第53話 副団長の直接指導
ガルドリアの朝は痛い、空気が刺さってくる感じだ。
岩肌を削るような寒風と、要塞全体から滲み出る鉄錆の匂い。それに加えて、目の前に立っている副団長オスカー様の放つ殺気が、肌をチリチリと焼いてくるもんだから、胃のあたりがキリキリと痛むわけだ。
フェデがあんなこと(要塞もふもふ制圧事件)をやらかした翌日である。当然、俺たち「特務候補生」への風当たりは強くなる。というか、暴風雨だ。
「貴様らの軟弱な根性を、私が直々に叩き直してやる」
オスカーが低い声で告げた。 蒼銀の鎧が朝日にギラリと光る。整いすぎた顔立ちは、能面みたいに無表情だけど、青銀の瞳の奥では「昨日の借りは返すぞ」という執念の炎がめらめら燃えているのが見える気がした。
隣のカインなんか、もう顔面蒼白で直立不動だ。狐獣人のノルンは……うん、立ったまま半分寝てるな。器用なやつだ。
俺の足元にはフェデがいない。今は寮でお留守番だ。「訓練にペットは不要」というオスカーの命令は絶対だし、これ以上フェデが愛嬌を振りまいたら、騎士団の規律が崩壊して俺の立場もなくなる。食費(経費)のためにも、ここは真面目にやるしかない。
「まずは基礎だ。要塞外周、二十周。遅れた者は昼飯抜きだと思え」
「は、二十周!?」
カインが素っ頓狂な声を上げた。無理もない。この《世界樹守護聖堂砦》は山一つくり抜いたようなサイズだ。外周一周だけでも数キロはある。しかも高低差がえげつない。
それを二十周って、フルマラソンどころの騒ぎじゃない。だが、オスカーは聞く耳を持たない。冷ややかな目で俺たちを見下ろし、あろうことか自分も走り出した。
「行くぞ。ついてこい!」
副団長が先頭を切るんかい。慌てて俺たちも駆け出す。地獄の基礎訓練の始まりだった。
***
結論から言うと、カインは死にかけた。五周目の時点で、彼の足取りは産まれたての子鹿みたいになり、呼吸は壊れた鞴のような音を立てていた。
ノルンもさすがに目が覚めたらしく、ぜぇはぁ言いながら四つん這いに近い姿勢で地面をかいている。
問題は、オスカーだ。この人、バケモノか? 涼しい顔で先頭を走り続けている。
息ひとつ乱れていない。それどころか、走るたびに身体の周囲の霊素が綺麗に循環して、加速しているようにすら見える。炎の霊素だ。彼の内側にある霊核が、大気中の霊素を吸い込み、爆発的なエネルギーに変換して身体機能を底上げしている。
これが、上位精霊と契約した「騎士」の走りか。伊達に王族やってないし、伊達に副団長を張ってない。
で、もう一つの問題は――俺だ。
(……やばい、汗が出ない)
俺はカインたちの後ろを、それなりのペースで走っていた。
演技プランとしては「へばった新人」をやるつもりだった。肩で息をして、「もうダメですぅ」みたいな顔をする予定だった。
なのに、身体が勝手に最適化しちゃうのだ。精霊王の核なんてものを宿しているせいで、俺の身体はオートマチックに周囲の霊素を取り込み、疲労物質を分解し、筋肉を強化してしまう。
例えるなら、近所のコンビニに行くだけなのに、F1カーのエンジンを積んでるようなもんだ。アクセルをほんの少し踏んだだけで、景色がすっ飛ぶ。必死にブレーキを踏んでいるのに、エンジンが「もっと回せ」と唸る。
結果として、俺はまったく息を切らさず、散歩みたいな顔で二十周を走りきってしまった。
「……ほう」
ゴール地点で待ち構えていたオスカーが、俺を見て目を細めた。カインとノルンは地面に突っ伏して死体ごっこをしている。
対して俺は、なんとか疲れたフリをしようと膝に手をついてみたものの、心拍数は平常運転だし、汗もかいていない。演技力が追いつかない。
「カインとノルンは論外だが……ルーカス。貴様、まだ余裕がありそうだな」
オスカーの声色が低くなる。褒めているんじゃない。苛立っているのだ。 彼にとって、俺のこの「涼しい顔」は、手抜きか、あるいは挑発に見えるらしい。
違うんです副団長。これでも必死に「弱くあろう」と努力してるんです。
「次は素振りだ。私が手本を見せる。……刮目せよ」
オスカーが腰の長剣を抜いた。刀身に、赤い紋様が走る。構えた瞬間、空気が変わった。
彼を中心に、熱波が渦巻く。魔法じゃない。剣技と霊素循環だけで、大気を歪ませている。
「ガルドリア王家秘伝、炎牙の型――」
ダンッ、と踏み込む音が爆発音に聞こえた。
速い。目にも止まらぬ一閃。 剣が空気を裂き、その摩擦熱と霊素が反応して、赤い残光が尾を引く。
「――穿て!」
ズドンッ!!
彼が剣を振り抜いた先の岩壁に、深々とした亀裂が入った。触れてもいないのに。剣圧と熱だけで岩を抉ったのだ。
カインが顔を上げて、あんぐりと口を開けている。ノルンも狐耳をピーンと立ててビビっている。
これが、ガルドリアの剣。単純な膂力じゃない。霊素を「炎」という形に練り上げ、それを剣に乗せて叩きつける技術。
オスカーは剣を納め、俺を振り返った。 その額にはうっすらと汗が滲んでいる。全力を出した証拠だ。
彼は顎で俺をしゃくった。
「やってみろ、ルーカス」
「えっ」
「貴様ならできるはずだ。あの身体強化の効率……素人ではないな? さっさと構えろ」
逃げ場はなかった。 俺は渋々、背中のアストラ(鞘に入ったまま)ではなく、訓練用の木剣を手にする。
どうする。普通に振ればいいのか?
いや、普通の基準がわからない。俺にとっての「普通」は、たぶんこの要塞を半壊させるレベルだ。
指輪で出力は絞っている。訓練生相当まで落ちているはずだ。
よし、風切り音くらいはさせてもいいだろう。俺は木剣を構えた。
イメージするのは、そよ風。ふんわりと、優しく。 そう念じて、剣を振ろうとした――その時だ。
「貴様ッ!!」
オスカーの怒鳴り声が飛んできた。
「なんだその腑抜けた構えは! 私を侮辱する気か!?」
「ひっ、い、いえ!」
「本気を出せと言っているんだ! 霊素を練れ! 循環させろ! 貴様のその無駄に有り余る霊素を、剣先に集中させてみろッ!!」
無茶を言う。俺の霊素を集中させたら、木剣なんて消し炭になる。でも、副団長の命令は絶対だ。ここで逆らえば、もっと面倒なことになる。 やるしかないのか。
少しだけ。ほんの少しだけ、霊素の蛇口を開く。
全身の「毛穴」を閉じていた意識を、コンマ一ミリだけ緩める。 ドクン、と心臓が跳ねた。世界樹の欠片である核が、待ってましたとばかりに脈打つ。
周囲の霊素――特にこの要塞は世界樹に近いから濃度が濃い――が、掃除機みたいに俺の身体へ吸い込まれていく。
やばい。吸いすぎた。これ、木剣じゃ耐えられない。
俺は慌てて、吸い込んだ霊素を逃がそうとした。剣先から放出するイメージで。
オスカーが叫ぶ。
「そうだ! そのまま振り下ろせ!!」
ええい、ままよ! 俺は木剣を振り下ろした。狙いは何も無い空間。ただの素振りだ。何も起きないはずだ。
――ヒュン。
木剣は、軽い音を立てて空を切った。よし、セーフだ。木剣も折れてないし、炎も出てない。
俺は安堵の息を吐こうとして――オスカーの顔色が真っ青になっていることに気づいた。彼の視線は、俺の剣の延長線上に向いている。
そこには、訓練場の壁があった。分厚い石造りの、城壁の一部だ。その壁に。音もなく。スパンと。巨大な「斜めの線」が入っていた。
一拍遅れて。ズズズ……と重い音がして、城壁の上半分が、斜めにずり落ちた。
ドォォォォォン!! 土煙が舞い上がる。
「…………」
静寂。カインが白目を剥いて気絶した。ノルンが尻尾を膨らませて固まっている。そしてオスカーは、口をパクパクさせながら、崩れた城壁と、俺の手にある無傷の木剣を交互に見ている。
俺はやっちまった顔で、木剣をそっと背中に隠した。衝撃波だ。直接当てたんじゃない。剣圧の霊素変換がうまくいきすぎて、見えないカマイタチみたいになって飛んでいったんだ。
これ、Dランクの技じゃない。Sランク……いや、それ以上の、精霊王特有の「空間切断」に近い現象だ。
「……あー、副団長? これ、経費で落ちますかね?」
恐る恐る尋ねるが、返事はない。
オスカーは微動だにせず、崩れ落ちた石の断面を見つめている。
その断面は鏡のように滑らかで、熱で溶けた痕跡すらない。ただ「空間がズレた」かのような切断痕。 彼の喉がごくりと鳴る音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
やがて、オスカーの視線がゆっくりと俺に戻ってくる。さっきまでの怒りや指導者としての威厳は消えていた。代わりにそこに宿っていたのは、幽霊にでも出会ったような、底知れぬ驚愕。
そして――己の常識を超える「力」を目の当たりにした武人の、強烈な焦燥。
痛いほどの沈黙が、舞い上がる粉塵と共に俺たちを包み込んでいく。




