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第85話  宴と称賛のズレ

 酒臭い。いや、臭いなどという生易しい表現では追いつかない。


 呼吸をするたびに、肺腑が酒精アルコールの霧でじっとりと濡れていくような錯覚に陥る。大気中の成分、酸素よりも酒の方が多いんじゃないか。火種をひとつ放り込めば、このドワーフの砦都市グラン・アーンの大広間ごと、俺たちは一瞬で消し炭になるに違いない。


 天井の高い石造りのホールは、今や巨大な酒樽の底だ。何百人ものドワーフと騎士たちが、まるで樽の中のニシンみたいにぎゅうぎゅう詰めになって、勝利という名の美酒に溺れている。

 

 ジョッキがぶつかり合って砕ける音、腹の底から絞り出される豪快な笑い声、誰かが興奮に任せてテーブルを叩くバンバンという野蛮なリズム。  


 全部が、デカい。熱気が物理的な圧力を持って渦を巻いている。  


 そりゃあまあ、無理もない話だ。深層の魔獣を撃退し、街の存亡に関わる危機を救ったのだから。明日をも知れぬ命を拾った連中が、タガの外れた馬鹿騒ぎをする。それは生き残った者の特権みたいなものだ。で、その狂乱の中心、台風の目となっているのが――誠に不本意ながら、俺とフェデだった。


「ガハハ! 見ろよこの毛並み! 王様が使う極上の絨毯じゅうたんみてぇだ!」

「こらこら、酒こぼすなよ! フェデが酔っ払っちまうだろ」

「兄ちゃんも飲め! ドワーフ特製の火酒ウォッカだ、喉が焼けるように美味いぞぉ!」


 俺の視界を埋め尽くすのは、むさ苦しい髭面と、岩のような筋肉の壁。  

 逃げ場はない。一方のフェデはといえば、相変わらずの愛されっぷりを発揮していた。ドワーフの子供たちに揉みくちゃにされながら、差し出された骨付き肉を「きゅぅ」と嬉しそうにかジっている。


 ご機嫌で尻尾を振るたびに、その風圧で近くのオッサンが薙ぎ倒されているけれど、誰も気にしちゃいない。むしろ倒されたことすら喜んでいる節がある。


 平和だ。脳みそが溶け出して耳から垂れてきそうなくらい、平和で、単純で、暴力的なまでの善意に満ちた宴。

 疑う余地のないハッピーエンドの光景。

 なのに俺は、どうしても酔えなかった。ジョッキを傾けるふりをして、波打つ琥珀色の液面を睨みながら、視線だけを巡らせる。探しているのは、この宴の“本当の”主役であるべき男だ。


 いた。上座のテーブル。一段高い、一番立派な席。  

 副団長オスカー・ヴァルド・ガルドリアン。彼は、そこに“置かれて”いた。  


 戦いのすすも泥も綺麗に拭き清められた鎧を身につけ、背筋を剣のようにピンと伸ばして。その手には、磨かれた銀の杯。周りには、カインやノルン、それにドワーフの親方連中が集まって、口々に彼を褒めそやしていた。


「いやぁ、さすがは副団長だ! あの溶岩亀のブレスを正面から受け止めるなんて、並の肝っ玉じゃできねぇ!」

「ああ! あの盾が時間を稼いでくれたから、俺たちが逃げる隙ができたんだ!」

「ガルドリアの盾は伊達じゃねぇな! 乾杯だ!」


 称賛の嵐。言葉の一つ一つに、熱がこもっている。嘘じゃない。彼らは本気で、心の底からオスカーを英雄だと信じ、褒め称えている。

 実際、オスカーが最初に突撃して魔獣の殺意ヘイトを一心に引き受けなければ、被害はもっと悲惨なことになっていただろう。彼の行動は、指揮官として立派だったし、盾が溶け落ちるまで一歩も退かなかった勇気は、間違いなく英雄のそれだった。だから、みんな屈託のない笑顔で彼を讃えている。


 だけど俺には、見えてしまっているんだ。その称賛の言葉が、オスカーの鼓膜に届くたびに、透明で鋭利な刃物へと変わり、彼の心を薄皮一枚ずつ切り刻んでいるのが。

 オスカーは、笑っていた。唇の端を完璧な角度で持ち上げて。王族として、貴族として、非の打ち所がない優雅な微笑み。


 「恐縮です」 「部下たちがよくやってくれました」  模範的な返答。声のトーンも一定。揺らぎがない。  

 まるで、精巧に作られた自動人形オートマタみたいだ。目が、死んでいる。ガラス玉のように周囲の光を反射するだけで、その奥底にあるはずの感情の色が、すっぽりと抜け落ちている。


 ドワーフの親方が、酒の入った赤い顔で、バンとオスカーの肩を叩いた。


「ま、最後はあのデッカイ犬っころが全部持っていっちまったけどな! ガハハ!」


 悪気のない冗談。場の空気をさらに盛り上げるための、ただの軽口。でも、その瞬間。オスカーの貼り付けた笑顔が、ピクリとひきつったのを、俺は見逃さなかった。  

 銀の杯を持つ指が、白くなるほど強く押し付けられている。金属が悲鳴を上げそうだ。

 聞こえているんだろうな、彼には。親方の言葉の裏に、誰も言っていないはずの幻聴が。

 

『お前はただの時間稼ぎだった』  

『本物はあっち(フェデ)だ』  

『王族なんて言っても、所詮は人間だな』  


 劣等感という名の歪んだ水底から世界を見上げれば、どんな温かい言葉も、すべて自分への嘲笑に聞こえてしまう。  

 彼の脳裏に焼き付いているのは、飴細工のようにドロドロに溶けた無様な自分の盾と、それをあざ笑うかのように無傷で立っていた黄金の獣。そして、涼しい顔で「お手」を命じた、俺の顔だけ。


 俺は、いたたまれなくなって目を逸らした。あそこに行って、「いやいや副団長マジですごかったっすよ、俺なんかより全然」なんて追従フォローを入れたらどうなる?逆効果だ。火に油を注ぐようなものだ。  


「お前に慰められるのが一番惨めだ」って顔をされるに決まってる。手詰まりだ。どうあがいても、今の俺という存在そのものが、彼の傷口に塩を塗り込み、ぐりぐりとえぐっている。


 ふと、オスカーが立ち上がった。親方たちに軽く会釈をして、やんわりと歓談の輪を抜ける。

 

「少し、風に当たってくる」

 

 騒音にかき消されたが、そんな唇の動きが見えた気がした。誰も止めない。英雄の一時の休息だと思っているからだ。  

 オスカーは背筋を伸ばしたまま、ゆっくりと歩いていく。賑やかなホールの出口へ。光の届かない、暗い回廊の方へ。その背中が、宴の喧騒から切り離された影みたいに、ひどく孤独に揺れている。


 ……放っておくべきか?それが優しさってやつか?でも、俺の足は勝手に動いていた。懐に入っているヴァルが『よせよ』と小さく身じろぎして警告してくるのを感じながら、俺は人垣をすり抜け、酒と熱気の渦から逃れるようにして、彼の後を追った。


 大広間を一歩出ると、静寂が耳に痛かった。石造りの長い回廊。壁に掛けられた松明の灯りが、等間隔に揺れているだけで、人の気配はまったくない。遠くから、宴の笑い声が水底の音のようにくぐもって聞こえてくるのが、余計にここの寒々しさを際立たせている。


 オスカーは、少し先にいた。立ち止まっている。冷たい石壁に手をついて、うつむいて。広い肩が、小刻みに震えていた。


「……認めろと……いうのか……」

 

 掠れた、喉から無理やり絞り出すような声。


「あれが……器の差だと……? 私が積み上げてきた研鑽は……王家の誇りは……あんな、ふざけた獣の一撃より、軽いというのか……ッ!」


 ドンッ!!  


 鈍く、重い音が響いた。オスカーが、拳で石壁を殴りつけた音だ。手甲もつけていない、剥き出しの拳で。  

 硬い岩肌に、じわりと赤が滲む。でも、彼は止まらなかった。


「ふざけるな……ふざけるなッ! 私は、私は……!」


 ドンッ! ガンッ!  


 何度も、何度も。  まるで痛みで感情を麻痺させようとするみたいに。あるいは、不甲斐ない自分自身を罰するみたいに。  

 血が飛ぶ。皮が破れて、鮮烈な赤い染みが灰色の壁に残る。  


 痛々しい。見ていられないほど、惨めで、どうしようもなく人間臭い。あの大広間で見せていた完璧な副団長の仮面は、もうどこにもない。剥がれ落ちて、足元で砕け散っている。そこにいるのは、ただの嫉妬に狂った、選ばれなかった一人の男だ。


 俺は、柱の影に隠れたまま、息を殺した。かけられる言葉なんて、一つも見つからない。「やめろ」って言えば、彼は俺を見るだろう。


 フェデの飼い主である俺を。自分をここまで惨めにした元凶を。そうしたら、この血まみれの拳は、壁じゃなくて俺に向くかもしれない。  

 いや、それならまだマシか。一番怖いのは、俺を見た瞬間に、彼の中で決定的な「何か」が切れてしまうことだ。彼を彼たらしめている、最後のプライドという糸が。


「……兄上……貴方は、正しかったのか……」  


 オスカーが、額を壁に押し付けて、嗚咽おえつを漏らす。


「私は……副団長ごっこを……騎士のお遊びを、していただけなのか……」


 その言葉が、冷たい回廊の闇に吸い込まれていく。俺は、柱の陰で拳を握りしめた。爪が食い込むほどに。


 違うだろ。アンタは命がけで戦ったじゃないか。部下を守ろうとして、一歩も引かなかったじゃないか。それは「ごっこ」なんかじゃない。誰が何と言おうと、立派な騎士の姿だったよ。でも、その事実は、圧倒的な「理不尽」の前では、あまりにも無力だった。結果が全ての世界で、過程の美しさは敗者の言い訳にしかならない。


 しばらくして。オスカーは、ふらりと顔を上げた。

 

 涙は流れていない。ただ、その瞳には、さっき広間で見た時よりも深く、底知れない暗いおりが沈殿していた。  

 彼は血だらけの手を服で無造作に拭うと、よろめくように歩き出した。宴の広間とは逆方向。  

 光のない、出口の方へ。俺の隠れている柱の横を通り過ぎる、すれ違いざま。風に乗って、低い呟きが聞こえた気がした。


「……力が、要るな」


 誰に向けた言葉なのか、俺にはわからなかった。自分自身への決意なのか。それとも、もっと悪い何かへの、同意なのか。ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。

 俺はただ、遠ざかっていくその背中を見送ることしかできなかった。宴の歓声が、遠くで爆笑と共に跳ね上がる。  


 《光と影 》 


 その境界線が、今、音を立てて決定的に引かれてしまったような気がして、俺は胸の奥に冷たい石を飲み込んだような気分で立ち尽くしていた。


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