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第74話  雪山の行軍

 旅というのは、最初の三日までは「冒険」という名の煌びやかな仮面を被っている。  知らない景色、焚き火の匂い、野営の興奮。

 

 だが一週間も過ぎればメッキは剥がれ、単なる「労働」へと成り下がる。荷物は重く、靴擦れは痛み、飯は干し肉の塩味しかしない。  

 そして二十日を超えれば、それはもう、ただの「苦行」だ。


 ガルドリアの王都を出立してから、何度目の朝を迎えただろうか。  

 たしか三週間……いや、もうすぐ一ヶ月になるか?


 大陸北西部から東の北端へ、地図の上なら指一本でなぞれる長大なルート。亜大陸ほどもある広大な大地を横断する旅路の果て、俺たち遠征部隊は、ようやく目的の地――北方巨大山脈グラナイト・クラウンふもとへ足を踏み入れていた。


 寒い。いや、「寒い」なんて生易しい言葉じゃ足りない、痛いのだ。

 平原では頬を撫でる程度だった風が、この山域に入った途端に牙を剥いた。目に見えない無数の刃物となって、外套の隙間からねじ込み、全身の皮膚を薄く、鋭く削ぎに来る。


 見上げれば、空そのものを断ち割るようにそびえる巨峰群。  

 鉛色の雲が山頂を食らい、そのさらに上にあるという「雲上の都市」を目指すなど、どう考えても正気の沙汰じゃない。吐き出した息は一瞬で白く凍りつき、瞬きのたびにまつ毛同士が霜でくっつきそうになる。


 そして、とどめとばかりに空が吠えた。  

 猛吹雪だ。視界が、暴力的なまでの白に塗りつぶされる。天も地も、右も左もわからない白銀の闇。一歩踏み外せば崖下へ真っ逆さまという、冥府への一本道でこの仕打ちである。


「……う、うぅ……もうだめだ……指が……感覚が……」


 隣でカインが情けないうめき声を漏らした。見れば、鼻水が凍って立派なつららになりかけている。ノルンに至っては荷馬車の隙間に挟まり、もはや干物のように動かない。  

 無理もない。ここまでの行軍で体力は削られきっている。


 隊列が崩れ、遭難する――そんな最悪の未来予想図が脳裏をよぎった。誰かが悲鳴を上げれば、連鎖的に恐慌パニックが走る。あの独特の、嫌な空気が漂いかけた。


 その時だ。鼓膜を揺らす暴風の音さえもかき消す、腹の底に響くような爆音が轟いたのは。


「総員、足を止めるな! 私の背中を見ろ! 道は私が作る!」


 先頭を行く男の声が、嵐を鮮やかに切り裂いて届いた。  

 副団長オスカー=ヴァルド・ガルドリアン。  

 白銀の鎧を纏った彼は、愛馬の上で剣を高く掲げ、そこから紅蓮の炎を噴き上げていた。  


 ただの明かりじゃない。  

 彼の契約精霊である炎の上位精霊グラン・グラディオスの加護を乗せた、超高密度の熱源結界だ。  

 オスカーを中心にドーム状に広がった熱気が、叩きつける雪礫つぶてを瞬時に蒸発させる。ジューッ、と焼け石に水をかけたような音が連続し、部隊全体を白い湯気が包み込んだ。


「熱源確保! 第一小隊は左翼、第二小隊は荷馬車を囲め! 風の流れを読むんだ、雪庇せっぴの下は崩れるぞ、岩肌が露出しているルートを選べ!」


 的確すぎる指示。  

 地図と地形を完全に頭に入れている動きだ。

 

 彼は先頭に立ち、自らを松明とし、そして盾として、吹雪の猛攻をその一身で受け止めている。  

 吹き荒れる風雪が彼の炎に触れては消え、兵士たちの足元に、確かな「道」が黒々と浮かび上がる。


「す、すげぇ……」

「副団長についていけば助かるぞ!」

「遅れるな! 殿下がお守りくださっているんだ!」


 先ほどまで死んだ魚のような目をしていた兵士たちが、一気に息を吹き返した。  

 彼らはオスカーの背中を唯一の道標みちしるべにして、凍りついた足を必死に動かし始める。  

 そこには迷いがない。圧倒的な信頼。 「この人についていけば間違いない」という、指揮官に対する絶対的な安心感が、恐怖を上書きしていた。


 俺は、フェデの温かい毛皮――こいつは極上の巨大湯たんぽだ――に顔を埋めながら、その光景を冷ややかに、しかし感嘆を持って眺めていた。  

 フェデも「わふ(やるじゃん)」と感心したように鼻を鳴らす。


「……すごいな、あの人」  


 お世辞抜きで、すごい。王族の飾りじゃない。本物の騎士だ。この視界ゼロの悪天候の中で、数百人の部隊を統率し、広範囲の熱源を維持し続けるなんて芸当、並大抵の精神力じゃ不可能だ。


 けれど。


(……飛ばしすぎだろ)


 俺の精霊視には、見えてしまうのだ。  


 オスカーの体内で渦巻く霊素が、悲鳴を上げているのが。あの炎の結界、魔導具の補助なしで展開し続けている。自分の霊核コアにある魔力を、燃料みたいに燃やして維持しているんだ。

 

 顔色は兜の影で見えないけれど、たぶん、血の気なんて引いて真っ青だろう。指先の感覚だって、とっくになくなっているんじゃないか? それでも彼は、背筋をピンと伸ばして、微塵も揺らがない。 「私が守らねばならない」という、強烈な責任感と矜持だけで立っている。


『ルーク、手伝ってやるか?』


 懐のヴァルが心配そうに聞いてくる。

 俺の霊素をこっそり流して、彼の負担を肩代わりすることはできる。バレないように風でサポートして、雪を逸らすことだって可能だ。  


 俺は少し迷って、腰のアストラの鞘を握りしめた。一瞬の逡巡。でも、首を横に振る。


「いや……今はダメだ」


 今のオスカーに必要なのは、俺の助けじゃない。彼自身の手で部下を守り切ったという「事実」だ。

 ここで俺が横から手を出せば、彼のプライドは傷つくし、なにより兵士たちの彼への信頼に水を差すことになる。「副団長の力で助かった」という物語が、この過酷な旅には必要なんだ。  


 これは、彼の戦いだ。俺ができるのは、フェデを使って後方の荷馬車組――カインやノルンみたいな非戦闘員――の体温を維持し、オスカーの負担を少しでも減らすことくらい。  

 まさに「お飾り」の特務候補生に徹する。それが最善手だ。


 ***


 数時間の格闘の末。

 ようやく吹雪が止み、風除けになる岩場――予定していた野営地に到着した。張り詰めていた糸が緩むように、点呼の声が響く。


「第一小隊、異常なし!」

「第二小隊、全員無事です!」

「荷馬車隊、脱落者ゼロ!」


 奇跡的だった。あの猛吹雪の中、誰一人として欠けることなく、凍傷の重症者すら出さずに難所を越えたのだ。兵士たちの間に、安堵と歓声がさざ波のように広がる。


「やったぞ! 越えた!」

「さすが副団長だ……あの炎がなけりゃ死んでた」

「俺たちを見捨てなかったぞ、あの人は」


 称賛の声が、熱を持ってオスカーへ集まる。オスカーは馬から降り、兵士たちに向けて短く、重々しく頷いた。


「よく耐えた。ガルドリアの兵として恥じない行軍だった。直ちに休憩に入れ。火を絶やすなよ」


 完璧な指揮官の言葉。兵士たちは敬礼し、誇らしげな顔で設営に取り掛かる。俺もフェデと一緒に荷物を降ろし、死に体のカインを蹴り起こしてテントを張り始めた。

 

 その時だ。ふと視線を感じて振り返ると、オスカーがテントの陰に入るところだった。従卒たちを下がらせ、一人になった、その瞬間。


 ガクッ、と、彼の膝が折れたのを、俺は見てしまった。鎧が硬い音を立てて雪を噛む。彼は荒い息を吐きながら、震える手で兜を脱ぎ、額の汗を拭った。露わになったその顔は、雪よりも白く、唇は不吉な紫色に変色していた。  


 魔力枯渇――限界寸前だ。


「……はぁ、はぁ……まだだ……まだ、倒れるわけには……」


 誰にも聞こえないような、掠れた小さな声。でも、風に乗って俺の耳には届いてしまった。  

 彼は震える足に無理やり力を込め、剣を杖にして立ち上がる。そして深呼吸を一つ、何事もなかったかのように表情を鉄仮面へと作り直し、再び兵士たちの前へ戻っていこうとする。


「……不器用な人だなぁ」


 俺はポツリと漏らした。誰かに「きつい」と言えばいいのに。  


 少し手を抜いても、誰も責めたりしないのに。でも、それができないのがオスカー=ヴァルド・ガルドリアンという男なのだろう。王族として、優秀な兄に勝つために、そして勇者の隣に立つために。彼は「完璧」という名の呪いを、自分自身にかけ続けている。


 俺は飲み干したカップを雪の上に置き、フェデの首元をわしゃわしゃと撫でた。懐から、ヴァルの熱を移した「加熱石」を取り出す。布で包んであるから、ちょうどいい湯たんぽ代わりになる代物だ。


「……ちょっと行ってくる」

「わふ?」


 俺は立ち上がり、まだ見回りを続けているオスカーの方へ歩いていった。彼は俺が近づいたことに気づくと、警戒するように鋭い視線を向けてくる。


「何の用だ、ルーク。サボっている暇があるなら――」

「これ、どうぞ」


 俺は石を無造作に差し出した。


「カイロです。俺の田舎の知恵でしてね。懐に入れておくと、魔力の回復が早くなる……気がします」

「……気がする、だけか」


 オスカーは呆れたように鼻を鳴らしたが、拒絶はしなかった。石を受け取ると、そのじんわりとした温かさに、一瞬だけ表情が緩んだ気がした。強張っていた目元の力が、ほんの少しだけ抜けたような。  

 俺はあえて深くは言わずに、きびすを返す。


「今日の行軍、見事でした。さすがです」

「……ふん。当然だ」


 背後から聞こえた声には、いつもの刺々しさがなく、どこか張り詰めた糸が少しだけ緩んだような、そんな響きがあった。


 雪山の夜が来る。兵士たちの焚き火は明るく、死地を乗り越えた安堵の笑い声が絶えない。その中心にはいない、灯りの消えた指揮官用テントだけが、冷たく静まり返っていた。俺はその静寂を見つめながら、明日到着するドワーフの都で、この張り詰めすぎた副団長の心がポッキリと折れてしまわないことを、祈るしかなかった。




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