第41話 懐かしい光
その願いが、精霊王の神通力かなにかで通じてくれればよかったのだが。 現実は、そう甘くはなかった。
背中に突き刺さる視線の熱量が、秒ごとに跳ね上がっていくのがわかる。
俺は平静を装って歩いているつもりだった。あくまで「たまたま通りがかった凄腕の庭師が、ちょっと伸びすぎた枝を剪定して帰るところですよ」という空気を、全身から醸し出しているつもりだった。
だが、背後の気配はそれを許してくれそうにない。
静まり返った森の中。 浄化されたばかりの青い燐光が舞う幻想的な空間で、俺の足音だけがカサッ、カサッと響く。
足元のフェデが不安そうに俺を見上げ、「るっきー、早くずらかったほうがよくない? 後ろの視線、熱すぎて焦げそうだよ」と尻尾で合図を送ってくる。
俺も同感だ。今すぐダッシュで逃げたい。 でも、ここで走ったら「やましいことがある不審者」確定だ。
いや、すでに十分不審者なんだけど、そこはなんというか、大人の余裕みたいなもので誤魔化したい。
あと十歩。 あと十歩で、茂みの向こうへ消えられる。
そうすれば、死角を利用して風の精霊術を一気に発動し、物理的に距離を取れる。いける。いけるぞ。スローライフへの帰還ルートは見えた。
俺は勝利を確信し、最後の一歩を踏み出そうとした。
その時だ。
「――待っ、て……!」
空気を切り裂くような、凛とした、けれど悲痛な響きを含んだ声。
俺の足が、意思に反してピクリと止まってしまう。
なんてこった。呼び止められてしまった。 しかも、その声の主は間違いなく勇者エリシアだ。
(……聞こえない。俺は何も聞こえていない。これは風の音だ)
俺は心の中で念仏のように唱え、強引に足を動かそうとした。
幻聴だ。あれは森の精霊のいたずらだ。
決して、国の英雄が、正体不明の不審者に縋るような声を出したわけじゃない。
俺はフードをさらに深く引き下げ、猫背気味にスピードアップする。
「お願い……待って……! あなたは……!」
声が近づく。 這ってでも追いかけてきそうな気迫だ。
まずい。これは非常にまずい。 振り返って「人違いです」と言うべきか? いや、喋ったら声でバレるかもしれない。
じゃあ「私は森の妖精です」設定で押し通すか? 無理があるだろ、成人男性の体格で。
俺が逡巡している間に、さらに背後の気配が強まる。 視線だけじゃない。 何かこう、魂レベルで共鳴しようとしてくるような、強烈な引力を感じる。
彼女の中にある「勇者の霊核」が、俺の中にある「精霊王の核」に反応しているんだ。同じ工房で作られた兄弟機が、互いの存在を感知して呼び合うみたいに。
(……勘弁してくれよ)
これ以上ここにいたら、引力に負けて振り返ってしまう。
俺は覚悟を決めた。 物理的に逃げるしかない。 それも、ただ走るんじゃなく、二度と追いつこうと思わせないくらい圧倒的な速度で、神秘的に、かつ不自然に消える。
それが、彼女のためでもあり、俺のスローライフのためでもある。
(フィオ、頼む。全速力だ)
『御意。……少し、派手に参りますよ』
風の上位精霊フィオの涼やかな声が脳内に響く。
次の瞬間。ヒュウウウッ……! 地下空洞であるはずのこの場所に、あり得ないはずのつむじ風が巻き起こった。
舞い散っていた青い光の粒子が、風に巻き上げられて螺旋を描く。 視界が白く染まるほどの光と風の奔流。
それが俺とフェデの体を優しく、しかし強引に包み込んだ。
「――あ」
背後で、エリシアの息を呑む声がした。 俺の体は重力を失い、風の一部となって空へ溶ける。
転移魔法じゃない。俺自身が「風」になる感覚。 振り返ることはしなかった。
ただ、最後に一瞬だけ感じた彼女の視線が、どこまでも寂しそうで、熱っぽくて、俺の胸の奥をチクリと刺したことだけを覚えていた。
***
勇者エリシア・リュミエルは、伸ばした指先が空を掴む感触に、呆然と立ち尽くしていた。
いない。 つい先ほどまでそこに立っていた、ボロボロのローブを纏った背中。 それが、陽炎のように揺らぎ、光の粒となって霧散してしまった。
魔法の詠唱も、魔方陣の展開もなかった。 ただ、風が彼を愛し、彼を連れ去りたがったかのように、世界そのものが彼を隠してしまった。
「……行っちゃった……」
力が抜け、エリシアはその場に崩れ落ちた。 泥だらけの膝が地面につく。
けれど、不思議と絶望感はなかった。 代わりに胸を満たしていたのは、温かく、懐かしい光の余韻。
彼が去り際に残していった風が、優しく頬を撫でていく。
その風に含まれていた濃密な霊素が、エリシアの枯渇していた霊核に染み渡り、傷ついた身体を内側から癒やしていくのがわかった。
ただの回復魔法ではない。 もっと根源的な、生命そのものを分け与えられたような感覚。
それはまるで、幼い頃に母に抱かれたときのような、あるいは――もっと遥か昔、魂がまだ形になる前の記憶にある、絶対的な安心感。
「エリシア様! ご無事ですか!?」
部下の騎士たちが駆け寄ってくる足音で、エリシアは現実に引き戻された。 カレンが血相を変えてエリシアの肩を支える。
「無茶しすぎよ、あんた……! 死ぬ気!?」
「……カレン……」
「まったく、生きててよかったわよ。……あいつもな」
カレンが複雑そうな顔で、誰もいなくなった空間を見やった。
彼女にも見えていたのだ。あの不可解で、神々しいまでの撤退劇が。
騎士たちがざわめき始める。
「おい、今の見たか?」
「あの暴走根が一撃で……いや、一撃ですらなかったぞ」
「鞘で触れただけに見えたが……」
「まさか、上位精霊の化身か? 人の形をしていたが……」
混乱と畏怖が入り混じる中、エリシアは自分の胸元をぎゅっと握りしめた。
心臓の鼓動が、まだ早い。 恐怖のせいではない。あの背中を見た瞬間に感じた、強烈な既視感のせいだ。
(……あの方は、誰?)
光の大精霊セラフィードが、かつて夢の中で語ってくれた御伽噺。
『勇者は剣。切り拓く者』 『けれど、それを支える根源がおられるの。誰も知らない、けれど誰よりも世界を愛した、優しい王様が』
エリシアの脳裏に、先ほどの少年の背中と、神話に語られる「古代の王」の姿が重なる。
馬鹿げていると笑われるかもしれない。 精霊王なんて、数百年前の伝説上の存在だ。今さら現れるはずがない。
けれど、あの背中から漂っていた悲哀と、世界樹を「治療」したときの手つきの優しさは、ただの人間のものではなかった。
「……探さなきゃ」
小さく、けれど強い決意を込めて呟く。 カレンが怪訝そうに眉を寄せる。
「は? 探すって、あいつをか? 無理よ、あんなデタラメな逃げ方する奴、追えるわけないでしょ」
「いいえ、います」
エリシアは、泥に汚れた顔を上げ、まっすぐに虚空を見つめた。
その翠の瞳には、かつてないほど強い光が宿っていた。
「この世界のどこかに、彼は確かにいる。……私たちが知らなかっただけで、ずっと見守ってくれていたのかもしれない」
もし彼が、世界樹の遣わした守護者なのだとしたら。 あるいは、伝説の王その人なのだとしたら。 勇者として、ではなく。一人の人間として、彼に会いたい。
お礼を言いたい。 そして何より――あのフードの下にある瞳が、どんな色をしているのかを知りたくてたまらなかった。
静まり返った聖域で、青く輝く世界樹の根が、祝福するように静かな光を放ち続けていた。
それはまるで、新たな物語の幕開けを告げる、夜明けの灯火のようだった。
エリシアは胸の奥で誓う。必ず見つけ出すと。たとえ彼が風のように逃げようとも、この光の導きがある限り、いつか必ず追いついてみせると。
***
「……ふぅー、あっぶねぇー……!」
聖域からかなり離れた、森の奥深く。
風魔法による超高速移動(とういうか、風の精霊フィオに無理やり拉致されて運ばれた状態)を解き、俺は木の根元にへたり込んだ。
心臓が早鐘を打っている。 全力疾走したからじゃない。精神的な摩耗だ。
「聞いたかフェデ? 『待って』って言われたぞ。完全にホラー映画のラストみたいな響きだったぞ」
「わふん(モテモテだね)」
「違うわ! あれは『おいコラ不審者、署まで来い』のトーンだ!」
俺はガシガシと頭を掻いた。 やってしまった感がある。
いや、あれしかなかったんだ。あのまま戦わせていたらエリシアは死んでいたし、世界樹の根も腐り落ちていただろう。
結果オーライだ。そう思いたい。 でも、最後に感じたあの視線。
縋るような、熱烈な眼差し。
あれは、「通りすがりの親切な人」に向けるものじゃなかった。もっとこう……生き別れの親とか、崇拝する神様とか、そういう重たいものを見る目だった気がする。
『ルーク殿、見事な撤退でした』
フィオが緑色の小鳥の姿に戻り、枝の上で羽繕いをしている。
『風に乗って姿を消す。まさに伝説にある精霊王の去り際そのものでしたね。エリシア殿も、さぞ神秘的に感じたことでしょう』
「……フィオ、お前わざとやっただろ」
あんなキラキラしたエフェクト付きで消える必要あったか? 余計に印象に残してどうするんだ。
俺はもっとこう、泥臭く走って逃げるつもりだったのに。
『それにしても』
炎の子狐姿に戻ったヴァルが、あくびをしながら出てくる。
『あの娘、なかなかやるじゃねぇか。最後、ルークの気配に気づいてたぜ』
「……やめてくれ。そういうフラグは一番いらないんだ」
俺はため息をつき、フードを脱いだ。 森の空気は澄んでいる。
遠くからはもう、あの不快な魔素の臭いはしない。 ひとまず、仕事は終わった。
世界樹の悲鳴も止まったし、勇者も死なずに済んだ。
俺の正体がバレたかどうかは……まあ、顔は見せてないし、なんとかなるだろう。
俺はただのDランク冒険者。今日はたまたま散歩に来て、たまたま凄いことが起きた現場から、たまたま逃げ出した一般市民A。
ずらかったのはマズかったかもしれないが、カレンさんが上手くごまかしてくれるだろう。
うん、そういうことにしておこう。
「よし、帰るぞフェデ。腹減った」
「わう!(肉!)」
「ああ、今日は特大のを食おう。経費だ経費。……どこに請求すればいいか分からんけど、世界樹にツケとくか」
俺たちは立ち上がる。 足取りは軽い。 これで一件落着だと、本気で信じていた。
グレイウッドに帰って、マルタさんのシチューを食べて、泥のように眠れば、明日はまた平和な一日が始まるはずだ。
まさか、その背中に刻まれた「計測不能」の烙印と、今の「庭師の奇跡」がパズルのピースのように組み合わさり、王都の騎士団本部ですでに『最重要確保対象』として書類が作成され始めていることなど、知る由もなく。
風が、西から東へと吹き抜けていく。 それは来るべき嵐の前触れのように、俺の髪を優しく、けれど強く揺らしていった。




