第6話 計測不能のエラー
指先が、ひんやりとした水晶の滑らかな曲面に触れた。その、ほんの刹那だった。指の皮一枚隔てた向こう側で、何かが『バクン』と跳ねたのだ。
心臓じゃない。もっと深い場所。魂の底に埋め込まれた太い配管が、前触れもなく破裂したような――あるいは、内臓そのものを裏返しにされるような、おぞましい悪寒。 全身の血管がきゅっと収縮し、指先から一気に血の気が引いていく。
――は? なんだこれ、ちょっと待て。話が違う。想定していたのは、「蛇口をひねって水を細く流す」程度の、極めて繊細な作業だったはずだ。慎重に、指先でバルブを数ミリだけ回す。そうやって、ほんの少しの魔力を「お裾分け」してやるつもりだった。
なのに。向こう側の吸引力は、桁が違った。
スポンジだとか、乾いた布だとか、そんな生温い吸収じゃない。俺が必死に体内で堰き止めていた霊素のダム。その壁面に、いきなり都市の地下水路クラスの極太導管をねじ込まれて、最大出力の揚水機で根こそぎ吸い上げられている感覚だ。
これ、魂ごと持っていかれる……!
「……っ、ぐ、ぁ!?」
声にならない呻きが喉に詰まる。俺の意志なんて知ったことかと言わんばかりに、指先の接触点から、エネルギーが暴力的に引きずり出されていく。
体内で圧縮していた霊素が、出口を見つけた雪崩のように殺到するのを止められない。指が、水晶に吸着して離れないのだ。
やめろ、ふざけんな! 俺はEランク希望なんだよ!
薬草を摘んで、日向ぼっこをして、もふもふのフェデの腹を枕に昼寝をする。そんなささやかな「一般人A」の人生設計が、いま音を立てて崩壊しようとしている!
俺は奥歯が砕けるほど噛み締め、全身の筋肉を強張らせてブレーキをかけようとした。だが、もう手遅れだった。
『バカ主! 栓が抜けてんぞ!』
懐でヴァルが焦ったように叫ぶ。
『違います! あちらの吸引が強すぎるのです! この装置、いくらなんでも感度が異常です!』
ラグの悲鳴じみた声が脳内に響いた、その直後だった。視界が、物理的に白く灼かれた。
カッッッ――――――!!!
ギルド中の照明を全部集めて、目の前で一斉に焚いたって、こうはならない。水晶の中心で小さな火花が散ったかと思うと、それが一瞬で膨張して、視界のすべてを飲み込んだのだ。
七色? 虹色? そんなチャチなもんじゃない。赤も、青も、金も、この世のあらゆる色がデタラメに混ざり合って、高速回転して、すべてを塗りつぶす「暴力的な白」へと変貌していく。
耳の奥で、キィィィィン……と鼓膜を劈く高音が鳴る。耳鳴りじゃない、機械の断末魔だ。水晶の台座に埋め込まれた計測針が、とち狂った動きをしていた。
Eからスタートした針は、DもCも一瞬で置き去りにして、Bを通過したあたりで文字通り「消えた」。
速すぎて、目が追いつかない。Aを越え、限界値のSすら突き抜け、文字盤のない空白領域へ突入してもなお止まらず、一周回ってEに戻り――さらに加速して二周目に突入したとき、俺は悟った。
あ、これ弁償コースだ。
「え、あ、ちょっ……!?」
目の前のミリアさんが、目を白黒させているのが光の向こうにぼんやりと見えた。彼女の完璧だった営業スマイルが、「驚愕」を通り越して「引きつった恐怖」へと変わっていく様が、皮肉にも緩慢な悪夢のように鮮明だ。
見るな。やめてくれ。俺じゃない。俺は何もしてない。ただ触っただけだ!
直後、ブォンッ! と大気が爆ぜるような音がした。衝撃波めいた突風が巻き起こり、カウンターの書類が紙吹雪みたいに舞い散る。インク瓶が倒れて、黒いしみがじわりと広がっていく。
ギルド内の喧騒が、嘘みたいに消えた。ジョッキを運んでいた給仕のお姉さんも、屈強な冒険者たちも、全員が口をぽかんと開けたまま、この得体の知れない発光現象に釘付けになっている。
水晶は、もはや計測器ではない。直視できないほどの輝きを放つ、手のひらサイズの太陽そのものだった。
そして。限界点は、あまりにあっけなく訪れた。
パキィッ、と硬質な音が響く。
同時に、あの鼓膜を刺すような高音が、プツリと途絶える。光が収束した。急速に輝きを失っていく水晶。あとに残ったのは――白く、白濁した石塊だった。
透明度はゼロ。まるで牛乳を流し込んで固めたみたいに、あるいは、寿命を使い果たして燃え尽きた灰のように、水晶は真っ白に濁って沈黙していた。計測針は、あらぬ方向を向いたまま、だらりと垂れ下がって動かない。
「…………」
静寂。痛いほどの静けさが、ギルドを支配した。誰も動かない。誰も喋らない。
ただ、カウンターの上に鎮座する「死んだ水晶」と、その前で指を突き出したまま固まっている俺(と、足元で暢気に欠伸をしているフェデ)に、全員の視線が突き刺さっている。
「……あ、あの……」
俺は引きつった笑みを浮かべ、恐る恐るミリアさんに声をかけた。彼女は石像みたいに固まったままだ。どうする。どう言い訳する。
『静電気です』? 無理がある。
『手品です』? もっと怪しい。
『僕にも分かりません』?
これしかないか。いや、弁償しろとか言われたらどうしよう。今の俺の所持金はゼロだぞ。フェデを質に入れるわけにもいかないし、俺が皿洗いをして返すにしても、この装置、絶対高いだろ。国宝級とか言ってた気がするし。
「な、な……」
ミリアさんが、震える唇を開く。まずい。「なんなんですか今の光は!」とか叫ばれたら終わりだ。ごまかせない。
「な……直りませんかね、これ……?」
そっちかよ。ミリアさんは涙目になって、白濁した水晶をぺちぺちと叩いている。調子の悪い古道具じゃないんだから、叩いて直るもんじゃないだろうに。
だが、その間の抜けた反応で、少しだけ空気が緩んだ。周囲の冒険者たちも、「おい、何だったんだ今のは」「装置が爆発したのか?」とざわめき始める。
その時だ。カウンターの奥にある重厚な扉が、乱暴に開かれたのは。
「騒がしいぞ! 一体何事だ!」
ドスの利いた声と共に現れたのは、冬眠明けの熊のような大男だった。顔面には古傷、禿げ上がった頭、そして丸太のような腕。
一目でわかる。こいつがこのギルドの親玉、ギルドマスターだ。彼は大股でカウンターに歩み寄ると、ミリアさんと俺、そして白く濁った水晶を交互に見て、眉間の皺を深くした。
「ギ、ギルドマスター! あ、あの、新規登録の計測中に、装置が急に光って……!」
「落ち着け、ミリア」
ギルドマスターは低い声で制すると、水晶をじろりと睨みつけた。そして、太い指でコンコンと水晶の表面を小突く。反応はない。完全に沈黙している。
俺の背中に冷や汗が伝う。バレるか? こいつは歴戦の猛者っぽい。俺の隠蔽を見抜くか? 「貴様、何をした」と問いただされるか?
数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。ギルドマスターは、ふう、と重いため息をつくと、ポリポリと頭を掻いた。
「……ったく。ついに寿命が来やがったか」
……え?
「こいつは王都からのお下がりでな。中の術式がガタついてるって話だったんだ。最近も調子が悪かったが、よりによって新人の計測中に逝っちまうとはな」
彼は呆れたように肩をすくめた。そして、俺の方を見て、ニカッと豪快に笑いかけたのだ。
「悪いな、兄ちゃん。驚かせちまったか? ボロい設備で恥ずかしい限りだ」
――助かった。俺は心の中で拳を握りしめ、表面的には「い、いえ、僕が壊したのかと思って焦りました……」と小市民的な反応を返す。
「はっはっは! まさか。人間一人の魔力で、この水晶が焼き切れるなんてありえねぇよ。もしそんな奴がいたら、そいつは人間じゃなくて化け物だ」
ギルドマスターは笑い飛ばした。いや、その「まさか」なんですが。あんたの目の前にいるのが、その化け物なんですが。
でも、彼の常識的な判断に救われた。そうだよな。普通に考えたら「新人が強すぎて機械が壊れた」なんて発想にはならない。「機械が古くて壊れた」が一番自然な結論だ。
「で、数値はどうだったんだ?」
「そ、それが……針が振り切れてしまって、正確な数値は……」
ミリアさんがおずおずと答える。ギルドマスターは「ふむ」と顎を撫でた。
「計測不能、か。まあ、機械が壊れる寸前の暴走だろう。……兄ちゃん、悪いが今回は『測定値なし』として処理させてもらうぞ」
「はい、もちろんです。それで、ランクはどうなりますか……?」
「測定不能ってこたぁ、魔力適性が確認できないってことだ。本来なら再検査だが、代わりの機械が来るまで何ヶ月かかるか分からん。規定通り『ランクなし(E)』からのスタートになるが……」
ギルドマスターの視線が、俺の足元へ落ちる。そこには、一連の騒動の間も「我関せず」で欠伸を噛み殺しているフェデがいた。彼は少し考え込むように髭を撫でた。
「……いや、待て。いい犬連れてるじゃねえか」
「はい、相棒のフェデリオです。……僕よりずっと強いです」
「だろうな。毛並みを見りゃ分かる。こいつはタダの犬じゃねえ。霊獣の血が混じってるか、あるいは変異種か……ま、とにかく戦力にはなりそうだ」
ギルドマスターはニヤリと笑った。
「特別措置だ。兄ちゃん自身の魔力は『測定不能』だが、従魔の戦力を加味して……『Dランク』で登録してやる」
「えっ、Dですか?」
Eじゃないのか。最低ランク希望だったのに。
「Eは街中の掃除とか、使い走りしかできねえランクだ。お前のその犬、そんな雑用させるには惜しいだろ? Dなら、街の外に出て簡単な採取や、小型魔物の討伐もできる。……まあ、お前自身が弱いなら、犬のリードを離さないことだな。死にたくなきゃな」
皮肉っぽく、でもどこか親愛の情を含んだ口調。Dランク。一人前の兵士、あるいは下級冒険者。悪くない。Eで子供の使いみたいな仕事ばかりさせられるより、Dの方が適度に自由がきくかもしれない。それに「測定不能=無能」というレッテルまで貼ってもらえた。これ以上の隠れ蓑はない。
「ありがとうございます! それで十分です!」
俺は深々と頭を下げた。『Dランク』。英雄でもない、エリートでもない、ごくありふれた駆け出しの地位。最高だ。Sランクの針を振り切った事実が、「故障」という便利な理由で闇に葬られ、俺は望み通り「魔力の才能がない凡人」というお墨付きを得たのだ。
「ミリア、鉄のカードを発行してやれ。……あーあ、本部に修理依頼出さなきゃなんねえのか。予算が頭いてぇな……」
ぼやきながら奥へ戻っていくギルドマスターの背中に、俺は心の中で合掌した。すみません。稼いだら、いつかこっそり寄付します。
手続きは、その後スムーズだった。手渡されたのは、何の変哲もない鉄製のプレート。
名前:ルーカス・ヴァレリオ ランク:D 職業:冒険者
そのシンプルな文字面が、俺には金色の輝きを放っているように見えた。これが俺の免罪符。スローライフへの通行手形だ。
「おめでとうございます、ルークさん。……あ、測定不能でしたけど、落ち込まないでくださいね? 努力次第でランクは上がりますから!」
ミリアさんが、励ますように言ってくる。俺は全力の笑顔で答えた。
「はい! 地道に頑張ります!」
嘘ではない。地道に、目立たず、平穏に頑張るつもりだ。俺は足元のフェデに目配せをし、意気揚々と出口へ向かった。
「……わふぅ」
フェデが呆れたようにため息をついた気がしたが、聞かなかったことにする。
懐のヴァルが『危ない橋だったな』と囁き、水筒のラグが『結果オーライですが……心臓に悪いです』とぼやいているのも無視だ。
勝った。俺は勝ったんだ。
ギルドを出る俺の背中を見送りながら、カウンターの中では、ギルドマスターが戻ってきていた。 彼は白く濁った水晶を手に取り、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……おいおい。寿命だァ? 嘘つけ」
その額には、先ほどは見せなかった脂汗がびっしりと浮いている。彼の手の中で、白濁した水晶が微かに震えていた。それは故障の震えではない。絶対的な上位存在に触れてしまったことによる、「畏怖」の震えだった。
「壊れてんじゃねえ。……『白旗』上げてやがるんだ、こいつは」
ギルドマスターは、震える水晶を布で包み込むと、鋭い視線を扉の向こうへと向けた。あの、頼りなさそうな青年と、愛嬌のある犬が消えた方向へ。
「とんでもねえ化け物が紛れ込みやがったな……」
俺の知らないところで、スローライフ崩壊への足音が、静かに、しかし確実に近づいていたことなど、この時の俺は知る由もなかった。ただ、手に入れた鉄のカードの冷たい感触に、ニヤニヤしていただけだったのだ。
【霊核計測の基礎知識】
ルークが壊してしまった測定器と、この世界の強さのランク付けについての解説です。
■ 霊核共振計 水晶に手を置くことで、体内の「霊核」の性能を数値化する装置です。 以下の3つの要素を計測し、その合計値(総合スコア)でランクが決まります。
Intake(吸収率): 霊素を吸い込む力。瞬間的な攻撃力や爆発力に関わります。
Core(容量): 霊素を溜めておくタンクの大きさ。スタミナや魔力総量に関わります。
Flux(循環速度): 霊素を回す速さと純度。魔法の詠唱速度や身体の反応速度に関わります。
■ 冒険者ギルドのランク基準 ギルドに設置されているのは「簡易型」の測定器であり、一般人〜一流冒険者レベルまでしか測れません。
Intake(吸収率)、Core(容量)、Flux(循環速度)をそれぞれ最大1000、合計で3000まで計測できます。
ランクF (〜200): 一般市民。生活魔法がやっと。
ランクE (201〜500): 見習い冒険者。素質あり。
ランクD (501〜1000): (※ルークの認定ランク) 一人前の冒険者ライン。
ランクC (1001〜1500): 中堅・ベテラン。
ランクB (1501〜2000): 上位冒険者。
ランクA (2001〜3000): ギルドで測れる限界値。超一流。
計測不能 (3001以上): 針が振り切れてエラー。
■ 今回のルークの数値:ルークは「Dランクくらいに抑えよう」と抵抗しましたが、彼の中身は精霊王です。 どれだけ蛇口を絞っても、ダムの水圧は隠しきれませんでした。
ちなみに、ルークの数値は 28,910 です。そりゃ壊れます。(それでも世界樹により制限がかかっています。)




