第42話 エリシアの訪問
グレイウッドの朝はムカつくくらい爽やかだった。
空は突き抜けるような青。小鳥はさえずり、パン屋からは焼きたての小麦の匂い。
宿屋『月下葡萄亭』のテラス席で、俺、ルーカス・ヴァレリオは特製シチューを啜りながら、しみじみと平和を噛み締めていた。
「んー……! うっま!」
これだよ。俺が求めていたのは。 一昨日の地獄みたいな西の森の異常?勇者エリシアの危機? 全部、悪い夢だったに違いない。
だって今の俺は、ただのDランク冒険者。世界を救う義務もなければ、魔王と戦う予定もない。あるのは「今日の昼飯どうしようかな」っていう、最高に贅沢な悩みだけだ。
「わふぅ(肉食いたい)」
「ダメだぞフェデ。一昨日の夜、特大ステーキ食っただろ。今日は節約だ」
足元で寝転がっている相棒――最上位霊獣にして、今はただの食いしん坊なゴールデンレトリバー――フェデの頭を、足先でつんつんする。
フェデは「ケチ」と言いたげに鼻を鳴らしたが、すぐに道行く人を眺めて尻尾を振り始めた。
平和だ。完璧だ。 一昨日の現場では顔も隠してたし、声も変えてた。去り際なんて風のように消え去ったからな。誰がどう見ても「通りすがりの謎の実力者」だ。
まさか、この街でだらけてる新人冒険者と同一人物だなんて、誰も思うまい。
(勝ったな。俺のスローライフ、第二章開幕ってことで)
勝利を確信して、二杯目のコーヒーを注文しようと手を挙げた、その時だった。
「きゃああああああっ! 勇者様よぉぉぉっ!!」
「こっち向いてー! エリシア様ーっ!」
通りがいきなり爆発した。 いや、物理的にじゃなくて、音量的に。
鼓膜が破れるかと思うほどの黄色い歓声と野太い怒号が、メインストリートの向こうから津波みたいに押し寄せてくる。
「……は?」
俺の手が空中で固まる。 勇者? エリシア? なんで? 一昨日の今日だぞ? 怪我の治療とか、報告書の作成とかで忙しいんじゃないの?
「おい聞いたか? 勇者様、まだこの街にいたらしいぞ!」
「視察だってよ! 一昨日の事件を解決した『謎の英雄』を探してるって噂だ!」
隣の席の冒険者たちの会話が、鋭利な刃物になって俺の心臓に突き刺さった。
視察? 違う、それは建前だ。 犯人探しだ。 あの生真面目な勇者様のことだ、「名も名乗らずに去るなんて、お礼も言えてない!」とか考えて、血眼になって探してるに決まってる。
(やっべぇ……!)
俺は瞬時に椅子から滑り落ちるようにして、姿勢を低くした。
逃げるか? いや、今このタイミングで動いたら逆に目立つ。「あいつ怪しい!」って指さされる未来しか見えない。
じゃあ隠れるか? テーブルの下? 無理だ、フェデがデカすぎて尻尾がはみ出る。
どうする。どうする俺。 思考をフル回転させている間に、パレードの列は近づいてくる。
人混みの壁が割れ、その中心を歩いてくる人物の姿が見えた。
白金の髪。 朝日を浴びて輝く、純白の軽装鎧。 背中には、彼女の華奢な体には不釣り合いなほど巨大な聖剣。
エリシア・リュミエル・フェルシア。 一昨日の泥だらけの姿とは打って変わって、完璧に整えられた「勇者」の姿だ。でも、その翠の瞳は笑っていない。
鋭く、獲物を探す鷹のように、沿道の人々の顔を一人ひとり確認している。
目が、合いそうだ。 俺はとっさに帽子を目深にかぶり直し、フェデの背中に顔を埋めるようにして気配を消した。
俺は石ころ。俺は雑草。ただの背景A。 前世で培った「会議中に絶対に指名されないためのステルス技術」を、今こそ発動する時だ。
エリシアの列が近づいてくる。 距離、十メートル。五メートル。 よし、いける。彼女の視線は反対側の建物を向いている。このまま何事もなく通り過ぎて――
キィィィィン……
不意に。 耳鳴りみたいな、高く澄んだ音が響いた。 俺の懐の中で。そして、彼女の背中で。 腰に差していた『木の棒(に見せかけた星霊剣アストラ)』が、鞘の中でカタカタと震え出したのだ。
(ばっ、馬鹿野郎! なんで今反応すんだよ!)
俺は心の中で絶叫しながら、必死に剣の柄を押さえ込んだ。
そりゃそうだ、アストラと彼女の聖剣は、どっちも世界樹の枝から作られた兄弟みたいなもんだ。近くにいれば共鳴するなんて、そんなベタな設定、忘れてた俺が悪いけど!
でも空気読めよ! 今は感動の再会シーンじゃないんだよ!
ピタリ、と。 俺の目の前で、エリシアの足が止まった。
「……?」
彼女が振り返る。 その翠の瞳が、俺のいるテラス席の方を――正確には、俺の懐あたりを射抜いた。 心臓がドカンと跳ねる。
バレたか? いや、まだだ。音の出処を探ってるだけだ。まだ俺だと確信したわけじゃない。
エリシアが、人混みをかき分けるようにして歩み寄ってくる。
周囲の喧騒が遠のく。 彼女が近づくにつれて、俺の剣の震えも大きくなる。やめろ、暴れるな。
あと三歩。二歩。 目の前に、白銀の鎧が立つ。いい匂いがするけど、それどころじゃない。圧がすごい。肌がピリピリする。
「……あなた」
鈴を転がしたような、でも芯の通った凛とした声。 エリシアが、俺の顔を覗き込んでくる。逃げ場はない。
ここで視線を逸らせば、「怪しい奴」確定だ。なら、やるしかない。一世一代の、大芝居を。
俺はゆっくりと顔を上げた。 顔面の筋肉を総動員して、最高に間抜けで、平和ボケした「善良な市民」の笑顔を作って。
「あ、どうも勇者様。いやあ、いい天気ですねえ〜」
声が裏返らないように注意しながら、あくまで世間話のトーンで。
へらっと笑いながら、手元のコーヒーカップを持ち上げてみせる。
どうだ。この緊張感のかけらもない挨拶。
一昨日の戦場で、魔素を切り裂いて現れた「謎の男」とは、似ても似つかないだろう?
エリシアが、きょとんとした顔をする。 そりゃそうだ。いきなり天気の話をされて、反応に困らないわけがない。
彼女は俺の顔をまじまじと見つめ、それから足元のフェデに視線を落とし、また俺に戻した。
「……えっと。天気、ですか?」
「ええ、最高っすよ。こんな日は、犬と散歩に限りますねえ。なぁポチ?」
「わふん(ポチじゃねぇ)」
フェデも空気を読んで、情けない声で鳴いてみせる。お腹を出して「撫でて〜」と甘えるポーズは完璧だ。お前、役者になれるぞ。
エリシアの視線が、わずかに揺らぐ。 彼女の中で、「一昨日の圧倒的な気配」と「目の前のへらへらした兄ちゃん」が一致しないのだ。
よし、いける。このまま押し切れ。
だが、彼女の視線は鋭い。 俺の目を見据えたまま、一歩踏み込んでくる。
「その剣……」
「へ? ああ、これですか?」
俺は腰の剣をポンと叩いた。ボロ布でぐるぐる巻きにしてあるから、中身は見えないはずだ。
「じいちゃんの形見なんですよ。錆びついちゃって抜けないんですけど、お守り代わりにね。……あ、もしかして邪魔でした? すいません、すぐに隠しますんで!」
「……いいえ」
エリシアは首を横に振った。 でも、その目はまだ俺を疑っている。
聖剣の共鳴。それに、俺から微かに漏れ出ているかもしれない霊素の匂い。
彼女の野生の勘が、「こいつは何か隠してる」と警鐘を鳴らしているのが分かる。
長い沈黙。俺の背中を、冷や汗が滝のように流れる。
頼む、行ってくれ。これ以上見つめられたら、ボロが出る。
「……そう、ですよね」
やがて、エリシアはふっと力を抜いた。寂しげに微笑み、一礼する。
「驚かせてごめんなさい。……人違い、だったみたいです」
その声には、少しだけ落胆の色が混じっていた。 彼女はもう一度だけ俺とフェデを見て、それから踵を返した。
遠ざかっていく白金の背中。 騎士たちが慌てて彼女を追いかけ、パレードが再び動き出す。
「…………ふぅぅぅぅ」
完全に姿が見えなくなった瞬間、俺はその場に突っ伏した。 テーブルに額を押し付けて、荒い息を吐く。
死ぬかと思った。魔王と戦うより心臓に悪いわ、これ。
「ご、誤魔化せた……よな? 完璧だったよな?」
「わふ(ギリギリだったね)」
フェデが慰めるように俺の手を舐める。
俺は震える手で冷めたコーヒーを飲み干した。
大丈夫。疑われたかもしれないけど、確証は持たれてないはずだ。Dランク冒険者が、あんな化け物じみた聖域の暴走を鎮圧できるなんて、普通は思わない。
――そう、普通なら。
俺は知らなかった。 去り際のエリシアが、人混みに消える直前、もう一度だけ振り返って俺を見ていたことを。
そして、その隣にいた騎士に、小声でこう囁いていたことを。
「……あの方の経歴、調べておいて。特に、ここ数日の行動を」
俺のスローライフを守るための必死の演技は、皮肉にも彼女の「勘」をより強く刺激してしまったらしい。
そして何より。 王都ではそんな生優しいレベルではない、国家規模の包囲網が完成しつつあるとも知らず。 俺は「勝った!」と勘違いしたまま、能天気にフェデの頭を撫で回していたのだった。
――だが、俺は知らなかった。 この一部始終を、カフェのテラス席からじっと観察していた者たちがいたことに。
「……見たか、ネリス君」
「はい。勇者の聖剣が共鳴しました。間違いありません」
分厚い本を広げた老学者ギルベルトと、涼しい顔で紅茶を啜る事務官ネリス。
二人の目は、逃げるように去っていく俺の背中に釘付けだった。
「ふぉっふぉ。とぼけた顔をしておるが、隠しきれておらんのう。……あれだけの器、騎士団がいつまでも野放しにしておくわけがない」
ギルベルトは楽しげに髭を撫で、ネリスは手元の手帳にさらさらと何かを書き込んだ。『対象ルーク。勇者エリシアとの接触において、高度な精神隠蔽を確認』
俺の知らないところで、外堀は完全に埋められていたのだ。
グレイウッドの空はまだ青いが、西からは確かな嵐の気配が、俺の「スローライフ」に向かって牙を剥き始めていた。
王都から放たれた『赤』色の悪魔が、すぐそこまで迫っていることを、この時の俺はまだ知る由もなかったのだ。




