第35話 聖域への行軍
空気、まっず。 ペッ、と唾を吐く。泥水? いや違うな。腐った雑巾の絞り汁を煮詰めて、そこへドブをぶちまけたみたいな味だ。息吸うだけで肺が腐りそう。
西門を出て、もう何時間歩いたかわからない。空はずーっとドス黒い紫だし、周りの木々は病気みたいに真っ黒だし。たまに吹く風が「ざわざわ……」って、おい、誰か耳元で囁いてんのか? 気味悪いったらありゃしない。
「――キィィィン!」
頭上から、鋭い鳴き声が降ってくる。見上げれば、腐った空を切り裂く白い影。勇者エリシアの相棒、上位霊獣ゼファ・アルジェリオンの『イル』だ。
あのでっかい翼をバサッ!と振るたびに、上空の瘴気が物理的に吹き飛ばされていく。天然の超強力な換気扇のようだ。キラキラした光の粒子が雪みたいに舞って、そこだけ景色が綺麗なんだよな。
「第3班、右翼!イルの風下に入って視界確保!」
「第4班、障壁維持!濃度上がります!」
前の方から、よく通る声。 勇者エリシアだ。 隊列のいっちばん先頭。死ぬ確率が一番高い特等席で、背中の聖剣をビカビカ光らせて指示を飛ばしてる。 空には最強の盾、地上には最強の剣。 あの二人の周りだけ、エアコン効いてるみたいに空気が澄んでやがる。
「すげぇ……」
「やっぱ勇者様と天空の霊獣は違うわ」
「あの光、見てるだけで力が湧いてくるぜ」
周りの冒険者連中は、完全に信者モードだ。うっとりしちゃってる。緊張感はある。でも、悲壮感はない。
「伝説のコンビがいるから大丈夫」
そんな根拠のない安心感が、麻酔みたいに蔓延してる。
……幸せな脳みそで羨ましいこった。何も見えてないってのは、ある意味救いだよな。
(……飛ばしすぎだろ)
俺は息を吐き出しながら、心の中で毒づく。眩しいんだよ、あの光。 エリシア自身の霊核から溢れ出したエネルギーで、無理やり周囲の毒を濾過しながら進んでるわけだ。
上空のイルもそうだ。主人のペースに合わせて旋回してるけど、時々心配そうに高度を下げて、エリシアの頭上スレスレを飛んでる。「おいおい、ちょっと速くねえか?」って言いたげに。
『……焦ってますね』
懐で、フィオが小さく呟く。やっぱ、そう見えるよな。
『民を守りたい御心は立派です。ですが……あれじゃ、肝心な時に二人ともガス欠になりますよ』
「……だよねぇ」
小声で返す。歩くペースが、さっきから微妙に速くなってんだよ。イルとの連携も完璧に見えるけど、どっちかっていうとイルが必死にエリシアの暴走気味な速度に合わせてる感じだ。相棒すら置き去りにしそうな勢い。責任感に背中を蹴っ飛ばされてる状態だ。
わかるけどさ。指揮官が前のめりになったら、部隊ごと転ぶぞ?
足元を見ると、フェデが空を見上げて「ふん」と鼻を鳴らした。なんかこう、「若いの(イル)も苦労しとるな」みたいな、隠居した師匠みたいな目をしてる。お前、立場隠す気ある?
「おいルーク。何ブツブツ言ってんの」
ゲッ。カレンさんだ。赤毛の女剣士様は、さっきの死にそうな顔が嘘みたいにピンピンしてる。剣の柄に手をかけて、臨戦態勢バッチリってか。この人も大概タフだわ。
「いやー……勇者様とあの鳥、マジでパねぇなって」
「鳥じゃないわよ、上位霊獣イルナヴェル様。……まあ、凄すぎて現実感ないけどね」
カレンさんはフンと鼻を鳴らす。なんでアンタが誇らしげなんだよ。
「この瘴気よ?普通なら息もできないわ。それをあんな風に切り開いてくれるなんて……まさに奇跡」
「奇跡、ねぇ……」
「なによ。文句あるわけ?」
「滅相もございません。たださ、ちょっと休憩とかしなくていいのかなーって」
俺が親指で後ろを指す。最後尾の荷物持ち部隊とか、ひ弱な魔法使い連中。すでに顔色が青い。肩で息をしてる。勇者コンビの進軍速度が速すぎて、端っこの連中が浄化結界からハミ出しそうになってるんだよ。ハミ出したら即アウトだぞ、ここ。
カレンさんが眉をひそめる。
「……確かに、速いわね。あの大鷲も、なんか気が立ってるみたいだし」
「前方、障害物! 暴走根です!」
前衛の騎士が叫んだ。見れば、地面から突き出した太い木の根っこ。まるで生きた大蛇みたいに道を塞いでる。普通の冒険なら、迂回するか、斧で地道に切り開くところだ。
だけど
「イル! 動きを止めて!」
エリシアの声に応えて、上空のイルが急降下した。翼を一振り。カマイタチみたいな風の刃が飛んで、暴れる根っこを地面に縫い付ける。完璧な拘束。あとは、そこを避けて通ればいいだけ――のはずなんだけど。
「止まらないで!私が開きます! ――光刃!」
ドォォン!!
激しい音。白い光が炸裂する。イルがせっかく押さえ込んでいた太い根っこが、一瞬で消し飛んだ。
切断?いや違う。光の熱量で、塵も残さず消滅させやがった。近くを飛んでたイルが、爆風で煽られてちょっとバランス崩してるじゃねえか。
「おおおおっ!」
「一撃かよ!」
「進め進めぇ! 道が開いたぞ!」
わぁっと歓声を上げて駆け抜けていく冒険者たち。
……は? 俺は口をポカンと開けたまま、固まった。いやいやいや。強すぎだろ。加減ってものを知らないのか?あれ、ただの障害物除去に使う技じゃないですよ?ボス戦で使う「必殺技」ですよ?
『……馬鹿だねぇ』
今度は、炎のヴァルが呆れたように言った。
『あんな雑草刈りに、いちいちミサイルぶっ放してどうすんだよ。相棒の鳥も「やりすぎだろ」って顔してんじゃねえか』
(……だよなぁ)
『どうすんだ、主様。このままだと、親玉が出てくる前にオーバーヒートだぞ』
(どうするって言われてもなぁ……)
俺は頭をかいた。注意する?「勇者様、ペース配分考えたほうがいいっすよ」って?言えるわけない。俺はDランクの荷物持ちだぞ。そんなこと言ったら「何様だ貴様」って騎士団のおっかない人たちに摘み出されるのがオチだ。
「……はぁ、はぁ、はぁ」
風に乗って、彼女の息遣いが聞こえてきた。フィオが伝えてくれる音だ。エリシアの肩が、微かに揺れてる。剣を握る手が、白くなるほど力を込めてる。
余裕がないんだ。「一秒でも早く」って焦りが、彼女の視野を狭くしてる。
「……ルーク」
不意に、カレンさんが声を潜めて言った。
「あんたも、気づいてるんでしょ?」
「え?」
「勇者様たち……ちょっと、変よ。強すぎるっていうか、必死すぎる」
さすがAランク。伊達に修羅場くぐってないな。
「……まあ、張り切りすぎかなとは思いますけど」
「あたしたちが頼りないからかしらね」
カレンさんが自嘲気味に笑う。
「守られるだけってのは、キツイわ。……これじゃ、あたしたちはただの足手まといよ」
足手まとい。その言葉が、妙に重く響いた。エリシアは、きっとそうは思ってない。「私が守らなきゃ」って、純粋に思ってるだけだ。
でも、その純粋さが、結果として周りを萎縮させて、自分を孤独にしていく。悪循環だ。典型的なワンマンチームの崩壊パターン。ブラック企業でよく見たやつだ。
その時。上空のイルが、短く鋭く鳴いた。「警告」の鳴き声だ。エリシアが足を止める。
森が開けた。そこは、ちょっとした広場になっていた。巨大な世界樹の根が、アーチ状に盛り上がって、ドームみたいな空間を作ってる場所。
そこに。転がっていた。折れた剣。砕けた盾。引き裂かれた鎧の破片。そして――赤黒いシミが、点々と。
「……先遣隊の、装備品だ」
誰かが呻くように言った。人の姿はない。死体すらない。ただ、激しい戦闘があった痕跡だけが、無残に残されている。
イルが広場の上空を低空飛行しながら、悲しげに鳴いているのが聞こえた。風の霊獣にはわかるんだろう。ここに残った「死の匂い」が。
「遅かったか……」
部隊の間に、動揺が走る。最悪の想像が頭をよぎる。全滅。捕食。あるいは……。
エリシアが、膝をついた。落ちていたボロボロの紋章旗を拾い上げる。セカイジュ騎士団の旗だ。泥と血で汚れている。
「……っ」
彼女の肩が震えた。やっぱり、間に合わなかった。そういう空気が流れた。でも。 俺の目は、違うものを見ていた。
広場の奥。根の隙間に開いた、真っ暗な穴。そこから、微かに。本当に微かにだけど。「生きてる」気配がする。
『ルークさま』
ラグの声だ。水の精霊の、冷静な響き。
『……奥に、反応があります。微弱ですが、まだ命の灯火は消えていません』
『ああ。……でも、これ』
俺は目を細める。生き残ってるんじゃない。「生かされてる」んだ。餌として。あるいは、誘き寄せるための生きたルアーとして。悪趣味な罠の匂いがプンプンする。
「……生存反応あり!」
エリシアが叫んだ。彼女も気づいたらしい。聖剣の探知機能か。
「奥の空洞です! まだ息があります! 救助に向かいます!」
彼女が立ち上がる。その顔には、絶望から一転して希望の光が差していた。 まずい。その希望が、一番の罠だっていうのに。空からイルが舞い降りてくる。主と共に突入する気だ。 だが、エリシアは穴の狭さを見て、首を横に振った。
「いえ……イル、あなたは上空で待機を! 敵の増援を警戒してください!」
「キィッ!?」
イルが「正気か!?」とばかりに鳴く。狭い洞窟じゃ、あの巨体は邪魔になるかもしれない。それは正しい判断だ。正しいけど――ここで相棒を引き剥がして、一人で突っ込む気か?
「総員、突入! 一気に行きます!」
エリシアが走り出す。イルは悲しげに一度鳴いて、主人の命令に従って渋々高度を上げた。律儀すぎるだろ。待て、確認しろ。罠かもしれねぇぞ、って言う暇もなかった。騎士たちが、冒険者たちが、彼女に続いて雪崩れ込んでいく。
「ちょ、まっ……」
俺が止める間もなく、部隊全体がその暗い穴の中へと吸い込まれていく。
カレンさんも、「行くわよルーク!」って俺の腕を掴んで引っ張るし。握力強えよ!
「……ああもう、これだから熱血主人公タイプは!」
俺は悪態をつきながら、フェデと一緒に走った。穴の奥から、ねっとりとした冷たい風が吹き上げてくる。
腐った土の匂い。そして、もっとヤバい匂い。 ――濃密な、魔素の匂い。
スローライフ? ああ、そんな言葉、もう辞書から消えたよ。ログアウトしました。俺は覚悟を決めて、懐のアストラの感触を確かめた。
最強の相棒を空に置いてきちまった勇者様。その背中が、やけに小さく見えた。これは、ただの救助任務じゃ終わらない。
もっとタチの悪い何かが、あの中で口を開けて待ってる。そんな予感が、脳内でガンガンと警鐘を鳴らしていた。




