第36話 暴走する根
匂い。まず鼻をついたのは、それだった。
生ゴミを真夏の太陽の下で一週間放置して、そこにドブの底の泥を煮詰めてぶっかけたような、あるいは胃の腑を直接雑巾で絞り上げられるような。
暴力的な悪臭。思わず鼻を押さえたくなる衝動を、俺はぐっと堪えた。隣を歩くフェデも、鼻先にしわを寄せて「くぅ……」と小さく唸っている。
ごめんな、フェデ。お前の鼻じゃ、今のこれは拷問以外の何物でもないよな。
森の木々は、進むにつれて色を失っていた。
緑が消え、灰色へ。そして、その奥にあるドス黒い闇へ。
地面もぬかるんでいる。雨なんて降っていないのに、踏みしめるたびに「グチャッ、ジュルッ」と、何かの内臓の上を歩いているみたいな音がする。
これ、土じゃない。腐った霊素の残骸だ。
「……総員、抜刀。警戒を厳にせよ」
先頭を行くエリシアの声が、冷たく響く。その声には微塵の震えもない。さすが勇者様だ。
俺たちの周りにいる騎士や冒険者たちは、もう顔色が真っ青を通り越して土気色になってるってのに。カレンさんでさえ、剣の柄を握る指が白くなるほど力が入りっぱなしだ。
俺? 俺はもう、最後尾で気配を消すことに全力を注いでますよ。
ええ。だって、怖いし。いや、魔物が怖いんじゃない。
この奥にある「気配」が、俺の中の精霊王の記憶をガンガン刺激してくるのが怖いんだ。頭が痛い。奥歯が浮くような、神経を直接爪で弾かれるような感覚。
『……我が王。ここから先は、風さえも止まっています』
肩に乗っている(不可視状態の)フィオが、耳元で囁く。
『空間そのものが、歪められています。まるで、世界樹様の悲鳴が凝り固まってしまったかのような……』
「ああ。わかってる」
小声で答える。わかってるさ。だって、俺の腰にあるアストラの鞘が、カイロみたいに熱くなってるんだから。こいつが反応してるってことは、そういうことだ。
世界の根っこが、ここで壊れてる。
ズズズ……ン……。
地響き。いや、脈動だ。
巨大な心臓が、不整脈を起こしながら暴れているような振動が、足の裏から伝わってくる。
「……着きました」
エリシアが足を止めた。そこは、かつては清らかな「聖域の広場」だった場所だ。
世界樹の太い根が、地面からアーチのように顔を出し、美しい木漏れ日を作っていたはずの場所。
だけど、今は。
「……うぷっ」
誰かが、耐えきれずに嘔吐した。無理もない。
そこにあったのは、地獄の釜の底をひっくり返したような惨状だったからだ。
根、じゃない。あれはもう、植物なんかじゃない。太さが大人の背丈の倍はある巨大な根が、黒く変色し、まるで血管みたいにどす黒い脈を打っていた。
表面は濡れたような光沢を帯びていて、所々に膿のような紫色のコブができている。しかも、動いている。
大蛇だ。何十、何百という黒い大蛇が、のたうち回り、互いに絡み合い、そして――喰らっていた。
「ぎ、ぎゃああああああ!」
「助け、ひっ、ごぼッ……!」
根の隙間から、何かが吐き出される音がした。
見れば、魔獣だ。狼型の魔獣や、巨大なイノシシのような魔獣が、根に絡め取られている。
普通なら人間を襲うはずの魔物たちが、今は獲物として悲鳴を上げている。
黒い根がズルリと蠢き、魔獣の体に食い込む。吸われているんだ。魔素を。生命力を。
魔獣の体がみるみる干からびていき、逆に根のコブがドクン! と大きく膨れ上がる。
そして次の瞬間、根の表面が裂け、そこから「魔獣の顔をしたコブ」が新たに生まれた。
「……融合、してるのか?」
俺は思わず呟いた。ただの捕食じゃない。取り込んで、自分の兵隊として作り替えている。植物の再生力と、魔獣の凶暴性を掛け合わせたキメラ。最悪だ。自然の摂理が、完全に狂ってやがる。
「……先遣隊の姿が、ありません」
誰かが震える声で言った。
そう、あんなに激しい戦闘があったはずなのに、死体がない。転がっているのは、ひしゃげた剣や、食いちぎられた鎧の破片だけ。つまり、人間も……魔獣と同じように……。
「ひっ、うわ、うわあああああ!」
「無理だ! こんなの勝てるわけねぇ!」
「逃げろ! 食われるぞ!」
パニックが伝染した。
冒険者たちが後ずさる。騎士たちでさえ、隊列を維持できずに足がもつれている。
当然だ。目の前にあるのは「敵」じゃない。「災害」だ。意思を持って襲ってくる津波みたいなもんだ。
逃げたい。俺だって逃げたい。今すぐフェデの背中に飛び乗って、全力で逆方向へダッシュしたい。
だが、たった一人だけ。前に進む奴がいた。
「――下がりなさい!!」
凛とした声が、絶望的な空気を切り裂いた。
エリシアだ。
彼女は、恐怖で腰を抜かしかけている冒険者たちを背に庇うようにして、一歩前へ踏み出した。
白銀の髪が、瘴気の風になびく。その背中が、やけに小さく、それでいて巨大に見えた。
「これは世界樹の痛みです。……私が、断ち切ります」
シャラ……ッ。
静かな音と共に、彼女が背中の聖剣を抜いた。
瞬間、世界が変わった。どす黒く濁っていた視界が、一気に白く染まる。
まばゆい光。
彼女の体から溢れ出した霊素が、金色の粒子となって舞い上がり、周囲の瘴気をジジジッと焼き払っていく。
『……ほう』
俺の懐で、ヴァルが感心したような声を漏らした。
『人間にしてはやるじゃねぇか。ありゃあ「光」の純度が桁違いだぜ。……ただ、ちっとばかし無茶な燃やし方だがな』
ああ、俺もそう思うよ。俺の目(精霊視)には、ハッキリと見えていた。
彼女の霊核が、悲鳴を上げながら回転しているのが。あれは、自分の命を燃料にして燃やしてる輝きだ。
痛々しいほどに、純粋で、危うい。
「総員、後方支援を! 決して近づかないでください!」
エリシアが叫ぶ。そして、地面を蹴った。速い。風の加護か、それとも光の身体強化か。まるで流星だ。彼女の姿が光の筋となって、地獄のような根の群れへと突っ込んでいく。
ギュアアアアアアアアッ!
暴走した根が反応した。数百の触手が、槍のように一斉に彼女へ殺到する。四方八方、逃げ場なしの飽和攻撃。普通ならミンチだ。でも、彼女は止まらない。
「――光刃!」
閃光。横薙ぎの一閃が、空間ごと切り裂いた。
ズバアアアアアッ!
迫りくる黒い根が、触れた端から消し飛んでいく。斬れたんじゃない。浄化されたんだ。
光の刃に触れた箇所が、黒い泥からさらさらとした光の砂に変わって崩れ落ちる。
すげぇ。単純な火力なら、俺がこっそり撃つ魔法と同レベルか、それ以上かもしれない。
彼女はそのまま空中で回転し、遠心力を乗せた二撃目、三撃目を叩き込む。舞うような剣技。美しい。
汚泥と腐臭の戦場にあって、彼女だけが別世界の存在みたいに綺麗だった。
「おおおおおッ!」
「すげぇ……! 勇者様だ!」
「いけるぞ! 押し返してる!」
後ろで見ていた冒険者たちが、歓声を上げる。
さっきまでの絶望が嘘みたいに、希望の光が彼らの目に宿っていく。
黒い森が、彼女の通った場所だけ黄金色に塗り替えられていく光景は、確かに圧巻だった。
暴走根がいくら再生しようとしても、エリシアの剣速がそれを上回る。圧倒的だ。これなら勝てる。誰もがそう確信しただろう。
だけど。俺だけは、冷や汗が止まらなかった。
(……おいおい、飛ばしすぎだろ)
俺は眉をひそめた。あんな全開出力、人間が長く続けられるわけがない。 霊素の残量が、目に見える勢いで減っている。まるで、短距離走のペースでマラソンを走ろうとしているみたいだ。
焦ってるのか?それとも、早く終わらせないと仲間が危険だと判断したのか。責任感が強すぎるんだよ、あんたは。
ズンッ!
エリシアが、一際太い中央の根に向かって、上空から急降下した。
必殺の一撃。聖剣がまばゆい光を纏い、巨大な閃光の柱となって突き刺さる。
「浄化せよ――《セイクリッド・ブレイク》!!」
ドゴォォォォォン!!
光の爆発が起き、衝撃波が俺たちのところまで届いて髪を揺らした。中央の根が断末魔のような音を立てて砕け散り、黒い霧となって霧散していく。
やったか?
砂煙が晴れると、そこには肩で息をするエリシアの姿があった。 周囲の根は沈黙し、黒い脈動も止まっているように見える。
「……はぁ、はぁ……」
彼女が聖剣をだらりと下げ、振り返った。勝利の笑顔を見せるかと思った。でも、違った。その顔は蒼白で、足元がふらついている。
「……ま、だ……」
彼女が小さく呟いた、その時だった。
ゴゴゴゴゴゴ……。
地鳴り。いや、もっと深い、地底の底からの唸り声。
沈黙したはずの根の残骸が、ボコボコと泡立ち始めた。砕かれた黒い霧が、風に流れるどころか、逆に一点に集束していく。
再生? 違う。増殖だ。
……あ、これ。見てるだけじゃ、終わらないやつだ。




