第5話 冒険者ギルドと運命の計測
その扉は、やけに重かった。蝶番が悲鳴を上げるような音を立てて押し開けると、ぶわり、と熱風の塊が顔面を殴りつけてくる。
単に気温が高いという話ではない。いや、実際ムッとするほど暑苦しいのだが、それ以上に「生きている人間」が発散する特有のエネルギーが、どろりとした澱になって渦巻いている。そんな圧迫感だ。
鼻孔を突くのは、安いエール酒のツンとする酸味。鉄板の上で焦げた獣肉の脂、男たちの汗、使い込まれた革鎧の生臭さ、微かな鉄錆。それら一切合切がごちゃ混ぜになって、怒号のような笑い声と一緒に鼓膜を揺さぶってくる。
「…………」
一歩、足を踏み入れた瞬間だった。店内の空気が、凍りついた気がした。
昼間からジョッキを傾けていた荒くれ者たちが。あるいは依頼書が貼られた掲示板の前で品定めをしていた傷だらけの戦士たちが。一斉に、こちらを向く。
値踏みするような視線。肌がチリチリする。新入り特有の、「どこの馬の骨だ」という無言の圧力。心臓がきゅっと縮こまって、嫌な音を立てた。まずい、場違いだったか?
俺みたいな平和主義者――前世で馬車馬のように働かされて魂まですり減らした元・労働者――が、安易に来ていい場所じゃなかったんじゃ……。踵を返して逃げ出したくなる衝動が、足元から這い上がってくる。
だが、その張り詰めた空気は、俺の足元から響いた能天気な一声であっさりと決壊した。
「わふっ!」
フェデだ。こいつ、この殺伐とした空気を微塵も感じていないのか、それとも単に大物すぎるのか。尻尾をちぎれんばかりにぶん回して、近くの席に座っていた厳ついハゲ頭の戦士に向かって「遊ぼうぜ!」と言わんばかりに鼻先を突き出したのだ。
薄暗いギルドの中で、金色の毛並みだけが天窓の光を浴びたように輝いている。つぶらな瞳。あざといまでの「僕、いい子ですよ」という媚びた仕草。
「うおっ!?」
ハゲ頭の親父さんがのけ反る。そりゃそうだ。小熊サイズの犬がいきなり目の前に来たら誰だって肝を冷やす。怒鳴られるか? 喧嘩になるか? 俺が慌てて謝罪の言葉を口にしかけた、その時だった。
「なんだぁテメェ……デカい図体して、ずいぶん愛想がいいじゃねえか」
親父さんの顔が、くしゃりと崩れた。岩石のような手が伸びてきて、フェデの頭をわしゃわしゃと撫で回す。フェデは気持ちよさそうに目を細め、さらに激しく尻尾を振った。
ブォンッ! その一振りで、近くのテーブルから羊皮紙やら布巾やらが舞い飛ぶ。風圧がすごいんだよ、お前は。
「がはは! 見ろよこいつ、すげぇ人懐っこいぞ!」
「マジか、触らせろ!」
「おいおい、どっから連れてきたんだ新入り。いい相棒もってんじゃねえか」
――空気が、抜けた。いや、霧散したと言っていい。さっきまでの「殺すぞ」みたいな視線はどこへやら。屈強な男たちの目が、揃いも揃ってデレデレに溶けている。
俺? ああ、はいはい。俺のことなんて誰も見ちゃいない。「可愛い犬の革紐を持っている移動式の杭」、それが今の俺の立ち位置だ。
上等じゃないか。その他大勢、最高。空気でいることこそが、この過酷な異世界で生き残るための最強の処世術なんだから。 (それにしてもフェデの愛嬌、ちょっと反則すぎやしないか?)
これが最上位霊獣のカリスマというやつか。……いや、単に撫でられるのが好きなだけのアホの子に見えるけれど。俺は心の中で「ナイスだ相棒」と喝采を送り、フェデに夢中になっている人混みの隙間を縫うようにして、奥へ。目指すはカウンターだ。
そこにいたのは、これまた英雄譚の挿絵から飛び出してきたような「受付嬢」だった。 高い位置で結われた栗色のポニーテールが、振り子みたいに揺れている。着ているのは制服らしきベストだが、堅苦しさは皆無。むしろ動きやすそうだ。胸元のプレートには『ミリア』の文字。
彼女は俺――というか、俺の足元にいる巨大な毛玉――を視界に捉えた瞬間、ぱあぁっ、と。本当に幻聴でファンファーレが聞こえそうなレベルで、表情を輝かせた。
「いらっしゃいませぇ! 冒険者ギルド・グレイウッド支部へようこそっ!」
声、弾みすぎだろう。教えられた通りの商売スマイル? いやいや、もっと根源的な「ウェルカム!」という熱が出まくっている。たぶん、重度の動物好きだ。視線がさっきからフェデの毛並みに釘付けになっているもの。
「あ、えっと……冒険者の、登録を。お願いしたいんですけど」
「はいっ、新規登録ですね! ようこそいらっしゃいました! 担当させていただきます、ミリアです!」
眩しい。前世、朝から晩まで無機質で冷たい光と、魂を削るような激務で焼き切れて濁っていた俺の網膜には、彼女の笑顔は刺激が強すぎる。直視したら目が潰れそうだ。これが、救いのある職場の輝きか。
ミリアさんは慣れた手つきで羊皮紙をサッと広げると、羽ペンを構えてニッコリ笑った。
「では、こちらの用紙にお名前と、希望する活動スタイルを教えていただけますか?」
「ルーカス・ヴァレリオです。ルークって呼んでください」 「ルークさんですね。で、活動スタイルなんですが……」
ここだ。ここが正念場。俺は一呼吸置き、背中をわざと少し丸めた。「野心? なにそれ美味しいの?」と言わんばかりの、無気力な若者を憑依させる。
「えっと、その……できれば、危なくないやつで。薬草採取とか、街中のドブ攫いとか? そういう地味なのを細々とやりたいんです。魔物と戦うとか、そういうのはちょっと……自信がないというか、ほら、怖いじゃないですか」
どうだ。このヘタレっぷり。「俺は世界最強を目指す!」などと宣う熱血漢とは真逆の、安定志向の極み。これなら間違いなく、最低ランクからのスタートになるはずだ。
ミリアさんは一瞬、目をぱちくりさせたが、すぐに優しく微笑んだ。
「ふふ、堅実ですね。いいと思いますよ。無理をして怪我をする新人さんも多いですから。まずは安全な依頼から慣れていくのが一番です」
女神か。内心で「チッ、臆病者が」と舌打ちされるかと身構えていたのに。この世界の住人、優しすぎないか? それとも俺の前世が荒みすぎていたのか?
「あ、それと……この子も一緒なんですけど、大丈夫でしょうか?」
俺は足元のフェデを指さした。フェデは待ってましたとばかりに、カウンターに前足を乗せて「わふっ!」と挨拶する。ミリアさんの目が、とろりと蕩けた気がした。
「もちろんです! わぁ、大きい……ファルニッシュ(犬型霊獣)ですよね? すごく毛並みが綺麗……」
「フェデリオって言います。あの、一応戦える……というか、護衛くらいはしてくれるんで」
「なるほど、同行獣としての登録ですね。これだけ立派なら頼もしそうです……あの、ちょっとだけ撫でても?」
「どうぞどうぞ。むしろ喜びます」
許可を出した瞬間、ミリアさんは身を乗り出してフェデの首元をモフり始めた。
「わあぁ……ふわふわ……! すごい、毛が宝石みたいに光ってる! いい子ですねぇ〜」
骨抜きになっている。受付業務が完全に停止しているが、周囲の職員も苦笑いで見守っているあたり、彼女のこういう性格は周知の事実らしい。懐の中で、隠れているヴァルが『(念話)ちっ、あの犬っころだけ役得じゃねえか。オレ様も撫でられたい』などとボヤいているのが聞こえるが、お前が出てきたら火事になるから絶対ダメだ。
ひとしきりフェデを堪能した後、ミリアさんはコホンと咳払いをして仕事モードに戻った。
「失礼しました。えっと、書類上の手続きはこれで完了です。ルークさんは新人さんなので、まずは一番下の『Eランク』からのスタートになりますが……」
「あ、はい。それでお願いします。むしろEがいいです」
食い気味に答える。E。素晴らしい響きだ。責任ゼロ。期待値ゼロ。
「うふふ、そんなに謙遜しなくても。……では、最後に一つだけ」
ミリアさんが、カウンターの下から何かを取り出した。どすん、と置かれたのは、高さ三十センチほどの水晶の柱だった。
六角形にカットされたそれは、中に何かが封じ込められているのか、微かに虹色の光を内包している。台座には複雑な紋様――魔法陣らしきものが刻まれていて、いかにも「魔導具です」という顔をしている。
「これは『霊核計測装置』です。冒険者の方の霊素の量や適性を測るためのもので、登録時に必ず受けていただく決まりになっていまして」
「……へえ、なるほど」
声が裏返らないように必死で抑える。きたよ、必須行事。これを避けては通れないとは思っていたが、実物を前にすると緊張感が半端ない。
今の俺は、いわば「ダムが決壊しているのに、必死で土嚢を積んで水漏れを防いでいる」状態だ。腹筋に力を入れる要領で、体内の霊素循環をギチギチに締め上げている。
この状態で触れば、きっと「ごく微弱な反応」しか出ないはず。Dランク、いやEランク相当の、しょぼい数値が出てくれれば御の字だ。
「これに手を置けばいいんですか?」
「はい。軽く触れていただくだけで大丈夫ですよ。光の色と強さで、ルークさんの得意な属性や霊核の大きさが分かりますから。もし凄い才能があったら、いきなりBランクスタート……なんてこともあり得ますよ!」
ミリアさんは悪戯っぽく片目を瞑ってみせるが、俺にとっては悪夢の宣告でしかない。才能なんて見つかったら終わる。Bランク? 冗談じゃない。そんなのになったら「隣町のオークの群れを討伐してくれ」とか言われるに決まってる。俺がやりたいのは「裏山の薬草を摘んでくる」仕事なんだ。
『おいルーク、あれヤバくねぇか? あの水晶、世界樹の欠片が入ってるぞ』
懐のヴァルが警告してくる。マジかよ。世界樹製とか、感度最高レベルじゃないか。
『……循環を止めてはいけません、ルークさま。止めるのではなく、細くするのです。糸のように、針の穴を通すように』
水筒の中のラグのアドバイスが染みる。そうか、止めたら逆に暴発するかもしれない。チョロチョロと出すんだ。壊れかけの水道みたいに。
イメージしろ。俺は小石。俺は雑草。俺はただの、魔力なんてほとんどない一般市民。体の中を巡る奔流のようなエネルギーを、さらに強く圧縮する。もはや腹筋どころか、全身の筋肉が攣りそうなくらいの力み方だ。
顔が無表情なのは、表情筋まで総動員して霊素を抑え込んでいるからだ。端から見れば、単に緊張でガチガチになっている新人にしか見えないだろう。
「……じゃあ、いきます」 「はい、リラックスしてくださいね~」
リラックスなんてできるか。俺は震える手を、ゆっくりと水晶へと伸ばした。指先が近づくにつれて、水晶の中の光が、何かに反応するように揺らめいた気がした。共鳴? いや、まだ触れてないぞ。
頼む、空気を読んでくれよ、水晶さん。俺はすごく弱いんです。凡人なんです。そういう結果を出してくれれば、後でピカピカに磨いてやるから。
あと数センチ。あと数ミリ。指先の皮膚が、ひんやりとした水晶の表面に触れる。
――その瞬間。 ドクン、と。心臓が跳ねるような衝撃と共に、俺の手のひらから、抑えきれなかった「何か」が、巨大な渦に飲み込まれるような勢いで持っていかれる感覚。
――え?
思考する暇もなかった。水晶の内部で、小さな光の点が、あり得ない速度で回転を始めた。




