第55話 カインへの深夜指導
石造りの要塞の夜は、骨まで凍みるほど冷たい。
分厚い石壁が昼間の熱をすべて吐き出し、代わりに夜気の湿り気を吸い込んでいるかのようだ。窓の外には、重苦しいほど巨大な黒い影――世界樹のシルエットが、星空の一部を切り取って聳え立っている。
眠れなかった。かふかの高級羽毛布団も、王都の一流職人が仕立てた枕も、今の俺――ルーカス・ヴァレリオにとっては、ただの拷問器具でしかなかった。
目を閉じれば、昼間の光景がフラッシュバックする。副団長オスカーの、あの凍りついたような瞳。屈辱に歪んだ唇。
「王族であるこの私が、どこの馬の骨とも知れぬ新人に、気を使われ、勝ちを譲られたというのか……ッ!」
あの言葉が、耳の奥で呪いみたいに反響して消えない。
「……はぁ。どうしてこうなったかなぁ」
ため息をついてベッドから起き上がる。隣のベッドでは、フェデが「くぅ……ん」と幸せそうな寝息を立てて、無防備に腹を晒して丸まっていた。
こいつの図太さが心底羨ましい。水を飲もう。そう思って部屋を出て、ランタン片手に廊下を歩いたときだった。
ヴゥン。 ……ヴゥン
空気を無理やりに叩くような、鈍い音が聞こえた。 中庭の訓練場だ。こんな時間に? 俺は吸い寄せられるように、石造りの回廊から手すり越しに下を覗き込んだ。
***
そこにいたのは、同期のカインだった。月明かりの下、上半身裸で、一心不乱に剣を振っている。
汗が飛び散り、濡れた黒髪が顔に張り付いている。その表情は、鬼気迫るというより、悲痛だった。
「クソッ……! なんでだ、なんで振れねぇ……!」
カイン・ヘルダート。
候補生の中では「落ちこぼれ」のレッテルを貼られている男だ。
霊核スコアはDランク帯の下限。特に『循環速度(Flux)』の値が極端に低く、身体強化の立ち上がりが遅いのが欠点だと教官にも指摘されていた。
振るわれる剣は、重く、淀んでいた。焦りが筋肉を強張らせ、恐怖が切っ先を鈍らせている。見ていられないほど、痛々しい努力だった。
――その様子を、俺以外の誰かも見ていた 回廊の反対側。暗がりの柱の陰に、整った軍服のシルエットが立っている。
オスカーだ。
彼は腕を組み、冷ややかな、しかしどこか真剣な眼差しでカインを見下ろしていた。その目が語っているのがわかる。 『無駄だ』と。 そして同時に、『正さねばならん』とも。
オスカーが一歩、足を踏み出そうとした。その気配でわかった。彼はカインの元へ行き、その剣技の欠陥を指摘するつもりだ。
「肘が低い」「腰が入っていない」「呼吸が乱れている」。王家流の、完璧で、正しくて、そして今のカインには絶対に通じない理論で。
カインの『Flux(循環速度)』は確かに低い。数値上は910しかない。 でも、俺の精霊視には見えている。
あいつの腹の底――霊核の奥で、感情に合わせて爆発しようとしている『熱』の塊が。
カインは型に嵌めるほど弱くなる。逆に、感情に任せて『熱』を解放した瞬間だけ、数値が跳ね上がるタイプだ。オスカーの指導は正しい。正しいけど……今のあいつには逆効果だ。
(……あー、もう。これ絶対、また拗れるやつだけど)
見過ごせなかった。俺はオスカーが声をかけるよりも早く、手すりを乗り越えて音もなく中庭へ降りた。
「力みすぎだぞ、カイン」
静寂を破る俺の声に、カインがビクリと肩を震わせて見上げた。柱の陰にいたオスカーの足が、ピタリと止まる気配がした。
「ル、ルーク……? 見てたのかよ」
「まあな。トイレに行こうと思ったら、お前の唸り声が聞こえたんだよ」
「うっせぇな……。俺には才能がねぇんだ。人の倍やって、やっとスタートラインなんだよ。ほっといてくれ」
カインは苛立ちを隠そうともせず、また剣を構えた。 の構えは、教本通りにガチガチに固められている。
「ほっとけないね。そのままだと手首を壊すぞ」
「なんだと……?」
「お前さ、剣を『振ろう』としてるだろ」
俺はカインのそばへ歩み寄った。 暗闇の中、オスカーの視線が背中に突き刺さるのを感じる。でも、今は無視だ。
「剣は腕で振るもんじゃない。……お前の中の『熱』で走らせるもんだ」
「はぁ? 何言ってんだお前。魔法使いじゃあるまいし」
「いいから。一回、グリップを緩めてみろ。小鳥を握るくらい優しく」
「……こうか?」
「そう。で、重心をあと靴半分、前に倒せ」
俺はカインの背中を、トン、と指先で突いた。カインが前のめりになる。倒れそうになる身体を支えようと、無意識に足が出る。
「重心前って、これじゃ転ぶぞ!」
「転んでいいんだよ。お前の霊素は、溜め込むと濁る。爆発させたがってるんだ」
俺はカインの丹田あたりを軽く叩いた。数値910の低い循環速度。でも、それはあくまで「平常時」の話だ。
「ここにある熱を、我慢するな。ムカつくことでも、悔しいことでもいい。全部燃やして、剣先から吐き出せ。――今だ!」
俺の号令に、カインが反射的に踏み込んだ。正しい型も、呼吸法も無視した、ただの突撃。けれど、感情の昂ぶりと共に霊核が脈打ち、堰を切ったように霊素が溢れ出した。
ドォッ!!
空気が爆ぜた。 先ほどまでの「ヴゥン」という鈍器のような音ではない。剣身に赤い火花が散り、熱風を巻き起こして空間を薙ぎ払う音。
カイン自身が、一番驚いて目を見開いていた。振り抜いた剣が、残像を残してピタリと止まる。
「え……?」
「お前の『Flux』は、感情でギアが変わるんだよ。頭で考えるな。熱くなったまま、身体ごとぶつかれ」
「すげぇ……! なんだこれ、剣が勝手に走ったぞ!?」
「それがお前の適性だよ。型に嵌めようとしなくていい。お前は、お前の熱さを信じろ」
「へへっ……! ありがとな、ルーク! お前、教えるの上手いじゃねぇか!」
カインの顔から、悲壮感が消えていた。汗に濡れた笑顔は、年相応の少年のものに戻っている。
俺は「どういたしまして」と肩をすくめた。ふと、視線を感じて回廊を見上げる。
そこには、まだオスカーが立っていた。だが、その表情は、先ほどよりもずっと暗く沈んでいた。
彼はカインの劇的な変化を目撃していた。自分の指導ではなく、俺のたった一言のアドバイスで、落ちこぼれが開花する瞬間を。
オスカーの手が、回廊の手すりを強く握りしめているのが見えた。ギリ、と革手袋が軋む音が、ここまで聞こえてきそうだった。
(……あ)
しまった、と思った時にはもう遅い。 オスカーは、自分が出ようとしたタイミングを完全に奪われ、そして自分の理論よりも俺の感覚的な指導が「正解」だった現実を突きつけられたのだ。
努力と理論の人である彼にとって、カインの「型を無視した成長」と、それを導いた俺の「理屈を超えた指導」は、許しがたい不純物に見えたかもしれない。
オスカーは俺と目が合うと、ふいっと顔を背けた。 何も言わず、影の中に溶けるように去っていく。
その背中が、昼間の模擬戦の時よりもさらに小さく、そして拒絶の色を濃くしているように見えた。
「……あれ、副団長じゃねぇか? なんで逃げるみたいに……」
カインが不思議そうに首を傾げる。
「いや……なんでもない。続けていいぞ、カイン。いい音だった」
「おう! なんか掴めそうだ!」
再び剣を振り始めたカインの横で、俺は小さく息を吐いた。
夜風が急に冷たく感じる。良かれと思ってやったことが、また一つ、あの真面目すぎる副団長との間に深い溝を掘ってしまった気がする。
世界樹の梢が、ざわざわと揺れた。まるで、「人と人の縁は、霊素よりも複雑だぞ」と笑っているみたいだった。
俺はもう一度、闇に消えたオスカーの背中を思い浮かべながら、どうしようもない居心地の悪さを抱えて部屋へと戻った。




