第88話 ノルンの気遣い
痛い。
寒さで頬が痛いのか、それともさっきの会話の失敗で胸が痛いのか、もう区別がつかない。
俺とオスカーの間には、物理的な距離以上の、深くて冷たい溝ができてしまっていた。
彼はもう、俺を見ない。ただ前だけを向いて、機械みたいに正確な手綱さばきで馬を進めている。その背中が「話しかけるな」と拒絶のオーラを全方位に放射しているものだから、周りの空気まで凍りつきそうだ。
気まずい。
息をするのも忘れるくらい、空気が重い。俺はマフラーに顔を埋めて、自分の不甲斐なさを呪った。
「対等な熱」?
「仲間を守る」?
ハルドの親父さん、あんたの言うことは正しいよ。でもさ、実践するのは難易度が高すぎる。俺が何を言っても、今の彼には「強者の余裕」か「憐れみ」にしか聞こえないんだから。
「敵を倒したのはお前だ」
あの自嘲気味な声が、耳の奥でリピート再生されて離れない。俺は、どうしようもない無力感に溺れかけていた。
どうすりゃいいんだ。このまま王都まで、お通夜みたいな行軍を続けるのか?そんな俺のネガティブな思考を、不意に明るい声が切り裂いた。
「副団長さーん!」
え?
顔を上げると、それまでカインの背中にへばりついて死にかけていたはずのノルンが、わざわざ馬を寄せて前に出ていた。狐耳のついたフードを目深にかぶって、寒さに鼻を赤くしながらも、彼女は努めて明るい声を張り上げている。
「さっきの指示、完璧でしたよぉ! あそこで『密集隊形』の号令がなかったら、私なんて今頃カチコチの氷像になって、来年の雪解けまで発見されなかった自信ありますもん!」
……ノルン。俺は目を見開いた。
あいつ、いつもは「眠い〜」とか「サボりた〜い」とか言ってるだけの、省エネ主義者だろ。面倒ごとなんて一番嫌いなはずだ。なのに、わざわざ、このピリピリした空気の中に飛び込んでいったのか。
オスカーの肩が、ピクリと揺れた。彼はゆっくりと、ノルンの方へ顔を向ける。その表情は、兜のバイザーに隠れてよく見えない。
「……そうか」
短い返事。声に温度がない。それでも、ノルンはめげない。彼女は獣人だ。鼻が利く。
たぶん、今のオスカーが発している「腐りかけた感情の匂い」を、誰よりも敏感に感じ取っているはずだ。だからこそ、あえて踏み込んだんだ。ピエロを演じてでも、この窒息しそうな空気を壊すために。
「ホントですよぉ! 私、感動しちゃいました。あのデカい亀が出てきたとき、正直『あ、終わったわこれ』って遺書の内容考えてましたけど……副団長が前に立ってくれた瞬間、『あ、勝てるかも』って思いましたもん!」
ノルンが大げさに身振り手振りを交える。それは半分お世辞かもしれない。でも、半分は本音だ。あの時のオスカーは、確かに輝いていた。
「ね、カイン君もそう思うでしょ!?」
「えっ、お、俺!?」
突然話を振られたカインが、ビクッと体を震わせる。でも、彼はすぐに空気を読んだ。いや、彼もまた、ずっと言いたかったことがあったんだ。
「は、はいッ! 俺も……俺もそう思います!」
カインが、真剣な顔で声を張り上げた。
「副団長の背中を見て、俺、震えました! 王家の盾ってのは、伊達じゃないんだなって……! 俺もいつか、あんなふうに誰かを守れるようになりたいです!」
純粋な、称賛。
打算も、裏表もない、直球の尊敬。本来なら、指揮官としてこれほど嬉しい言葉はないはずだ。部下からの信頼。それが騎士にとっての勲章だろ?
俺は、祈るような気持ちでオスカーを見た。届いてくれ。俺の言葉は弾かれたけど、彼らが言うなら。俺みたいな「規格外」じゃなくて、一緒に必死に戦った彼らの言葉なら、あの固い殻にヒビを入れられるんじゃないか。
オスカーが、口を開いた。
「……よせ」
静かな声だった。
「買い被るな。私は、当たり前のことをしただけだ」
「ええー? そんなことないですよぉ。あれだけの結界維持しながら指揮するなんて、並大抵の芸当じゃないですって!」
「……ノルン」
オスカーが、彼女の名前を呼んだ。その瞬間、場の空気がスッと冷えた気がした。彼は、兜のバイザーを上げた。そこに現れた顔を見て、俺は息を呑んだ。
笑っていた、完璧に。
非の打ち所がない、理想的な上官の微笑み。眉の角度も、口元の緩み具合も、すべてが計算され尽くしたような、「慈愛に満ちた指導者」の顔。
「部下を無事に帰すのが、指揮官の務めだ。……君たちが無事でよかった。私の指示が役に立ったのなら、光栄だよ」
綺麗すぎる。あまりにも、綺麗すぎて。人間味が、ごっそりと抜け落ちていた。
「それに、カイン。君の剣も良かったぞ。あの状況でよく踏み込んだ。……次はもっと上手くやれるはずだ」
「は、はいっ! ありがとうございます!」
カインは顔を輝かせている。憧れの上官に褒められて、天にも昇る心地なんだろう。ノルンも、「えへへ」と笑っている。空気が和らいだことに、安堵しているのかもしれない。
でも、俺には、見えてしまった。精霊視なんて使わなくても、わかってしまった。オスカーが今、自分の心に、分厚い鉄の扉を叩きつけて、鍵をかけた音が。
(……違う)
俺は、握り拳に爪を食い込ませた。あれは、「受け入れた」んじゃない。「演じ直した」んだ。傷ついた自分を。惨めな自分を。ルークという規格外に自信をへし折られた、無様な自分を。部下たちの前で晒すまいと、必死に「完璧な副団長」という仮面を、ひび割れた素顔の上に接着剤で貼り付けたんだ。
『副団長はすごい』その言葉を、彼はきっと、心の中では嘲笑っている。
『何も知らないくせに』と。
『本当はルークが全部やったのに、お前たちは節穴か』と。
彼らの純粋な称賛すら、今の彼にとっては、自分の無力さをえぐる刃物にしかなっていない。
「……さあ、行くぞ。王都へ戻れば、温かいスープが待っている」
オスカーは、爽やかに言って前を向いた。その背中は、さっきまでの「拒絶」すら消えていた。ただ、つるんとした、無機質な壁。誰も寄せ付けないし、誰の言葉も浸透しない、絶対零度の要塞。
ノルンが、ふと振り返って俺を見た。そのキツネの耳が、ぺたんと伏せられている。
彼女も、気づいたんだ。自分の気遣いが、結果として彼を「完璧な役割」の中に閉じ込めてしまったことに。
『失敗しちゃいました……』と、彼女の瞳が語っていた。
俺は、小さく首を横に振った。お前のせいじゃない。誰のせいでもないんだ。ただ、オスカーという男が背負っている「王族」という荷物が、あまりにも重すぎて、下ろすことを許さないだけなんだ。
『……重症だな』
懐の中で、ヴァルがため息をついた。
『あいつ、もう自分の火で暖まるのを諦めてやがる。……誰かに薪をくべてもらうんじゃなくて、自分自身を凍らせて固める道を選びやがった』
俺は、何も言わずに空を見上げた。
吹雪は止まない。白い闇が、俺たちを飲み込んでいく。
王都へ戻れば、報告が待っている。第一王子、レオンハルトへの報告が。
兄の前で、彼はこの「完璧な仮面」を維持できるんだろうか。
それとも、兄という絶対的な太陽の前で、その仮面ごと砕け散ってしまうんだろうか。
嫌な予感しかしない。俺の胃袋が、キリキリと音を立てて悲鳴を上げていた。




