第48話 旅立ちの朝
冒険の終わりというものは、いつだって呆気ないものだ。だが、俺の「スローライフ」の終わりは、呆気ないどころか――とろけるように美味くて、少しだけ塩辛い味がした。
「うぅ……ルークちゃん、行っちまうのかい……?」
「マルタさん、泣かないでくださいよ。俺まで湿っぽくなる」
「だってあんた、誰よりも美味そうにアタシのシチューを食ってくれたじゃないか……!」
宿屋《月下葡萄亭》使い込まれた木のテーブルに並ぶのは、俺がこよなく愛した「特製ゴロゴロ肉のブラウンシチュー」だ。
湯気と共に立ち上る濃厚な香りが、鼻腔をくすぐり、胃袋を鷲掴みにしてくる。俺はスプーンですくった最後の一口を、噛みしめるように喉へ送った。野菜の甘み、肉の脂、そしておかみさんの愛情。これらが渾然一体となった味は、俺がこの街グレイウッドで得た「日常」そのものだった。
足元では、巨大な毛玉――もとい、最上位霊獣フェデリオが、特大ボウルに盛られた骨付き肉を「ガフッ、ガフッ」と豪快な音を立てて平らげている。こいつも、この宿の飯が大好きだった。
俺たちは顔を見合わせる。言葉はいらない。
(……最高だったな、ここ)
(わふ!)
通じ合った瞬間、俺は空になった皿を置き、立ち上がった。これ以上長居をすれば、決意が、いや「食費と風呂のための妥協」という名の覚悟が揺らいでしまいそうだったからだ。
「ご馳走様でした。……必ず、また食べに来ます」
「待ってるよ! 出世しても、アタシの味を忘れるんじゃないよ!」
マルタさんの、背中を叩く手のひらは痛いほど温かかった。
***
宿を出ると、そこには異様な光景が広がっていた。朝の澄んだ空気の中、石畳の通りを占拠するように停まっていたのは、一台の馬車だ。いや、馬車と呼ぶには抵抗がある。
黒塗りの車体には金色の装飾が施され、窓には高そうなビロードのカーテン。牽引するのは筋肉の隆起が美しい軍馬が四頭。御者台には、隙のない動きをする騎士。そして周囲を固めるのは、完全武装したセカイジュ騎士団の精鋭たち。
グレイウッドの牧歌的な風景の中で、そこだけ浮きまくっている。
「……やりすぎでしょう、アウリック支部長」
「これでも最低限の『賓客待遇』ですが? ルーカス殿」
馬車の横で待ち構えていた騎士団支部長アウリック・グレイランが、涼しい顔で答えた。賓客待遇。聞こえはいいが、要するに「重要参考人兼、危険物移送」のための厳重警備だ。街の人々が遠巻きにヒソヒソと噂している。
「ルークのやつ、ヴァルドンガルドに連れて行かれるらしいぞ」
「何をやらかしたんだ」
「いや、王族の隠し子だったとか……」
適当な噂が飛び交う中、俺は深いため息をついて、見送りの輪へと視線を向けた。
そこには、この街で縁を結んだ、数少ない――けれど濃い面々が揃っていた。
「おい、新人」
最初に、腕を組んで壁に寄りかかっていた赤髪の剣士が、顔を上げた。Aランク冒険者、カレン・ブラッドレイ。
彼女はいつもの不機嫌そうな顔つきで、しかしその瞳には、かつてのような侮りは一切ない。あるのは、対等な戦士に向ける信頼の色だ。あの「枯れ沼」での一件以来、彼女は俺の正体を詮索せず、貸しという形で沈黙を守ってくれた。
「王都に行っても、ボロを出さないようにしなさいよ。……あんたのその『庭師』の演技、あっちの連中に通じるかしらね」
「手厳しいな、先輩。カレンさんこそ、無茶しすぎないでくださいよ」
「ふん。……私が無茶をした時は、またあんたの犬が助けてくれるんでしょ?」
カレンはチラリとフェデを見た。フェデは「わふっ(任せろ)」と得意げに尻尾を振る。カレンはふっと口元を緩め、拳を軽く突き出してきた。俺はこつんと、自分の拳を合わせる。言葉はいらない。戦場で背中を預けた者同士の、短い別れの挨拶。
そして、その隣。ボロボロのローブを纏った老学者、ギルベルトが、ニヤニヤと笑いながら杖をついて立っていた。
「カカッ。結局、わしの言った通りになったじゃろう? 『世界はお主を放っておかん』とな」
「……ギルベルトさん。あんた、楽しんでるでしょう」
「まさか。これでも心配しておるよ。……お主という器が、人の枠に収まりきれるかどうかをな」
ギルベルトの声が、一瞬だけ低く、真剣な響きを帯びた。
彼は知っている。俺の霊核が異常であることも、フェデがただの霊獣ではないことも。その上で、彼は俺を「研究対象」ではなく、「一人の若者」として見てくれている気がした。
「ヴァルドンガルドは古い都じゃ。そこには世界樹の根だけでなく、人の欲も深く根を張っておる。……飲み込まれるなよ、ルーカス」
「肝に銘じます。」
「わしの紹介状を入れておいたから、役に立つはずじゃぞ」
ギルベルトは嬉しそうに髭を揺らした。このじいさんには敵わない。
「ルークさん」
最後に声をかけてきたのは、冒険者ギルドの受付嬢、ミリアだ。
いつもの制服姿だが、その琥珀色の瞳は少し潤んでいるように見えた。彼女は俺のDランクカードの手続きをしてくれた最初の人であり、俺の「隠蔽」が最初に破綻したきっかけ(計測不能事件)の証人でもある。
そして何より、俺の正体に関わる不思議な夢を見た「巫女」の血筋。彼女は、何かを言いかけて、言葉を飲み込み、そして精一杯の笑顔を作った。
「……いってらっしゃいませ。あの、私、勘違いしてました」
「勘違い?」
「ルークさんは、薬草採りが似合うのんびり屋さんだなって。でも……背負っている剣は、飾りじゃなかったんですね」
ドキリとした。彼女の視線は、俺の背中にある星霊剣アストラに向けられている。鞘に入ったままの、抜けない剣。けれどミリアには、その奥にある何かが直感で伝わっているのかもしれない。
俺は苦笑して、いつものように肩をすくめた。
「飾りですよ。重いだけのね。……ま、向こうでいい給料が出るらしいんで、出稼ぎに行ってきます」
「はい。……待ってますから。いつかまた、フェデちゃんと一緒に、カウンターに来てくださいね」
彼女の声には、祈るような響きがあった。俺は小さく頷く。嘘にはしたくない約束だ。
「さあ、ルーカス殿。そろそろお時間です」
アウリックに促され、俺は馬車のステップに足をかけた。フェデが先に「ひょいっ」と身軽に飛び乗る。
車内は呆れるほど広かった。座席はフカフカで、俺の安アパートのベッドより上等かもしれない。フェデがさっそく座席を占領し、もふもふの巨体をごろりと横たえる。俺はその隣に腰を下ろし、窓のカーテンを少しだけ開けた。
見送りの三人が、そして遠巻きに見ていた街の人々が、手を振っているのが見える。たった数週間。
けれど、確かにここは俺の「家」だった。
スローライフは失敗した。
平穏な日常は、俺自身の力が招いたエラーによって崩れ去った。これから向かうのは、大陸最大の軍事国家、ガルドリア王国の王都ヴァルドンガルド。騎士団という名の軍隊。陰謀渦巻く宮廷。そして、世界樹の根元で待つ「何か」。
どう考えても、面倒ごとの予感しかしない。
けれど不思議と、胸の中に重苦しいだけの暗さはなかった。
シチューの温かさが、まだ腹の底に残っているからかもしれない。あるいは、見送ってくれる彼らの眼差しが、俺を「化け物」ではなく「ルーク」として見てくれていたからかもしれない。
「……行くか、フェデ」
「わふぅ」
御者の鞭が鳴る。重厚な車輪が、ごとり、と回り始めた。景色が流れ出す。グレイウッドの街並みが、市場の喧騒が、月下葡萄亭の看板が、後ろへと遠ざかっていく。俺は窓枠に肘をつき、小さくなっていく街を最後まで見つめ続けた。
さらば、俺の短すぎたスローライフ。そして、こんにちは。
――精霊王(候補)として、世界を守るための、新しい冒険の日々よ。




