第67話 勇者エリシアの帰還
うるせぇ。 マジで、鼓膜が死ぬかと思った。
誰だよ、こんなクソ暑い昼日中に全軍整列なんて命令したやつは。
右からも左からも、怒号、怒号、怒号。
ここ、王都ヴァルドンガルドの正門前広場なんだけど、頭上からは太陽が殺しに来てるし、足元の石畳はフライパンみたいに焼けてる。逃げ場なし。
「総員、直れ! 爪先ひとつ動かすな!」
……無理だって。この気温で。 鉄板焼きの具材になった気分だ。
背中をツーって汗が流れるのがわかる。気持ち悪すぎて発狂しそう。甲冑の中、とっくに蒸し風呂状態なんだけど。
だいたい、隣のカインなんて緊張しすぎてガチガチ震えてるから、鎧がガチャ、ガチャ、って小刻みに鳴っててうるさいのなんの。リズム刻んでる場合かよ。こっちまで不安になってくるだろ。
で、だ。 そんな汗臭い地獄の中で。 ひとりだけ涼しい顔して、針金入ってんじゃないかってくらいピンと背筋張ってるのがいるんだよな。 我らが監視役。副団長、オスカー=ヴァルド・ガルドリアンその人だ。
……仕上がりすぎだろ。 今日のオスカー、ちょっと引くレベルで完璧だ。 白銀の甲冑、鏡かよってくらいピカピカに磨き上げられてるし。式典用マントの折り目なんて、定規で引いたみたいに鋭い。
昨日の夜会で、兄貴に心ボッコボコにされた男とは到底思えない。 なにその鋼のメンタル。逆に怖いんだけど。
いや、まあ。 精霊視で見えちゃう俺にはバレバレなんだけど。 あいつの中身、霊素がギチギチに軋んでる。無理やり型枠にねじ込んだ鉄みたいに、悲鳴上げてるのが丸見えだ。
『……ルーク殿。あの男、また息をしておりませんな』
熱風に紛れて、フィオの呆れたような声が耳元を掠める。
「……ああ。見てるこっちが酸欠になりそうだ」
俺は唇を動かさずに独りごちた。
オスカーが、この帰還をどれだけ重要視してるか。痛いほどわかる。 兄レオンハルトに「ごっこ遊び」と切り捨てられたプライド。それを取り戻すには、ここしかない。
勇者エリシアを完璧に出迎え、対等なパートナーとして隣に立つ。 そうすることでしか、あいつは自分の価値を証明できないと思い込んでる。
……健気というか、痛々しいというか。
「ルーク、カイン、ノルン。貴様ら候補生もだ。後ろに並べ。ただし」
オスカーが、氷みたいな目でこっちを見た。
「絶対に余計な口を利くな。ただの背景として存在しろ」
「へいへい。背景、得意っすよ」 俺は肩をすくめた。 願ったり叶ったりだ。目立ちたくないし、勇者なんていう「世界の中心」みたいな人種とは、できるだけ関わりたくない。一生モブAでいさせてくれ。
ただ、問題がひとつあるとしたら。 「わふぅ」 俺の足元で、でっかいあくびをしてる茶色い毛玉。 フェデだ。こいつの存在感が、どう考えても背景の枠に収まってない。
オスカーもフェデを見て一瞬顔を歪めたけど、もう時間がないらしく、「……その犬を動かすなよ。絶対にだ」と釘を刺して、隊列の先頭へと歩いていった。
そのとき。 風が、変わった。 熱気を帯びた王都の空気が、一瞬で澄み渡るような。 肌を刺す、清冽な風。
キェェェェェッ――!!
鋭い。 硝子を爪で弾いたような高音が、頭上から降ってきた。 全員が、弾かれたように空を見上げる。 太陽を背にして、巨大な影が滑り降りてくる。
鷲だ。 いや、ただの鷲じゃない。翼を広げれば小型のドラゴンほどもある巨体。白銀の羽根先には淡い青色の光が帯びていて、飛んでいるだけで大気中の霊素が「整列」していくのがわかる。
上位霊獣、鷲型のさらに上位種――《ゼファ・アルジェリオン》。 名前はイルナヴェル。通称「イル」。 勇者エリシアと空を駆ける、天空の守護騎士。
イルナヴェルは砦の上空を優雅に旋回すると、広場の中心へ向かって急降下した。 ドォン! 着地の瞬間、突風が巻く。 砂埃が舞い上がる中、その背から軽やかに降り立つ人影があった。
勇者、エリシア・リュミエル
うわぁ……俺は思わず、目を細めた。
眩しい。物理的にじゃなくて、霊素の質量が。 彼女の周りだけ、世界の解像度が違う。
光の粒子が常にまとわりついて、歩くたびに地面の草花が勝手に咲き出しそうなくらい、濃密な「生」のエネルギーが溢れ出している。
霊核スコア、24,350。 光の大精霊セラフィードの加護を受ければ、その数値は四万後半にまで跳ね上がる。
人の形をした、歩く戦略兵器。 あんなのと比べられたら、そりゃあ誰だって自信なくすわ。オスカーが病むのも無理はない。
エリシアが、広場の中央で足を止める。 その瞬間、ザッ、と砂利を踏む音が響いた。 オスカーが、一歩前に出たのだ。 完璧な所作だった。 優雅で、威厳があって、王族としての品格に満ちた最敬礼。
練習したんだろうな、あれ。鏡の前で何回も。 彼は顔を上げ、よく通る声で告げる。
「――帰還、心よりお待ちしておりました。エリシア殿」
声に、熱がこもっていた。 単なる同僚への労いじゃない。 「私が、あなたを迎えるのに相応しい男です」という、必死なアピールが透けて見える。
オスカーは微笑んだ。自信に満ちた、練習し尽くされたであろう笑顔で。 「貴女の不在の間、この砦は私が……」
言いかけた、そのときだ。
「……あ」
エリシアの唇から、小さな吐息が漏れた。 彼女の深い翡翠色の瞳は、オスカーを見ていた。
いや。 オスカーを「通り越して」いた。
オスカーの完璧な笑顔が、ふっと凍りつく。 エリシアの視線は、彼の肩越しに、遥か後方――つまり、俺たちが並んでいる末端の列へと吸い込まれている。
え、ちょ、待て。
俺はとっさに、前のやつの影に隠れようとした。 だが遅い。 俺の足元で、退屈そうにあくびをしていた茶色い毛玉――フェデが、尻尾をぶんぶんと振り回し始めたからだ。
「わふっ!(おかえりー!)」
空気の読めないフェデが、嬉しそうに一声鳴く。
すると。 あの、凛として近寄りがたい「勇者」の顔が。 花が咲くみたいに、くしゃりと崩れた。
「……ふふっ」
嬉しそうな、年相応の少女みたいな笑み。 それは、目の前のオスカーに向けられたものではなく。 明らかに、フェデと――その横で「俺を見るな」と念じている俺に向けられたものだった。
さらに、空気を読まないやつがもう一匹。 エリシアの後ろに控えていた大鷲――イルナヴェルが、鋭い視線をこちらに向けた。
そして。 気位の高そうなその鷲が、俺たちのほうへ向かって、静かに翼を広げ――深く、頭を下げたのだ。
……は? 騎士団の全員が「えっ?」って顔をしたのがわかった。 あの上位霊獣が、誰に敬礼してるんだ? 視線の先には、デカい犬。
フェデは「ん?」って感じで首を傾げ、パタパタと尻尾を振って応える。 まるで、「よう、元気か若造」とでも言うみたいに。
格の違い。 王たる獣と、それに仕える騎士の、絶対的な序列がそこにあった。
エリシアは、我に返ったようにオスカーに向き直ると、鈴が鳴るような声で言った。
「ありがとう、副団長。……元気そうで、安心しました」
それだけ。 事務的ではないけれど、特別な熱もない。 「同僚への挨拶」。それ以上でも以下でもない、綺麗に線引きされた言葉。
エリシアは軽く会釈をして、そのまま本部の奥へと歩き去っていく。 上空のイルが、主を追って再び空へ舞い上がった。
残されたのは。 広場の中央で、差し出した手を降ろすタイミングを失った、オスカーだけ。
……あーあ。 背中が、語ってる。 完璧だった姿勢が、ほんの数ミリだけ、崩れてる。 誰も気づかない程度の揺らぎ。でも、俺にはわかってしまう。 彼の中の何かが、音を立ててヒビ割れたのが。
『……残酷ですね、無自覚というのは』
水の精霊ラグが、冷ややかに、でも少しだけ憐れむように囁く。
『あの方は、何も見ていらっしゃらない。副団長の鎧の輝きも、整えられた髪も。……ただ、魂の在り処だけを見ておられる』
オスカーが、ゆっくりと振り返った。 その顔は、無表情だった。 能面みたいに、感情がごっそり抜け落ちてる。 でも、その瞳の奥にある青い光が、俺を射抜いていた。
嫉妬? 怒り? そんな単純なものじゃない。 「なぜ、貴様なのだ」っていう、答えのない問いかけ。
あいつはDランクだぞ。ただの新人だぞ。 なのに、どうして勇者が、王族である自分を差し置いて、あんな新人に微笑みかけるのか。 自分の契約霊獣バルザードですら、あの犬の前では怯えていた。 そして今、勇者の霊獣までもが、あの犬に頭を下げた。
オスカーの霊素が、どす黒く濁る。 その色が、夜会で見た第一王子レオンハルトの冷たさと混ざり合って、歪な形に変わっていくのが見えた。
「……解散だ」
オスカーの声は、砂を噛むように乾いていた。
「各員、持ち場に戻れ。……ルーク、貴様は後で私の執務室に来い」
「は、はい……」
拒否権なんてない。 オスカーは、逃げるように早足で去っていった。その拳が、血が滲むほど強く握りしめられているのを、俺は見ないふりをした。
カインが、ぽかんとした顔で俺の横腹を小突いてくる。
「おい、ルーク。お前、勇者様と知り合いだったのかよ?すげぇ笑いかけられてたじゃん」
「……気のせいだろ。フェデを見てたんだよ、フェデを」
「いやいや、絶対お前のことも見てたって! うわー、すげぇな、お前!」
無邪気に騒ぐカイン。 俺は深いため息をついた。 やめてくれ。 俺を巻き込むな。 俺はただ、三食昼寝付きの生活ができればそれでいいんだ。 勇者の笑顔なんて、今の俺には「特大トラブルの無料引換券」にしか見えない。
空を見上げる。 さっきまでの晴天が嘘みたいに、西の空から分厚い雲が流れ込んできている。 ガルドリアの空が、陰っていく。 それはまるで、これからこの国に訪れる未来を暗示しているようで、俺はどうしようもない寒気を感じずにはいられなかった。




