第63話 地下水路任務
臭い。もうね、シンプルに臭いんだよ。鼻が曲がるとかそういう次元じゃなくて、鼻の奥の粘膜に直接「腐った卵と生ゴミを煮込んで三ヶ月放置した」みたいな暴力的な臭気がこびりついてくる感じ。
「……おえっ」
隣でカインが口元を押さえてえずいた。無理もない、俺たちの目の前に広がっているのは、王都ヴァルドンガルドの華やかな石畳の下に隠された、もうひとつの顔。
地下水路だ。
生活排水、雨水、そして何だかよくわからないヘドロが混ざり合った、暗黒の川。鼻が曲がるどころか、もげて逃げ出しそうな悪臭が充満している。
湿気でジメついた石壁には、得体の知れない苔がびっしり。足元を見れば、汚水の中をネズミとも昆虫ともつかない影がサササッと走っていくのが見える。
「……なぁ、ルーク」
「喋るなカイン。口を開けると、この空気が肺に入ってくるぞ」
「マジでここ掃除すんの? 俺たち、騎士団の候補生だよな? なんでドブさらい……」
「修行の一環、だそうだ」
俺はため息を飲み込んで、手にしたデッキブラシを握りしめた。
今日の任務は『王都地下水路・第三区画の清掃および点検』
本来なら、下級兵士や業者がやる仕事だ。あるいは、懲罰房行きスレスレの不祥事を起こした奴がやらされる汚れ仕事。だが、俺たち特務候補生にこの命令を下したのは、他でもないあの男だった。
「手が止まっているぞ、貴様ら」
暗闇の奥から、冷徹な声が響く。カツン、カツン、と硬質な足音。 汚水まみれの石畳を、まるで王城の赤絨毯の上かのように優雅に歩いてきたのは、我らが監視役兼・副団長、オスカー=ヴァルド・ガルドリアンその人だった。
「ひっ、副団長……!」
カインが慌てて姿勢を正す。
信じられるか? この人、フル装備なんだぜ。
ガルドリア王家の紋章が入った白銀の鎧に、汚れ一つないマント。腰には装飾の施された儀礼剣に近い長剣。この薄暗い地下道で、そこだけ発光してるみたいにキラキラ浮いている。
普通、ここに来るなら汚れてもいい作業着とか着るだろ。なんだその「これから式典ですか?」みたいな格好は。
「ここは王都の血管だ」
オスカーは、俺たちの視線など意に介さず、淡々と言い放った。
「地上の繁栄は、この地下の流れによって支えられている。ここが詰まれば、都は腐り、疫病が蔓延する。……魔素の澱も溜まりやすくなる」
言ってることは正しい。すごく正しい。 俺だって元・精霊王だ。循環の大切さは骨身に染みてる。水が滞れば世界が死ぬ。それは真理だ。
(……だからって、王族であるアンタが来る必要はないだろ)
心の中で毒づく。副団長だぞ。王国の第二王子だぞ。 こんなヘドロの海に足を突っ込んでいい身分じゃない。
どうせ「現場を知る」とか言って、安全な高台から「そこ、汚れているぞ」って指図するだけなんだろう。貴族サマの道楽みたいな視察だ。 俺はそう思ってた。 この瞬間までは。
「――そこだ。流れが悪い」
オスカーは言うなり、躊躇なく汚水の中へジャブジャブと入っていった。
は? 俺とカインは目を丸くした。 綺麗なブーツが、泥水に沈む。純白のマントの裾が、汚れた水面を掠める。
「ふ、副団長!? 汚れますよ!?」
「騒ぐな。……ここだ。ヘドロが石にこびりついて固着している」
オスカーは眉ひとつ動かさず、腰から作業用のヘラを取り出すと、壁面のヌメリを削ぎ落とし始めた。 その手つきが、やたらと手慣れている。
無駄がない。剣を振るう時と同じ、洗練された動作。
ゴリッ、ゴリッ。
固まった汚れが剥がれ落ち、滞っていた水がゴボッと音を立てて流れ出す。
「お前たちも動け。……この区画を今日中に終わらせるぞ」
「は、はいッ!」
カインが慌ててブラシを動かし始めた。 俺も遅れて作業にかかるが、視線はどうしてもオスカーの背中に吸い寄せられる。
……なんだ、あの人。 潔癖症じゃなかったのかよ。 屋台の串焼きの衛生管理すら気にしてた人間が、なんでこんなドブの中で平気な顔をしてられるんだ。
『……ルークさま』
俺の耳元で、水のような涼やかな声がした。 水の上位精霊、ラグだ。彼女は俺の霊核の中で、心底嫌そうに身を縮こまらせている。
『この水……死んでいます。穢れが多くて、息苦しいです。……すべて浄化してしまっても?』
(ダメだ。お前の出力で浄化なんかしたら、王都中の水が「聖水」になっちまう。騒ぎになるから我慢しろ)
『むぅ……。ですが、あの人間……オスカーと言いましたか』
(ん?)
『彼の周りの水だけ、少し流れが「敬意」を払っていますね』
ラグの言葉に、俺は目を凝らした。
精霊視
世界を霊素の色で見る視界。 薄暗い地下道は、澱んだ灰色とドス黒い紫の斑点で埋め尽くされている。魔素になりかけの「ゴミ」だ。
だが、オスカーの周りだけ。 彼が泥をかき出し、詰まりを取り除くたびに、水色の光が細く、しかし確かに通り抜けていくのが見えた。
魔法じゃない。 ただの物理的な掃除だ。 でも、彼はこの作業に「誇り」を持ってる。誰に見られるわけでもない。民衆が喝采を送るわけでもない。
ただ、王都を守るために必要だからやる。 一番汚い場所に、一番偉い人間が立って、背中で語ってるんだ。
「……すげぇな」
隣でカインがぽつりと呟いた。 その手は動かし続けているが、目はオスカーに釘付けだ。
「俺、王族なんて偉そうなだけで、口先ばっかだと思ってた。……でも、違うんだな」
ああ、と俺は頷く。カインの剣技が伸び悩んでいた時、オスカーが苛立っていた理由が、なんとなくわかった気がした。
あの人は、本気なんだ。 いつだって、自分の役割に命を懸けてる。 だからこそ、不甲斐ない部下や、俺みたいに力を隠してヘラヘラしてる奴が許せないんだろう。
「おい、そこの二人。手が止まっているぞ」
オスカーが振り返る。 その頬には、黒い泥の跳ねが点々とついていた。 でも、不思議と汚くは見えなかった。
むしろ、磨き抜かれた鎧よりも、その泥のほうが彼を「騎士」らしく見せている。
「すみません! すぐやります!」
カインが声を張り上げて、バシャバシャと水の中へ突っ込んでいった。さっきまでの嫌そうな顔はどこへやら、やる気満々だ。単純なやつめ。
俺も苦笑しながら、彼らの後を追う。
「フェデ、お前は濡れるなよ。あとで洗うの大変だから」
「わふ(わかってる)」
俺の後ろをついてくるフェデは、器用に見えない足場(世界樹の根の力場?)を使って、水面スレスレを浮くように歩いている。
ずるい、俺もそれがいい。
作業は意外なほど順調に進んだ。 オスカーの指揮は的確だった。
「カイン、右翼の壁面を」
「ヴァレリオ、底の沈殿物をさらえ」
無駄な動きがない。こっちが疲れる前に小休憩を入れ、水分補給を促す。
現場を知らない上官の思いつき、なんてレベルじゃない。彼はこの地下道の構造図を、完全に頭に叩き込んできている。
(……参ったな)
俺はスコップで泥をすくいながら、心の中で白旗を上げた。
嫌な奴だと思ってた。 堅物で、融通が利かなくて、俺の正体を暴こうとする厄介な監視役。でも、これを見せられちゃ、認めざるを得ない。
この人は、上に立つべくして立っている人間だ。
――ズズッ
ふと、違和感があった。 スコップの先に伝わる感触。 泥じゃない。もっと、ねっとりとした……生き物のような粘着質。
『……ルーク、気配が変わったぞ』
懐のヴァルが、警告の声を上げる。
『なんだ、この嫌な臭いは。……ただのゴミじゃねぇ。もっと「濃い」のが来る』
俺は手を止めて、闇の奥を睨んだ。
オスカーも、すでに気づいている。作業の手を止め、ヘラを腰に戻し、代わりに剣の柄に手をかけていた。
空気が変わる。 ただの悪臭とは違う、鼻の奥を刺すような刺激臭。
「……カイン、下がれ」
オスカーの低い声が響く。
「え? どうしたんですか、まだ掃除……」
「いいから下がれ。私の後ろだ」
水面が、ボコボコと泡立ち始めた。最初は小さな気泡だった。だが、すぐにそれは沸騰するように激しくなり――。
バシャアァァァァッ!!
水しぶきを上げて、それは姿を現した。
黒い塊。
ヘドロとゴミが凝縮し、魔素によって無理やり命を与えられたような、不定形の怪物。
汚泥のスライム(マッド・ウーズ)。それも、通常の数倍はある巨大な個体だ。
身体中に、錆びた剣や動物の骨、誰かが捨てた生活用品を取り込み、それらを「武器」として突き出している。
「うわっ、デカ……!?」
カインが尻餅をつきそうになる。 Dランク相当の魔物だ。だが、この狭くて足場の悪い地下水路で戦うとなれば、危険度は跳ね上がる。
「陣形を組むぞ」
オスカーが剣を抜き放つ。白銀の刃が、薄暗い地下道で唯一の希望のように輝いた。
「私が前衛を務める。カインは側面を。ヴァレリオ、貴様は後方で支援しつつ、フェデを守れ」
自分が一番危険な正面に立つ。
迷いのない判断。
……ったく。 どこまでも「騎士」なんだな、この人は。
(ラグ、準備はいいか?)
『はい、ルークさま。……あの汚い水、ぶっ飛ばしてやりましょう』
(フィオ、風で足場を確保するぞ)
『御意』
俺はデッキブラシを構えるふりをして、アストラの鞘に指をかけた。 掃除は終わりだ。
ここからは、害虫駆除の時間らしい。
「行くぞ!」
オスカーの号令と共に、地下水路の水面が爆ぜた。




