第70話 フェデの巨大化
胃に穴が開くって、こういうことを言うんだろうな。
いま痛感してる。アストラの鞘にヒビが入って、あと三日で遠征に出発で、おまけに隣の部屋からは副団長オスカーの「監視の気配」が壁越しにビリビリ伝わってくる生活。
ストレスでハゲそうだ。だから、ちょっとくらいの息抜きは許されるはずなんだ。
「……ふぅ。ここなら、まあ大丈夫だろ」
深夜
俺とフェデは、《世界樹守護聖堂砦》の裏手にある演習林の、さらに奥深くに来ていた。正規の訓練場じゃない、岩と雑木林しかない荒地だ。
足元で、フェデが「くぅ〜ん」と甘えた声を出しながら、俺のブーツに鼻先をぐりぐりと押し付けてくる。こいつ、最近ずっと「普通の犬」のふりをして縮こまってたからな。
本来は世界樹の根元とかを駆け回ってる最上位霊獣だぞ? それが、狭い寮の部屋と、石畳の中庭をぐるぐるするだけの日々。
霊素が溜まってムズムズしてるのが、飼い主……じゃない、相棒の俺には手にとるようにわかる。尻尾の振り方が、なんかこう、重たいんだよな。空気を切る音がブンッ! ってなってるし。
「よしよし。誰も見てないし、少しだけ伸ばしていいぞ。ストレッチだ、ストレッチ。……加減しろよ? ふた回りくらい大きくなる感じで」
俺が許可を出した、その瞬間だった。
フェデの目が、パァッと輝いた。琥珀色の瞳の奥で、星みたいな光がちろちろ燃える。
「わふっ!(やった!)」
ボンッ!!
って、景気のいい音がした。いや、音だけじゃない。光だ。 深夜の闇を吹き飛ばすような、目が眩むほどの黄金の光が、森の木漏れ日なんか比じゃない密度で炸裂した。
「わふゥゥゥゥ――ッ!」
歓喜の遠吠え。 なんだけど、その音圧がヤバい。ズズズ、と地面が震える。目の前の視界が、茶色い「壁」で埋め尽くされた。
見上げる。首が痛くなるくらい見上げる。そこにあったのは、もはや大型犬なんて生易しいサイズ感じゃない。
小高い丘だ。あるいは、要塞の城壁を見下ろす黄金の巨獣。体長、たぶん十メートル……いや、もっとあるか?
普段の愛くるしい「もふもふ」が、質量を持った「防御壁」になって鎮座している。毛の一本一本が光の粒子を纏って、神々しいなんてもんじゃない。息を吐くだけで、周囲の草木がざわざわと揺れる。世界樹最上位霊獣、《セイジュ・レトリバー》。その本気モードの片鱗。
「……でけぇよ!! バカ!!」
俺は叫んだ。
ストレッチ。ただのストレッチのつもりだったんだ。フェデのやつ、我慢してた分、反動で一気に開放しやがったな。
フェデ本人は「すっきりしたー!」みたいな顔で、巨大な尻尾をブンブン振ってる。そのたびに突風が起きて、木々がなぎ倒されそうになってることに気づいてない。
やばい。これ、どう言い訳する?幻覚でした? いや無理があるだろ、この質量。
カンカンカンカンカンッ!!
案の定だ。砦の方から、けたたましい警鐘の音が響いてきた。
終わった。
「敵襲ーッ!! 裏山に巨大魔獣反応!!」
「推定ランク測定不能! 直ちに迎撃態勢をとれぇ!!」
騎士たちの怒号が風に乗って聞こえてくる。俺は額に手を当てて天を仰ぐ。
フェデはといえば、「あれ? やっちゃった?」みたいな顔で、巨大な首をかしげている。その仕草だけで突風が起きて、周りの木々がなぎ倒されそうになってるんですけど。
「くそっ、戻れ! 戻るんだフェデ!」
『えー……まだ体がポカポカしてるのに』
「ポカポカしてる場合か! 騎士団が来るぞ!」
言ってるそばから、複数の足音が近づいてくる。カシャカシャと鎧を鳴らし、抜刀して駆けつけてきたのは、巡回中の一般騎士たち。
そして、その先頭に立っていたのは――一番来てほしくない人だった。
「総員、退くな! 盾を構えろ!!」
悲鳴のような号令と共に現れたのは、副団長オスカーだった。最悪だ。なんでこういう時に限って、一番見つかりたくない人が来るんだよ。
オスカーは蒼銀の瞳を見開き、目の前の光景に絶句していた。無理もない。夜の裏山に、全身が発光する巨大な獣が鎮座してるんだから。しかもその獣、神々しすぎて魔獣っていうより「神の使い」そのものだ。
そして、決定的だったのが。オスカーの横にいた、彼と契約している上位霊獣、獅子のアスト・レグナス《バルザード》の反応だ。
百獣の王の風格を持つ黄金の獅子。
普段なら威厳たっぷりの彼が、今はどうだ。耳を伏せ、尻尾を巻いて、低く唸りながら後ずさりしている。
本能的な畏怖。格が違うと、魂が理解してしまっている。
「……なんだ、これは」
オスカーの声が震えていた。剣を構えてはいるが、切っ先が定まらない。その視線の先で、巨大フェデが俺の方を向く。
『るっきー、怒られる?』
(怒られるどころの話じゃないよ!)
俺は必死でジェスチャーを送る。小さくなれ。今すぐに。塵みたいに小さくなれ!フェデはしょぼんと眉を下げ(巨大な顔でやると破壊力がすごい)、「わふ……(ごめん)」とひと鳴きした。
その鳴き声すら衝撃波となって、騎士たちのマントをバタバタとはためかせる。
次の瞬間、シュン! という音と共に、あの圧倒的な質量が嘘のように収束した。俺の足元で、光が収まり、土煙が晴れると。
そこには、いつもの愛らしいゴールデンレトリバーサイズのフェデが、申し訳なさそうにお座りしていた。
静寂
痛いほどの沈黙が、場を支配する。騎士たちは呆然として、剣を下ろすのも忘れている。オスカーだけが、青ざめた顔でゆっくりと歩み寄ってきた。
その足取りは重い。
「……おい」
低い声。怒りというより、理解を超えた現象に対する疲労感が滲んでいる。
「……貴様、今、何をした?」
俺は全力で目を逸らし、精一杯の「しらばっくれ」を発動した。
「え? いやぁ、なんかフェデが……影絵遊び? みたいなのをしまして」
「影絵?」
「そうそう! 月明かりと霊素の加減で、影がびよーんと伸びちゃったみたいで。びっくりしましたねー、ハハハ!」
苦しい。
自分でも何を言ってるのかわからないレベルで苦しい言い訳だ。
オスカーの顔が引きつる。
「……影絵だと? あの質量が? 騎士団の結界すら震わせたあの威圧感が?」
「目の錯覚ですよ、副団長。夜ですし。疲れてるんじゃないですか?」
俺はフェデの頭をわしゃわしゃと撫でる。フェデも「くぅん(ぼく無実だよ)」みたいな顔でオスカーを見上げる。オスカーの横で、獅子のバルザードがまだ震えているのが、何よりの証拠だった。上位霊獣が影絵に怯えるわけがない。
オスカーは長いこと俺とフェデを睨みつけていたが、やがて深い、深ーい溜息をついた。剣を鞘に納める音が、やけに大きく響く。
「……そうか。錯覚か」
彼は自分に言い聞かせるように呟いた。
「そうでなければ……説明がつかん。私のバルザードが、たかが犬ころ一匹に怯えるなど……あってたまるか」
認めたくないのだ。自分の誇りである上位霊獣が、新人のペットに格負けしたという事実を。だから、無理やり飲み込んだ。その拳が白くなるほど強く握りしめられているのを見て、俺は胸がチクリと痛んだ。
「……解散だ!」
オスカーが騎士たちに怒鳴る。
「誤報だった! ただの霊素の揺らぎだ! 各自、持ち場に戻れ!」
ざわめきながら去っていく騎士たち。オスカーは最後に一度だけ、俺を振り返った。その瞳には、疑念と、それ以上の焦燥が色濃く浮かんでいる。
「……ヴァレリオ 三日後の出発だ。余計な騒ぎを起こすな」
「……はい」
それだけ言い残して、彼も去っていった。残されたのは、俺と、小さくなったフェデだけ。
「……はぁ」
俺はその場にへたり込んだ。心臓がバクバク言ってる。
「お前なぁ……加減って言葉、辞書で引いてこいよ」
フェデの頬をむにーっと引っ張る。フェデはされるがままになりながら、俺の顔を舐めてきた。反省してるのかしてないのか。
でも、確信したことが一つある。オスカーは限界だ。あんなにあからさまな嘘を、飲み込まなきゃいけないほど、あいつのプライドは追い詰められてる。
フェデの巨大化以上に、そっちの方が俺には怖かった。
空を見上げる。遠征の空には、もう暗雲が立ち込めているような気がした。




