第43話 迫りくる包囲網
信じられるか。あの勇者エリシア――世界で一番有名で、一番強くて、関わったら人生が終わる「歩く戦略核兵器」みたいな美少女に、ロックオンされかけた。
心臓が喉から飛び出すかと思った。いや、あの緊迫感は、全裸でドラゴンと添い寝するレベル。寿命が三年は縮んだ。間違いない。
でも、なんとかやり過ごした……はずだ。たぶん。俺の演技力、捨てたもんじゃない。アカデミー賞ものだったろ、あの完璧すぎる「善良な市民A」っぷりは。誰か見ててくれなかったかな、あの名演。
「ん〜〜〜っ! 空が、青い!」
宿屋「月下葡萄亭」の二階、一番端っこの安い部屋。窓からドカンと差し込む朝日が、俺の瞼を容赦なくこじ開けてくる。あー、まぶし。平和の輝きが目に染みる。天から降り注ぐ慈愛の光……いや、ただの日光だ。目が痛い。
隣のベッドを見れば、黄金の毛玉ことフェデが腹を天に向けて爆睡中。「くぅん……肉ぅ……特上ロース……」とか寝言言ってる。おい、仮にも最上位霊獣だろお前。完全にダメ犬の顔になってる。よだれ拭けよ。
「よし、今日も生き延びた」
俺はふんっと伸びをして、ギシギシ鳴る安物のベッドから這い出る。今日は何しよう。クエスト? いやいや、昨日の今日で目立つのは自殺行為だ。
ギルドには顔だけ出して、「怖くて気を失っていました。」って震える小動物アピールしつつ、安っすい採取依頼票を眺めるフリだけして帰ってくる。いわゆる、意識低い系冒険者ムーブ。モブはモブらしく、背景に徹するべし。
……なんてことを考えて、俺が鼻歌交じりに顔をジャブジャブ洗っていたその時。この宿のすぐ近く、冒険者ギルドの奥深くにある資料室では、俺のささやかな願望をロードローラーで轢き潰してミンチにするような「答え合わせ」が、今まさに佳境を迎えてた。
***
グレイウッド冒険者ギルド、資料保管室。普段ならカビと埃の匂いしかしない地味で薄暗い部屋が、今は尋常ではない熱気に包まれていた。山積みにされた羊皮紙の塔。ツンとくるインクの匂い。そして、血走った目で書類をめくるギルド職員たちの、悲鳴に近い荒い息遣い。まるで戦場だ。
その中心に、一人の女性が立っていた。王都から派遣された冷徹な事務監査官、ネリス・クロイツ。彼女は氷のように冷たい、絶対零度の視線で手元のリストを指差した。その指先が震えているのは、未知への恐怖か、それとも極上の獲物を見つけた狩人の歓喜か。
「……これで、全部ですか?」
「は、はいっ! ここ一ヶ月以内に登録された全冒険者の依頼達成記録、並びに素材納品リストです! 隠しごとは一切ありません!」
ギルド職員が涙目で、震える手で書類を差し出す。ネリスはそれを無造作にバサッと受け取り、パラパラとめくった。その目は人間的な感情を一切排し、ただ「異常値」だけを探知する精密機械のように動く。カサカサという紙の音だけが、不気味に響く。
そして、ある一枚の書類でピタリと止まった。
「……やはり。黒、ですね」
彼女が抽出したのは、Dランク冒険者『ルーク・ヴァレリオ』の個人ファイル。一見すれば、何の変哲もない記録に見える。依頼内容は『薬草採取』『ドブさらい』『害獣駆除』といった、初心者向けの地味なものばかり。パッと見は、どこにでもいる平凡な新人の日報だ。
だがプロの事務官であるネリスの目は、ごまかせない。そこに隠された「作為的なまでの完璧さ」を見逃さなかった。
「依頼達成率、100%」
「は、はい。優秀な新人ですから……」
「装備損耗率、0%。負傷記録、なし。ポーション購入履歴、なし」
「……え?」
職員が目を丸くする。言われてみれば、そんな新人がいるだろうか? ゴブリン退治に行けば、かすり傷の一つや二つ、剣の刃こぼれくらいは日常茶飯事だ。泥にまみれ、血を流し、装備を直して強くなる。それが冒険者ってもんだ。だが、このルークという男の記録は、あまりにも綺麗すぎる。まるで、ちょっと近所へ散歩に行って帰ってきただけのような、不気味なほどの無傷さ。
さらにネリスは、別の書類――納品された魔物素材の検分書――をバンッ! と机に叩きつけた。
「ここを見てください。討伐された魔物の死因」
「ええと……『打撲』、ですね」
「全て、です」
「はい?」
「ゴブリンも、オークも、巨大スライムも。納品された死体はぜーんぶ、刃物による切断痕がなく、何らかの『広範囲衝撃』による全身打撲か、あるいは『核の消滅』による崩壊です」
ネリスの声が、静かな部屋に淡々と響く。職員たちの顔色がサァーッと青ざめていくのがわかる。剣士として登録されているはずの男が、剣を使わずに魔物を殲滅している? それも、Dランク相当の獲物を相手に、オーバーキルもいいところだ。
「極めつけはこれじゃよ」
書類の山からひょっこりと顔を出したのは、植物学者のギルベルト。彼は楽しそうに、一枚のメモ書きをひらつかせた。昨日の「世界樹暴走鎮圧」の現場で採取されたデータの速報値。老人の目が、新しいオモチャを見つけた子供のようにキラキラしている。
「現場に残された霊素の残滓。分析の結果、対象ルークの波長と99・8%の確率で一致したわい。推定出力は計測不能。勇者部隊が撤退を余儀なくされた災害級魔獣を、単独かつ一撃で無力化しておる」
シン、と静まり返る資料室。もはや、誰も口を開けない。Dランク冒険者? 冗談にもほどがある。これは羊の皮を被った狼どころの話じゃない。ハムスターの着ぐるみを着たドラゴンだ。
ネリスは眼鏡の位置をクイッと直し、淡々と、しかし確信を込めて告げた。
「これは、Dランク冒険者の戦績ではありません。国家戦略級の実力者が、意図的に力を隠して遊んでいるデータです」
「そ、そんな……まさか、あの温厚なルーク君が?」
「ええ。そして、その『隠す力』すらも制御しきれずに漏れ出しているのが、この間の『計測不能』事件なのです」
彼女はファイルをパタンと閉じ、表紙に赤いペンでグルグルッと印をつけた。それは『要注意観察対象』なんて可愛いもんじゃない。国家機密レベルを示す『特級指定』のサイン。
「このデータは王都へ送ります。もうギルド長の判断で彼を泳がせていた段階は過ぎました」
ネリスは窓の外、のどかな街並みを見下ろした。
「檻の準備は整いました。あとは、主が扉を閉めるだけです」
***
場所は飛び、ガルドリア王国・王都ヴァルドンガルド。大陸中央の北西に位置する、ガチガチの軍事国家。その中枢にある、セカイジュ騎士団総本部《セント・アルボル要塞》。最上階の執務室は、今日も胃に穴が開きそうな重圧に満ちていた。空気が重い。
「……ふむ」
重厚な執務机の奥。書類の山に埋もれるようにして座っていた巨躯の男が、低く唸った。アウストレア・ラインハルト。この国最強の騎士にして、セカイジュ騎士団を束ねる総団長様だ。彼の手元には、たった今、窓から飛び込んできた黒い鳥――魔法伝令の使い魔が運んできた、一枚の羊皮紙があった。差出人は、ネリス・クロイツ事務官。
「……読まれましたか、閣下」
控えていた副官が、恐る恐る声をかける。アウストレアは無言で頷いた。その瞳には、獰猛な光が宿っている。
「計測器を恐怖させた謎の新人。世界樹の暴走を鎮圧した人物。そして、勇者の聖剣と共鳴した、Dランクの青年」
彼は、報告書にある名前を、ごつい指でなぞった。
『ルーカス・ヴァレリオ』
「……ふっ。Dランクだと? 冗談にもほどがある」
アウストレアは、口の端をニィッと歪めて笑った。それは獲物を見つけた猛獣の笑みであり、同時に、待ち望んでいた切り札を手に入れた指揮官の笑みでもあった。
「ネリスの分析は正しいな。こいつは、人が扱っていい『戦力』の枠を超えている。世界樹が……あるいは運命が、このタイミングで寄越した『劇薬』だ」
西の空には、魔王軍の影が濃くなりつつある。勇者エリシア一人に背負わせるには、あまりにも重すぎる世界の命運。そこに現れた、計算外のジョーカー。規格外、想定外。
「……野放しにはできん。敵に回れば厄介だ。だが、味方に引き込めれば――」
アウストレアはガタッと立ち上がり、窓の外、東の空を睨みつけた。
「確保する」
短く、告げる。
「副官。『紙』を出せ」
「はっ! ……え、まさか、あの?」
「ああ。最高重要度のヤツだ。とびっきりのな」
副官が震える手で差し出したのは、血のように赤い羊皮紙だった。『特別招集状』。通称、赤紙。受け取ったが最後、王族であろうと拒否権を持たない、騎士団最強の強制執行命令書。
アウストレアは羽ペンを取り、インク壺にズボッと突っ込んだ。迷いはない。サラサラと、流れるような筆致で名前を刻む。
『宛先:グレイウッド支部所属、Dランク冒険者ルーク・ヴァレリオ』
『内容:王都本営への即時出頭、およびセカイジュ騎士団への入団試験参加を命ず』
「……入団試験、ですか?」
「建前だ。実態は『拘束』に近い。拒否すれば、S級危険因子として認定し、大陸全土で指名手配すると書き添えろ」
「か、閣下……そこまで脅さずとも……」
「相手は規格外だぞ? 生半可な覚悟で捕まえられると思うなよ。逃げ道を塞げ。退路を断て。首に縄をつけてでも、この砦まで引きずり込んでこい」
ドンッ!!
総団長の印章が、重い音を立てて押される。机が揺れた。赤い封蝋が、じゅわりと溶けて固まる音。それは、一人の青年の自由が、完全に焼き切られた音だったかもしれない。
「伝令! 最速の飛竜便だ! 明日の朝には叩きつけろ!」
アウストレアの号令が、要塞中に響き渡る。こうして。世界を救うことになる英雄への招待状であり、平穏を愛する青年への死刑宣告でもある、真っ赤な手紙が空へと放たれた。
***
一方、グレイウッド。なーんも知らない俺は、街外れの丘でフェデと日向ぼっこをしていた。
ぽかぽか陽気。そよ風が気持ちいい。ああ、平和だ。やっぱり昨日のあれこれは気にしすぎだったんだ。
「ふわぁ……眠くなってきたな、フェデ」
「わふぅ(俺も)」
フェデの腹を枕にして、俺はまどろみの中へと落ちていく。空は青いし、雲は白い。この平穏が、明日も明後日も、ずーっと続けばいいのに。
――ピクリ。
不意に、枕にしていたフェデの耳が動いた。さっきまでの緩んだ空気が消え、フェデがガバッと上体を起こして西の空を睨む。
「ん? どうした、フェデ」
「……グルルッ(なんか来る)」
「え? 魔物か?」
「ワンッ!(違う、もっと……めんどくさい匂い!)」
めんどくさい匂いってなんだよ。俺もつられて空を見上げる。西の空。王都の方角だ。まだ何も見えない。雲が流れていくだけ。
でも、風の精霊フィオが、耳元で焦ったようにささやいた気がした。いつもはマイペースな彼が、珍しく切羽詰まった声で。
『……急がれませ、我が王。逃げ場のない嵐が、翼に乗って近づいております。それは運命の輪、拒絶できぬ召喚の響き』
嫌な予感がした。背筋がゾワゾワする、あの感覚。俺の愛してやまないスローライフが、音を立てて崩れ去る前触れのような。
遠くの空に、小さな黒い点が見えた。それは一直線に、迷いなく、ここへ向かってきている。まるで、俺という標的を正確に狙う誘導ミサイルのように。
「……まさか、な」
俺は引きつった笑みを浮かべて、フェデの背中に隠れるように身を縮めた。見つかるな、見つかるなよ。俺は石だ。ただの石ころだ。
だが、運命の足音は、もうすぐそこまで来ていた。




