第45話 強制スカウト
朝の匂いってのは、人生の幸福度を測るもっとも正確なバロメーターだと思うんだ。
たとえば今、おれの目の前にあるこの光景。 じっくりと時間をかけて煮込まれた根菜の甘い香りが立つシチュー。表面がパリッと香ばしく焼かれた、大ぶりのライ麦パン。そして窓から差し込む、穏やかで無害な陽射し。
宿屋『月下葡萄亭』の一階、いつもの特等席。 おれは木のスプーンを口に運びながら、心の中で小さくガッツポーズをした。
(……勝った)
何にって、昨日の不穏な空気にだ。
ギルベルト爺さんの「逃げろ」という物騒な忠告も、ネリスとかいう鉄仮面事務官の冷ややかな視線も、一晩ぐっすり寝て美味い朝飯を食えば、なんだか遠い世界の出来事みたいに思えてくる。
人間、胃袋が満たされれば、だいたいの不安は消化できるもんだ。
足元では、相棒のフェデが自分用の木椀(特大サイズ)に顔を突っ込んで、ガツガツと豪快な音を立てている。今日もいい食いっぷりだ。こいつが美味そうに食ってるのを見るだけで、稼いだ甲斐があるってもんよ。
「ほらよルーク、おまけだ。昨日の残りだけどな」
女将のマルタさんが、ドスンと追加のパンをテーブルに置いていく。
「残り物こそ味が染みてて美味いんだよ。ありがと、マルタさん」
「へへっ、いい笑顔だねぇ。あんたみたいに美味そうに食う客がいると、作り甲斐があるってもんさ」
平和だ。 これだよ、おれが求めていたのは。
世界を救うとか、魔王がどうとか、そんなカロリーの高い話は勇者様とエリートたちに任せておけばいい。おれはここで、Dランク冒険者として地味に、かつ穏やかに、フェデの食費を稼ぐだけの日々を送るんだ。そう、確信してパンをちぎった、その瞬間だった。
――ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
奇妙な音が聞こえた。 食堂の賑わいを切り裂くような、規則正しく、硬質で、冷徹な響き。 複数の足音が、ぴったりとリズムを合わせて近づいてくる。
カチャリ、と金属が擦れる音が混じる。 あれはそこらの冒険者が着てる安物の防具じゃない。手入れの行き届いた、軍用のプレートメイルが立てる独特の摩擦音だ。
フェデが食べるのを止めた。 耳をピンと立て、琥珀色の瞳を細めて入り口の方角を睨む。尻尾の動きが止まっている。
食堂の客たちが、一人、また一人とスプーンを止める。 マルタさんが布巾を持ったまま固まる。
窓の外。いつもの平和な通りが、いつの間にか「色」を変えていた。
白と紺。世界樹の紋章を胸に刻んだ、完全武装の騎士たち。
それが三人や四人じゃない。十人、いや二十人? 宿屋を取り囲むように、整然と、そして無言で展開している。まるで、凶悪な魔獣の巣穴を包囲するかのような、一切の油断のない陣形。
フィオ(風の精霊)が、おれの耳元でおずおずとささやいた。
『ルーク殿……裏口に三人、屋根の上に二人、井戸の影に一人います。完全に、逃げ道なしです』
(……詰んだ)
おれはスプーンを置いた。いや、落としたかもしれない。シチューの温かさが、一気に胃の中で鉛に変わる。
コン、コン。
宿の扉がノックされた。 乱暴に叩くわけじゃない。礼儀正しく、しかし絶対に「居留守」など許さない、権力の重みがたっぷりと乗ったノック。
ギィィ……と、扉が開く。
逆光の中に、一人の男が立っていた。 長身。灰金色の髪をオールバックになでつけ、背筋を定規で引いたみたいに伸ばした、初老の騎士。
その顔には感情がない。あるのは、岩のような頑固さと、氷のような職務遂行の意志だけ。
おれは知識として、その顔を知っていた。 アウリック・グレイラン。 セカイジュ騎士団ソルネリア支部、支部長。元A級騎士で、剣よりもその冷徹な戦略眼で名を馳せた、「鉄の指揮官」
なんでそんな大物が、こんな田舎の宿屋に? いや、考えるまでもない。 おれの「隠蔽」が、ついに決壊したってことだ。
アウリック支部長は、食堂の中を見回すこともなく、一直線におれの席へと視線を固定した。
射抜かれた、と思った。蛇に睨まれた蛙ってのは、こういう気分のことを言うのか。
「ルーカス・ヴァレリオ殿だな」
よく通る、低い声。問いかけではない。確認ですらない。ただの事実確認だ。
おれは引きつった笑みを浮かべて、どうにか声を絞り出す。
「……おはようございます。あの、人違いでは?」
「間違いではない」
即答。 取り付く島もないとはこのことか。
「セカイジュ騎士団ソルネリア支部、アウリック・グレイランである。……貴殿に、王都本営より通達がある」
支部長が、一歩踏み出す。 それだけで、周囲の客たちがざざっと波が引くように退いた。
おれの周りだけ、ぽっかりと空白ができる。 フェデが低く唸り、おれを庇うように前に出ようとするが、おれは慌ててその首を押さえた。やめろ、ここで吠えたら本当に「危険魔獣」として認定されて終わる。
「つ、通達?」
「左様」
支部長は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、おれの目の前に突きつけた。
そこには、王都本営の印章と、見覚えのないサイン。
「ヴァルドンガルド本営への即時出頭。および、セカイジュ騎士団への『特務入団試験』への参加を命ずる」
しーん、と食堂が静まり返った。入団試験?しかも「特務」? なにその、いかにも「裏の仕事させられます」みたいな不穏な響きは。
「……あの、すみません。お言葉ですが、おれはただの冒険者で……騎士団への入団希望なんて出した覚えはないんですが」
「希望の有無は問わない」
アウリック支部長は、さらりと言ってのけた。 問わないって何だよ。強制徴募かよ。ここは自由の国ソルミリアじゃないのか。
「これは『要請』ではない。『命令』だ。貴殿には拒否権がない」
「ちょ、ちょっと待ってください! Dランクですよ? おれ、薬草採取くらいしか能がないんですよ? なんでそんな……」
「謙遜は不要だ」
支部長の目が、すっと細められた。その瞳の奥に、「とぼけるなよ」という冷たい光が見える。
「事務官ネリアの報告、および先日の西の森での『暴走根』鎮圧の記録。……全て把握している」
心臓が跳ねた。バレてた。やっぱり、あの「通りすがりの庭師」設定には無理があったか。
というか、記録ってなんだ。誰だよそんな詳細なレポート書いたやつ。ネリスか。あの眼鏡、忍者かよ。
支部長の視線が、フェデに向けられる。
「それに……その霊獣。ただのファルニッシュではないな?」
詰んだ。 完全に、外堀も内堀も埋められている。ざわっ、と店の外が騒がしくなる。
野次馬が集まってきていた。その中に、ギルドの制服姿のミリアと、ニヤニヤ笑っているギルベルト爺さんの姿が見える。
「ルークさん!」
ミリアが悲鳴みたいな声を上げる。
「騎士団の……しかも本営からの直接命令!? す、すごいですけど……大丈夫なんですか!?」
全然すごくないし、全然大丈夫じゃない。 周囲の視線が痛い。
「あいつ、何したんだ?」
「悪いことしたのか?」
「いや、騎士団からのスカウトだってよ」
「Dランクがか? まさか、隠れた英雄だったとか?」
勝手な憶測が飛び交う。ああ、終わった。おれの「地味で無害な一般市民」という完璧な擬態が、音を立てて崩れ去っていく。
「……拒否したら、どうなります?」
最後の悪あがきで聞いてみる。 支部長は、表情ひとつ変えずに答えた。
「拒否は想定されていない。……貴殿の力は、野放しにするには大きすぎる。自覚はあるだろう?」
「…………」
「もしここで抵抗するというなら、我々も相応の対応をとる。……その霊獣も含めてな」
脅しかよ。フェデを人質(犬質?)に取るのは卑怯だろ。
フェデが不安そうに「くぅん」と鳴いた。その声を聞いて、おれの中で何かが折れる音がした。
逃げ場はない。この鉄壁の包囲網を突破して逃亡生活を送るか、大人しく従うか。
フェデの幸せを考えれば、犯罪者として追われる未来だけは避けたい。
「……わかりましたよ」
おれは両手を上げて降参のポーズをとった。
マルタさんが、心配そうにおれを見ている。ごめん、マルタさん。シチュー、最後の一口が食えなかった。
「話は聞きます。……でも、少し考える時間をください。心の準備というか、荷造りというか」
「よかろう」
アウリック支部長が、懐からさらにもう一通、分厚い封筒を取り出した。赤い封蝋がされた、見るからに重苦しい手紙だ。
「総団長からの親書だ。……心して読むがいい。貴殿のこれからの運命について、二つの選択肢が用意されている」
「選択肢……?」
「明日の朝、迎えに来る。それまでに返答を決めておけ」
支部長が封筒をテーブルに置く。 ずしり、と嫌な音がした。
彼は踵を返して出ていく。 だが、騎士たちは撤収しない。宿屋を取り囲むように配置につき、完全な監視体制を作り上げている。軟禁だ。事実上の、逮捕みたいなもんだ。
残されたおれは、椅子にへたり込んだ。 テーブルの上には、冷めかけたシチューと、禍々しいオーラを放つ総団長からの手紙。
フェデが心配そうに鼻先を押し付けてくる。
「……ごめんな、フェデ。なんか、面倒なことになった」
スローライフ。 その甘美な響きが、遠い彼方へ飛び去っていく音が聞こえる。 さようなら、グレイウッド。 さようなら、おれの平穏。
おれは震える手で、その手紙に手を伸ばした。 まだ中身は見ていない。 見ていないけれど、おれの社畜センサーが激しく警告音を鳴らしている。
この中には、間違いなく「ろくでもない未来」しか入っていないと。




