第39話 影の介入(視点:勇者エリシア)
ああ。 終わるんだ、これ。思考の端っこで、妙に冷めた自分がそう呟いた。
視界いっぱいに広がる、赤黒い肉の壁。 いや、違うな。あれは木の根だ。
でも、もう植物なんて呼べる代物じゃない。 無数の血管みたいな筋がドクドクと脈打って、腐った紫色の涎を垂れ流してる。
巨大な顎。 並んだ牙は、私の背丈よりも大きい。
時間が、引き伸ばされた飴みたいにゆっくり流れる。
私の体は、もう動かない。 指一本、動かせない。 魔力も、体力も、全部使い果たした。 聖剣の輝きも消えかかってる。
後ろには、倒れた部下たち。 守らなきゃいけないのに。 私が「盾」にならなきゃいけないのに。
ごめんなさい。 みんな。 アウストレア様。
私、やっぱり、勇者なんて器じゃなかったみたいです。
恐怖? うん、怖いよ。すごく怖い。 でも、不思議と悔しくはないんだ。
だって、これが私の選んだ道だから。 誰かのために散るなら、それはそれで「勇者らしい」最期なんじゃないかなって。 そうやって、無理やり自分を納得させる。
私は、ぎゅっと目を閉じた。 せめて、痛くないといいな。 一瞬で、終わりますように。
ゴォォォォォォッ!!
風圧。 腐臭。 押しつぶされるような死の気配が、鼻先まで迫る。 ああ、来る。 潰される。
さようなら。
――ガァァァァァァァァンッ!!!
え? 硬質な、音がした。肉が潰れる音じゃない。 もっと硬い、巨大な鉄と鉄がぶつかり合って、火花を散らすような音。 鐘の音にも似てるけど、もっと高い。 世界そのものが鳴ったみたいな。
痛みは……ない。熱くも、ない。
「……え?」
恐る恐る、目を開ける。 そこにあったのは、光だった。 黄金色の、光。
「な、に……これ……?」
私の目の前。 ほんの数センチ先に、薄いガラスみたいな「壁」があった。 いや、壁じゃない。 光の膜だ。 透き通るような、美しい黄金色の結界が、私をすっぽりと包み込んでる。
その向こう側で。 あの巨大な化け物の顎が、結界に阻まれて止まっていた。
ギギギ、と嫌な音を立てて押し込んでこようとしてるけど、光の壁はビクともしない。
ヒビひとつ、入らない。 まるで、小石が大岩にぶつかってるみたいに無力に見える。
嘘でしょ。 あんなの、城壁だって紙くずみたいに砕く威力だったはず。 それを、こんな薄い膜一枚で? 魔法陣もない。詠唱も聞こえなかった。 ただ、そこに「在る」だけで、絶対的な拒絶を示してる。
「わふっ」
足元で、声がした。 視線を下ろす。 いた。 大きな、犬? ううん、違う。ただの犬じゃない。
全身が輝いてる。 蜂蜜を溶かしたような金色の毛並み。 頼りがいのある広い背中。その子が、私の前に立って、化け物を睨みつけていた。
霊獣……? でも、こんな高密度の霊素を纏った霊獣なんて、見たことない。 まるで、光そのものが形を持ったみたい。
その犬が、ちらりと私を振り返った。 琥珀色の瞳。 すごく優しくて、どこか人間みたいな目。 『大丈夫だよ』って、言われた気がした。
その、直後だ。
『――邪魔です』
凛とした、冷たい声が聞こえた気がした。 耳じゃない。 脳に直接、風が吹き込んだみたいに。
ヒュンッ。
音が消えた。 次の瞬間、結界の外で暴れていた化け物の触手が、千切れた。一本じゃない。 十本、二十本。
視界を埋め尽くしていた無数の根が、まるで最初からそうであったみたいに、バラバラの肉片になって宙を舞う。
え? な、何が起きたの? 斬撃? 見えなかった。 剣閃も、魔法の光も、何も見えなかった。 ただ、「風が吹いた」だけ。
それだけで、鋼鉄より硬いはずの暴走根が、豆腐みたいに細切れにされたんだ。
凄まじい。 これが、風魔法? 違う。次元が違う。 これは魔法なんていう技術じゃない。
「切断」っていう結果だけを押し付ける、自然の理そのものだ。
「あ……」
呆然とする私の体が、ふわりと浮いた。 今度は、水だ。 どこからともなく現れた、透明な水の帯。 それが私の腰に、優しく巻き付いた。
『下がっていてください。汚れますから』
また、声。 今度は、おっとりとした女性の声が頭に響く。
水の帯は、まるで生きているみたいに私の体を持ち上げると、戦場の真っ只中から後方へと運んでいく。
乱暴さなんて欠片もない。 ゆりかごに揺られているみたいに、優しくて、丁寧で。戦場なのに。 死ぬか生きるかの瀬戸際なのに。 どうしてこんなに、穏やかなの?
ストン。 私は、安全な場所まで運ばれて、そっと草の上に下ろされた。 泥だらけだった視界が、クリアになる。 ようやく、全体が見えた。
私の、代わりに。 あの化け物の前に、立っている背中を。
誰? フードを目深にかぶった、小柄な人影。
冒険者のローブ? ボロボロだし、高級品には見えない手には剣すら持っていない。 ただの、木の棒……いや、あれは剣の鞘?
どう見ても、弱そうだ。 この辺のゴブリンにだって負けそうな見た目だ。
でも。その背中から立ち昇る気配に、私は息を呑んだ。
大きい。 物理的な大きさじゃない。 存在の、質量が。 私なんかより、ずっと、ずっと大きい。
彼がそこに立っているだけで、空気が変わってる。 さっきまで肌を刺していた魔素の瘴気が、彼の周りだけ弾かれて、近づくことすら許されていない。
世界樹の悲鳴が、彼を中心に渦を巻いて、静まっていくような感覚。 風が彼になびき、大地の魔素が彼を避けて通る。
精霊たちが、彼を守ってる? ううん、違う。 逆だ。 彼が、従えてるんだ。 風も、水も、あの黄金の獣も。 全部、彼の手足となって動いてる。
ドクン、と私の心臓が跳ねた。怖い。正直、あの化け物よりも、この背中のほうがずっと底知れなくて、怖い。 なのに。 どうしてだろう。
懐かしい。
涙が出そうなくらい、懐かしい光を感じる。 まるで、ずっと昔に失くしてしまった大事なものを、ふいに見つけた時みたいな。
あるいは、迷子になって泣いていた時に、迎えに来てくれた親の手を握った時みたいな。 絶対的な安心感。
私の内側にいる光の大精霊セラフィード様が、騒いでる。 いつもはおっとりしている彼女が、魂の奥で震えてるのがわかる。
『恐怖』じゃない。 これは……『歓喜』? それとも、『敬愛』?
私が契約した光の大精霊セラフィード様。 あの方が見せてくれた、遠い神話の記憶。
世界の全てを守っていたという、太古の王様の夢。 その光と、同じ色がする。
「あなたは……だれ……?」
震える唇から、声が漏れた。 届いたのか、届いていないのか。 その人は、振り返らなかった。ただ、面倒くさそうに肩をすくめて。 フードを深くかぶり直しただけ。
その仕草が、妙に人間臭くて。 神様みたいに見えたのに、急に近所の兄ちゃんみたいに見えて。 わけがわからなくて、涙が出そうになった。
ただ、ゆらりと。 無造作に、一歩を踏み出しただけ。 武器も構えず。 殺気も放たず。まるで、伸び放題になった庭の草むしりに行く庭師みたいに。 軽い足取りで、絶望の方へ歩いていく。
「……鎮まれ」
短く、彼が呟いた。その言葉が、戦場の空気を凍らせた。 魔法の詠唱じゃない。気合の声でもない。
命令。 それは、世界そのものに対する、絶対的な王の勅命だった。




