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第84話  霊獣の礼

 カキンと、乾いた音が、また一つ響いた。冷え固まったマグマ・リザードの石像が、バランスを崩して転がった音だ。  


 それ以外は、静かだった。さっきまでの轟音が嘘みたいに。坑道を満たすのは、冷え固まった岩石の匂いと、どこか気まずい沈黙だけ。


「……ふぅ」


 俺は、わざとらしく額の汗を拭うふりをした。実際にはかいてないけど、雰囲気作りは大事だ。フェデはもう、いつもの能天気な毛玉に戻って、俺の足元で「おやつはまだか」と催促するように鼻を鳴らしている。  


 平和だ。あまりにも平和すぎて、ここが数分前まで全滅必至の地獄だったなんて、誰も信じないだろう。


「副団長! ご無事ですか!?」

「衛生兵! こっちに火傷の酷いのがいるぞ!」


 遠くで、正気を取り戻した兵士たちが動き始めた。カインが泣きながらこっちへ走ってくるのが見える。  

 助かったんだ。全員、生きて帰れる。本来なら、ここで「やったな!」と肩を叩き合って、大団円で終わる場面だ。

 でも、俺の隣にいる男――オスカーだけは、時間が止まったままだ。


「……」


 彼は、へたり込んだまま動かない。視線は虚空を彷徨って、焦点が定まらない。  

 無理もない。自分の命を賭けた「最終防壁」が、ただの犬の「お手」一発に上書きされたんだ。プライドの塔が、基礎工事からごっそり消滅したようなもんだろ。


 かけられる言葉が見つからない。「助かってよかったですね」なんて言ったら、嫌味にしかならないし。俺が気まずさに視線を泳がせていると。


 ザッ。


 砂利を踏む音がした。重厚で、誇り高い足音。オスカーの背後から、金色の影が現れる。  

 獅子型の上位霊獣、《アスト・レグナス》――バルザードだ。そのたてがみは焦げ、美しい毛並みもすすで汚れている。あるじと共に、あの炎の壁を支え続けた証だ。


「……バル、ザード……」


 オスカーが、すがるように名を呼んだ。その声には、微かな安堵が滲んでいた。  

 そうだ、剣が折れても、盾が溶けても。この相棒だけは、自分を見捨てない。自分を「王の器」と認めて契約してくれた、誇り高き獣。彼がそばにいてくれるなら、まだ立てる。まだ、歩ける。そんな、最後の希望みたいな光が、オスカーの瞳に宿った。


 バルザードは、主の鼻先に顔を寄せた。フンッ、と短く鼻を鳴らす。慰めじゃない。「よくやった」という、戦士としての対等なねぎらいだ。  


 オスカーの表情が、わずかに和らぐ。

 だけど獅子は、そこで止まらなかった。


 オスカーの横を、素通りする。くるりと背を向け、迷いのない足取りで歩き出す。向かう先は、俺たちの前――いや。


 フェデの元だ。


「え……?」


 オスカーの言葉が、途切れる。バルザードは、フェデの正面で足を止めた。  


 そして。


 ストンと、その巨大な前足を折り、こうべを地面すれすれまで下げた。

 服従のポーズじゃない。怯えて腹を見せるような、下位の獣の態度じゃない。  

 これは騎士が、偉大なる王に対して捧げる、最上級の礼。


「…………」


 フェデが、つまらなそうにあくびをした。『ああ、苦しゅうない』とでも言いたげに、バルザードの鼻先に軽く自分の鼻をくっつける。  


 《挨拶》


 あるいは、上位者からの承認。『よく守ったな』という、王からの言葉なき賛辞。

 バルザードが、嬉しそうに喉を鳴らした。それは、主であるオスカーにすら見せたことのない、純粋な敬愛と感動の響きだった。


 カラン 


 乾いた音がした。オスカーの手から、握りしめていた剣の破片が滑り落ちた音だ。


「……嘘、だ……」


 呟きは、悲鳴に近かった。顔色が、白を通り越して土色になる。見てしまったんだ。決定的な、残酷すぎる現実を。


 バルザードは、オスカーを裏切ったわけじゃない。彼を見限ったわけでもない。ただ、生物としての本能が、魂のランクが、そうさせただけだ。  

 目の前に「本物の王」がいるのに、騎士が頭を下げないわけがない。それは、忠誠心とか愛着とか、そういう情緒的な問題を飛び越えた、絶対的な「ルール」だ。


 でも、オスカーにはそれが毒になる。  


「……私の、バルザードが……」


 震える声。彼が誰よりも誇りにしていた、王族としての証明。上位霊獣に選ばれた男。その証拠が今、新人の飼い犬に、ひざまずいている。


「私は……どれだけ努力しても……」


 オスカーの瞳から、光が消えていく。剣を振り、血を吐くような訓練を重ね、完璧な王子を演じ続けて。  

 それでも「埋められない」と。天と地ほどもある、生まれついての「格差」がそこにあると。  自分の相棒に、教えられてしまった。


 バルザードが顔を上げ、ようやくオスカーの方を見た。その瞳は穏やかで、「主よ、誇りたまえ。我らは偉大なる王に謁見できたのだ」とでも語りかけているように見えた。  

 でも、今のオスカーにそれは届かない。彼に見えているのは、「自分を素通りして、あっちを選んだ獣」だけだ。


「……は、はは……」


 乾いた笑い声が漏れる。壊れた人形みたいな、空虚な笑い。

 あーあ、やっちゃったな、フェデ。お前が偉すぎるのが悪いんだけどさ。もう少しこう、手加減というか、空気を読んでだな……


「わふ?(ごはん?)」


 フェデが首を傾げる。読んでない。こいつ、一ミリも空気を読んでない。ただ「強いやつがいたから挨拶した」くらいの感覚だ。


 その無邪気さが、一番残酷なんだよな。


「副団長! ご無事ですか!」


 カインたちが駆け寄ってくる。  


「すごい! あの壁、副団長が維持してたんですよね!?」「英雄だ!」と口々に称賛する同期たち。でも、オスカーは反応しない。  


 称賛の声が、全部皮肉に聞こえているんだろう。 『すごいですね、頑張りましたね。――でも、一番すごいのはあっちの犬ですけど』という幻聴が、彼の耳元で囁いているに違いない。


 オスカーは、ゆらりと立ち上がった。

 カインの手を借りず、ふらつく足取りで。その背中は、戦場に立つ指揮官のものじゃなかった。すべてを奪われた、敗残兵の背中だ。


「……帰還する」


 短く告げて、彼は歩き出した。バルザードが寄り添おうとするが、オスカーは視線も合わせない。  

 あんなに自慢していた相棒を、今は直視することすらできないんだ。自分の半身だと思っていた存在が、自分よりはるか高みにいる「何か」を見ていることを、認めたくないから。


 俺は、その背中を見送るしかなかった。懐のアストラが、チクリと痛む気がした。俺たちが守ったのは、命だけだ。彼の心は、あの坑道の底に置いてきぼりになっちまったのかもしれない。

 嫌な予感がする。この亀裂は、もうパテで埋められるようなもんじゃない。俺は深く息を吐いて、フェデの頭を乱暴に撫で回した。


「……帰ったら、高い肉食わせてやるよ。バカ犬」

「わふぅ!」


 嬉しそうな声。せめてお前だけは、ずっとそのままでいてくれよな。

 俺の胃薬代が、またかさみそうだ。


お知らせ

明日から3日間は1日4話更新します。

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