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第89話  本部への報告

 帰ってきた。本当に、やっとだ。

 

 鼻毛まで凍っちまうような北の雪山で歩き、ドワーフの頑固親父に怒鳴られ、溶岩を吐く亀なんていう理不尽のかたまりみたいな怪物と追いかけっこをした末に。

 

 ガルドリア王都、《世界樹守護聖堂砦(セント・アルボル要塞)》


 見上げれば首が痛くなるほど高い黒鉄の城壁も、肌を刺すようなピリピリした軍事国家特有の空気も、今はなんだか実家のような安心感がある……いや、言い過ぎた。安心感はない。ここ、基本的に空気が重いし、胃に悪い。

 

 でもまあ、サウナ付きの寮とフカフカのベッドがあるってだけで、今の俺にとっては天国なわけで。

 ただ。その「生きて帰れた喜び」を、俺たちは誰一人として口に出せなかった。先頭を歩く、あの人の背中があまりにも完璧すぎたからだ。


 オスカー副団長。泥もすすも払われた白銀の鎧。乱れのない歩調。すれ違う騎士たちに向ける、非の打ち所がない敬礼。

 

 外から見れば、困難な任務を完遂して帰還した英雄的な指揮官そのものだ。けれど、俺の目には――精霊視には、見えてしまう。  

 彼の内側で、感情という感情がすべて凍結処理されて、能面みたいな仮面の下でドロドロした何かが渦巻いているのが。あれはもう、忍耐とかそういうレベルじゃない。自分の心を万力で締め上げて、無理やり形を保たせているような、痛々しい姿だった。


「――総団長がお待ちだ。作戦室へ向かう」


 振り返りもせず、事務的に告げられた声。温度がない。まるで録音された音声を再生しているみたいだ。  

 カインが俺の脇腹を小突いてくる。目で「どうすんだよこれ」と訴えているが、知るか。俺だって胃が痛いんだよ。ふところの中で、炎のヴァルが『ケッ、辛気臭ぇなぁ。まきが湿気ってけむってるみてぇだ』とあくびをした。こいつら精霊は気楽でいいよな。俺なんか、これから始まる報告会が、どんな残酷ショーになるのか想像するだけで吐きそうだっていうのに。


 ***


 本部の最上層にある戦略作戦室。分厚い樫の木の扉が開くと、そこには相変わらず「雷」そのものみたいな圧迫感を放つ男が座っていた。

 

 総団長アウストレア・ラインハルト 


 書類の山に埋もれながら、それでも部屋中の空気を支配している怪物。彼が顔を上げ、俺たちを一瞥いちべつする。それだけで室内の気温が二、三度は下がった気がした。  

 俺とカイン、ノルンは直立不動。フェデだけが「あ、ここ絨毯じゅうたんふかふかだ」みたいな顔で腹をつけて寛いでいる。大物すぎるだろ、お前。空気読んでくれ。


「報告を。オスカー副団長」

「ハッ」


 オスカーが一歩前に出る。その手には、きっちりと製本された報告書。  


 俺は思わず身構えた。あの遠征で起きたこと。溶岩亀との戦いでオスカーの盾が溶かされたこと。俺が指揮権を奪う形になったこと。そして、フェデが規格外の力で全部持っていったこと。オスカーのプライドを考えれば、ある程度オブラートに包むか、あるいは自分を正当化するような報告になってもおかしくない。人間だもの、自分の恥をわざわざ上司の前で大声で叫びたい奴なんていない。


 だけど。オスカーの口から語られたのは、感情を一切排した、機械的なまでに完璧な「事実の羅列」だった。


「――北方山脈における輸送路の確保、およびドワーフ側との交渉、完了いたしました。また、深層坑道にて発生した変異種《溶岩亀》の討伐も完了。現地の被害は最小限に抑えられ、我が部隊の損耗率はゼロです」


 淡々とした声が響く。苦戦したことや、自身が死にかけたこと、プライドをへし折られたことなど、おくびにも出さない。  


 ただ「任務を完遂した」という結果だけを、誇るでもなく、卑下するでもなく並べていく。それは完璧な報告だった。  

 指揮官として、これ以上ないほど優秀な仕事ぶりだ。


 アウストレアは、しばらく無言で報告書に目を通していた。ページをめくる音だけが、やけに大きく響く。永遠にも感じる時間のあと、総団長はふっと息を吐き、顔を上げた。


「……見事だ、オスカー」


 その言葉に、オスカーの肩がわずかに、本当にわずかに震えた。


「あの季節の雪山を行軍し、一人の落伍者も出さず、さらにはSランク相当の変異種を相手に死者ゼロで帰還する。……並の指揮官にできることではない。よくやった。貴様の采配は、騎士団の誇りそのものだ」


 《称賛》

 

 それは、オスカーが何よりも欲しかった言葉のはずだ。兄に、王家に、そして自分自身に証明したかった「自分の価値」。それを、騎士団のトップが認めたんだ。オスカーの仮面のような表情が、一瞬だけ揺らいだように見えた。張り詰めていた糸が緩んで、人間らしい色が戻りかけた、その時だった。


「――だが」


 アウストレアの声色が、ふっと変わる。  

 空気が、ピリついた。称賛の余韻を断ち切るように、総団長の視線がオスカーを通り越し、俺の足元――フェデへと突き刺さる。


「私が聞きたいのは、そちらではない」


 オスカーの肩が、びくりと跳ねた。アウストレアは手元の別の資料――誰かが作成した極秘報告書だろう――を指先で叩いた。


「ルーカス候補生。そして、その霊獣。……報告書にある『坑道全体を覆う黄金の光』と、『熱の概念の遮断』。……これは、なんだ?」


 部屋の空気が、一瞬で張り詰めた。総団長の興味は、すでにオスカーの「完璧な指揮」にはない。彼が見ているのは、俺という「異常」だけだ。オスカーが命懸けで守り抜いた部隊の安全も、彼のプライドをかけた戦いも、組織にとっては「前提」でしかなくて。


 本当に重要なのは、理解不能な力を振るう新人の正体だけ。


「い、いえ、それは……フェデがちょっと興奮しちゃって……光るのは、ほら、威嚇いかく? みたいなもので……」


 俺がしどろもどろに言い訳をする間、オスカーは一言も発さなかった。ただ、立ち尽くしていた。総団長と俺のやり取りを、蚊帳の外で聞いている。自分が主役のはずの報告会で、自分が命をかけた戦果が、ただの「前座」として処理されていくのを、黙って見ている。


「……まあいい。その力、引き続き監視対象とする。オスカー副団長、貴殿には引き続き彼の監督を任せる。……その『首輪』が外れぬようにな」

「……ハッ。承知いたしました」


 首輪の管理者。それが、組織が彼に求めた役割だった。英雄的な指揮官ではなく、化け物の手綱を握るための、都合のいい見張り役。  


 アウストレアに悪気はないんだろう。組織の長として、未知の脅威を優先するのは正しい。でも、その「正しさ」が、今、オスカーという人間の心を、音もなくすり潰した気がした。


「以上だ。下がれ」


 ***


 重苦しい報告会が終わって、廊下に出た瞬間。俺はたまらず、オスカーの背中に声をかけた。


「副団長!」


 足が止まる。でも、振り返らない。


「あの、総団長も褒めてたじゃないですか。被害ゼロなんて、普通できませんよ。副団長の指揮があったから、俺たちは――」

「――ああ、そうだな」


 遮られた声は、恐ろしく平坦だった。ゆっくりと、彼が振り返る。そこには、完璧な笑顔があった。唇の端を綺麗に上げた、教本通りの、理想的な上官の笑み。だけど目は笑っていない。  

 青い瞳の奥が、暗い沼のように濁って、光を吸い込んでいる。


「私は評価された。任務は成功した。……何も、問題はない」

「副団長……」

「君もよくやったよ、ルーク。……君のおかげで、私の経歴に傷がつかずに済んだ」


 ゾクリ、と背筋が冷えた。感謝の言葉のはずなのに。まるで「お前のせいで、私は自分が無能だと証明された」と言われているような、冷たい響き。


「疲れただろう。今日はもう休みたまえ」


 オスカーはきびすを返し、長い廊下を歩き去っていった。  

 カツン、カツン、と響く足音が、やけに虚しく耳に残る。その背中は、以前よりもずっと大きく、立派に見えた。完璧な鎧。完璧な歩調。だけど、中身が入っていない。ただの空洞が、鎧を着て歩いているような、そんな不気味な危うさ。


『ルーク、あいつ……もうダメかもしんねぇな』  


 懐から顔を出したヴァルが、珍しく真剣な声で囁いた。


『火が消えかけてるんじゃねぇ。……別のモンが、燃え始めてやがる。湿気った嫉妬と、真っ黒なプライドを燃料にしてな』


 分かってる。俺だって、精霊視で見えていた。かつて彼の中にあった、不器用だけど真っ直ぐで熱い炎が、今はドロドロとした黒いタールみたいなものに覆われているのが。称賛されたことで、逆に傷口が深くなるなんて。


「お前はよくやった(凡人としては)」という評価が、彼にとってどれだけの猛毒だったか。


「……どうすりゃいいんだよ」


 俺の呟きは、誰にも届かずに石造りの廊下に吸い込まれた。足元で、フェデが不安そうに「くぅん」と鳴いて、俺の足に体を擦り付けてくる。  

 俺はしゃがみ込んで、その温かい毛並みを撫でた。俺の評価は上がった。組織の注目は、完全に俺とフェデに向いた。でも、その代償に、俺たちは決定的に何かを踏み潰してしまった気がする。

 

 壊れかけたアストラの鞘は直ったけれど。完璧な仮面の下で壊れてしまった人の心は、どうやって直せばいいのか。鍛冶王も、精霊たちも、誰も教えてはくれなかった。

 窓の外では、王都の空に鉛色の雲が垂れ込めている。まるで、これから起こる嵐を予感させるような、重たくて湿った風が、廊下を吹き抜けていった。


 その時、灰色の空の向こうから、一羽の黒い鳥が――王家からの伝令鳥が、こちらの塔へ向かって飛んでくるのが見えた。  


 あれは、きっと。彼への「追い打ち」を運んでくる、死神の使いだ。



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