第87話 帰路の吹雪と対話
北方の山脈からの下山道。
真っ白だった。上も下も、右も左もわかんない。世界ぜんぶが、巨大な白いペンキのバケツに頭から突っ込んだみたいになってる。視界ゼロ。いわゆるホワイトアウトってやつだ。
ドワーフの砦都市を出て数時間。山を下りるルートに入った途端にこれ。山の天気は変わりやすいなんて言うけどさ、変わりすぎだろ。情緒不安定かよ。さっきまでのドワーフたちの熱気が嘘みたいに、世界が冷凍庫に放り込まれてる。
なのにだ。俺たちの隊列は、驚くほど整然と進んでいた。一人の脱落者も、凍傷患者も出さずに。理由は単純。先頭を行く男の背中が、あまりにも完璧すぎるからだ。
「――風が変わる。第二小隊、右翼へ展開。結界密度を上げろ」
「はっ!」
「第三小隊、足場が脆い。霊導索を確保しろ」
「了解!」
オスカー・ヴァルド・ガルドリアン。ガルドリア王国の第二王子にして、セカイジュ騎士団副団長。
吹雪の中で、彼の指示は短く、的確で、そして冷徹なまでに無駄がない。
彼が契約している炎の上位精霊――グラン――その力が、見えないドームみたいに部隊全体を覆ってるのがわかる。
雪が、俺たちの頭上数メートルで溶けていくんだ。冷気は遮断され、足元の氷も適度に溶かされてグリップが効くようになってる。
これを、この人数分。しかも山を下りる数時間、ずっと維持し続けるなんて、正気じゃない。魔力(霊素)の消費量とか、集中力の持続とか、そういう理屈じゃ説明がつかない領域だ。
執念としか言いようがない。
(……すごいな、やっぱり)
俺は、フェデの背中の毛に半分埋まりながら、前を行くその背中を見つめていた。懐の中では、炎精霊のヴァルが「あいつ、無茶しすぎだろ……魂まで燃やしてんじゃねぇか?」なんて物騒なことをボヤいてる。
そうなんだよな。見てて痛々しいくらいだ。でも、兵士たちの目は違う。
「副団長についていけば大丈夫だ!」
「俺たちの盾だ、絶対に崩れねぇ!」
そんな信頼――いや、信仰に近い熱っぽい視線を、あの背中に向けている。
俺も、その一人になりたかった。ただ単純に、「すごいですね」って笑い合える関係でいたかった。でも、俺の胸の奥には、今朝ハルドのおっさんに言われた言葉が、まだ棘みたいに刺さったままだ。
『お前の獣は、強すぎる』
『隣に立つ者の自信をへし折る』
あの言葉が、雪を踏むたびにリフレインする。俺が無自覚に振るった力が、あの完璧な指揮官のプライドを、ガラス細工みたいに粉々にしてしまったんじゃないかっていう恐怖。それを確かめるのが怖くて、ここ数時間、俺はずっと彼に話しかけられずにいた。
「……るっきー?」
フェデが、心配そうに首を捻ってこっちを見てくる。琥珀色の瞳が、「だいじょうぶ?」って聞いてくるみたいだ。ああ、わかってる。お前は悪くない。悪いのは、力の使い所を間違えた俺だ。だからこそ、俺が何とかしなきゃいけないんだ。
このまま無言で王都まで帰ったら、何かが決定的に終わっちまう気がする。そんな予感が、背筋を這い上がってくる悪寒みたいに止まらないんだ。
「……よし」
俺は小さく息を吐いて、覚悟を決めた。ちょうど、難所を越えて少し開けた場所に出たところだ。小休止の合図が出る。
オスカーは馬を降りて、兵士たちの様子を見て回っていた。声をかけ、肩を叩き、励ます。その姿は、絵に描いたような理想の騎士だ。
俺は、雪をかき分けながら彼に近づいた。心臓が、嫌な音を立てている。魔王と戦う時だって、こんなに緊張しなかったかもしれない。
「……副団長」
声をかけると、彼は振り返った。その顔には、いつもの完璧な微笑みが貼り付いている。
「どうした、ルーク。フェデリオの調子でも悪いのか?」
事務的で、滑らかな声。拒絶の色は見えない。でも、そこには温度もなかった。
「いえ、フェデは元気です。肉食いすぎて眠そうなくらいで」
軽口を叩いてみるけど、空回ってるのが自分でもわかる。オスカーの表情はピクリとも動かない。俺は、喉の奥に詰まった言葉を、必死に絞り出した。
「あの……ありがとうございます。この吹雪の中、これだけの結界を維持し続けるなんて……俺には、真似できません」
嘘じゃない。本心だ。俺の力は、瞬間的な出力なら負けないかもしれない。でも、こうやって大勢の人を、長時間、細心の注意を払って守り続けるなんて芸当は、俺の雑な霊素コントロールじゃ絶対に無理だ。
「あの結界がなかったら、俺たちだけじゃ無理でした。兵士たちも、みんな感謝してます。……やっぱり、副団長はすごいです」
言いながら、俺は彼の反応を伺った。
少しでいい。「当たり前だ」とか、「お前もまだまだだな」とか、以前みたいな憎まれ口でもいいから、人間らしい反応が返ってきてほしかった。
オスカーの瞳が一瞬、揺らいだ気がした。ほんの一瞬だ。氷の表面にヒビが入るみたいに、その完璧な仮面の下にある、ドロドロとした何かが透けて見えたような。けれど、それは瞬きする間に消えた。
彼は、ふっと視線を逸らした。遠く、雪に霞む山頂の方へ。
「……私は、守っただけだ」
その声は、風の音にかき消されそうなくらい小さかった。
「え?」
「敵を倒したのはお前だ、ルーク」
オスカーは、俺を見なかった。その言葉の意味を噛み砕くのに、数秒かかった。
守っただけ。それは、騎士として最高の仕事をしたという意味のはずだ。なのに、彼の口から出ると、まるで「役立たずの言い訳」みたいに聞こえた。
敵を倒したのはお前だ。それは称賛なんかじゃない。「主役はお前で、私は舞台装置に過ぎない」という、自嘲と諦め。
「ちが、違いますよ副団長! 俺はただ、フェデの力を借りて……」
「結果が全てだ」
ピシャリと、言葉を遮られた。オスカーが俺を見る。その目は、笑っていた。
笑っているのに、俺を映していない。俺の後ろにある、遥か遠い「何か」を見ているような、虚ろな目。
「お前は敵を殲滅し、脅威を取り除いた。私は、ただ被害を出さないように立ち回っただけだ。……英雄の仕事をしたのは、お前だよ」
綺麗な言葉だった。完璧な論理だった。でも、それが俺たちの間に、越えられない壁を作っていくのがわかった。
「副団長、俺は……」
「休憩は終わりだ。総員、出発準備!」
オスカーは踵を返した。拒絶されたわけじゃない。罵倒されたわけでもない。
ただ、「お前とは住む世界が違う」と、丁寧に線を引かれただけだ。その背中が、雪の中に遠ざかっていく。俺は手を伸ばしかけて、止めた。
なんて言えばいい?
『そんなことないです』?
そんな安っぽい慰めが、あの誇り高い男に届くわけがない。
『俺の力が異常なだけです』?
それは、余計に彼を惨めにするだけだ。
「……旦那」
肩の上で、雷精霊のアルクが小さな声で呟いた。
「ほっとけよ。あいつ、今にも壊れそうだぜ」
「……わかってる」
わかってるよ。壊れそうだからこそ、何とかしたかったんだ。でも、今の俺には、その壊れかけた欠片を繋ぎ止める接着剤が見つからない。俺が近づけば近づくほど、その振動で彼を壊してしまう気がして。
俺は無力感に打ちのめされながら、またフェデの背中に手を置いた。
温かい毛並みの感触だけが、唯一の救いだった。雪は、まだ止みそうにない。
この白い幕の向こうで、俺たちの道は、もう交わらない方向に分岐してしまっているのかもしれない。
そんな予感が、冷たい風と一緒に吹き抜けていった。




