄上の慈悲で、辺境の地へ追いやられて、一生飼い殺しにされるのが?



「私は……私はっ……!」

 違う、断じて違う。私は、盾なんかじゃない。ただ守るだけの、殴られるのを待つだけの、便利な壁なんかじゃない。  

 私は剣だ。敵を貫き、道を切り開き、民を導く王の剣だ。そう信じて、誰よりも剣を振ってきた。誰よりも血を流してきた。手のひらの皮がめくれ、固まって、また剥がれるまで。


 なのに


「あぁ……そうか」


 ストン、と何かが腑に落ちた音がした。重い石を古井戸に投げ込んだような、暗い音。兄上は、最初から見ていなかったんだ。私という人間を。オスカーという弟を。ただの、「使える機能」がついた駒としてしか、見ていなかった。


 脳裏に、あの黄金の光が鮮烈に蘇る。ルークの霊獣、フェデリオ。あいつが放った、あの一撃。私の盾をドロドロに溶かした灼熱すらも、いとも簡単に弾き返した、あの理不尽なまでの輝き。


「……ずるい、じゃないか」


 ポツリと、言葉が唇からこぼれ落ちた。ふと見れば、机の上にインク壺が転がっている。いつのまにか、感情に任せて払いのけていたらしい。黒いインクが、じわじわと羊皮紙を侵食していく。  

 兄上の完璧な文字が、美しい筆跡が、どす黒く塗りつぶされていく。


「私は、こんなに必死なのに」


 爪が手のひらに食い込んで、赤い血が滲む。痛い。でも、胸の奥に空いた空洞のほうが、もっと痛い。  

 寒い。誰か、誰か私を認めてくれ。盾としてじゃなく。道具としてじゃなく。私を、王として。


「力が……欲しい」


 誰にも負けない力が。兄上を黙らせ、ルークを見返し、あのアホ犬をひれ伏させるような、絶対的な力が。たとえそれが、どんなに黒くて、熱いものであったとしても。

 広がり続けるインクの染みが、まるで深淵の口のように見えた。それが私を呼んでいる気がして、私はふらりと、誘われるようにその黒い闇へ指を伸ばしていた。


 ***


 廊下に出た瞬間、俺は「うっ」と呻いて足を止めた。なんだこれ。空気が、刺すみたいに痛い。皮膚がチリチリする。

 副団長室の前。いつもなら書類をめくる音とか、几帳面な足音とかが聞こえてくるはずなのに、今日は完全に無音だ。静かすぎる。まるで、嵐が来る直前の海みたいに。


「……旦那、やめとけ」


 肩に乗っていた雷の精霊アルクが、バチッと俺の頬を叩いた。普段はふざけてるこいつが、珍しく真剣な、低い声を出している。


「あの扉の向こう、ヤバいぞ。静電気なんてもんじゃない。もっとこう、ドロッとした、重たいもんが渦巻いてやがる」

「……重たいもん?」

「ああ。火薬庫の中で火遊びしてるみてぇな危うさだ。今お前が不用意に声かけたら、間違いなく爆発するぜ」


 アルクの言葉に、俺はノックしようと持ち上げた手を、空中で止めた。そのままゆっくりと下ろす。爆発、か。なんとなく、わかる気がした。

 今のオスカーに必要なのは、俺みたいな「成功者(に見える奴)」からの安い慰めじゃない。今の俺には、どうすればいいのか、さっぱりわからなかった。

 俺が近づけば近づくほど、彼は傷つくのかもしれない。俺が光れば光るほど、彼の足元の影は濃くなる。そんな残酷な天秤の上に、俺たちは立たされている気がして。


「……行こう、フェデ」


 足元にまとわりついてくるフェデの頭を、ぐしゃぐしゃと撫でる。こいつの体温だけが、今の俺の救いだ。俺は逃げるように、その場を離れた。

 背中の後ろで、闇に沈んだドアが、じっと俺を見つめているような気がした。視線なんてないはずなのに、背中が焼けつくようだ。  

 王都の夜は、今日も息苦しい。遠くで鳴る鐘の音が、何かの終わりを告げているようで、俺は思わず身震いをした。


 この嫌な予感が、ただの気のせいであってくれればいいのに。そう願いながら、俺は長い廊下を歩いていった。  

 その自分の影が、やがて世界を飲み込むほどの深淵に繋がっていることなんて、今の俺はまだ知る由もなかった。


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