第32話 西方からの報告
平和ってのは、なんだか水に似てる気がする。
たっぷんたっぷんに満たされてるときは、そのありがたみなんて綺麗さっぱり忘れちまうくせに、一滴でも欠けた途端、喉が焼けるみたいに欲しくなるんだから。現金なもんだよな。
今のグレイウッドは、まさにその「水」で溺れそうなくらい平和だ。
フェデが先日やらかした「高級肉うめぇぇぇ!」の遠吠え事件――あれのおかげで、街の結界が要塞みたいに強化されちまった。魔物は寄りつかないし、住民の持病は治るし、野菜は育つし。
まさに地上の楽園。俺が求めてたスローライフの完成形がここにある……はずなんだけど。
「……わふ」
宿の窓辺で、フェデが小さく鳴いた。いつもなら俺の足元で腹を出して寝てる時間だ。なのに今日は、琥珀色の瞳を細めて、じっと西の空を睨んでる。その背中が、妙に張り詰めて見えた。
「どうした、フェデ。腹減ったか?」
努めて明るく声をかけてみる。フェデが振り返る。その目が、不安げに揺れてる。
……おいおい、よせよ。最強の霊獣様がそんな顔すんなって。
俺の胸の奥で、ちり、と嫌な予感が火花を散らした。なんとなくだけど、わかっちまうんだ。この「平和」ってやつが、薄氷の上に積み上げられたジェンガみたいに危ういってことが。
「……行くか」
俺は上着を羽織って、部屋を出た。フェデが黙ってついてくる。外の空気は美味い。美味いけど、どこか鉄錆みたいな匂いが混じってる気がした。
***
ギルドの重い扉を押し開ける。ギィィ、と蝶番が軋む音が、やけに大きく響いた。 いつもなら、ここでムワッとした熱気と、荒くれ者たちの馬鹿笑いが降ってくるはずなんだけど。
「……?」
静かだ。いや、人はいる。むしろいつもより多いくらいだ。なのに、音が低い。みんな、声を潜めてひそひそ話してる。お通夜みたいに湿気た空気だ。
「あ、ルークさん……」
受付のミリアちゃんが、俺を見つけて小さく手を振った。でも、その笑顔が引きつってる。
「おはよう、ミリアちゃん。……なんか、雰囲気暗くない? 誰か死んだ?」
「いえ、そうじゃなくて……。カレンさんが、戻られたんです」
「カレンさんが?」
あの「紅蓮の剣姫」こと、Aランク冒険者のカレン・ブラッドレイか。西の方へ遠征に行ってるって聞いてたけど、もう帰ってきたのか。予定よりだいぶ早いな。
「あの……様子が、変なんです。あそこの席で、ずっとあんな感じで……」
ミリアちゃんが視線で示した先。酒場の隅っこ、一番照明が当たらない暗い席。
いた。
鮮やかな赤茶色の髪。でも、いつものような覇気がない。
テーブルに突っ伏すようにして、ジョッキを両手で包み込んでる。鎧は泥だらけだし、マントなんて端っこが焦げてる。まるで、戦場から命からがら逃げ帰ってきた敗残兵みたいだ。
「……行ってみるか」
俺はフェデを連れて、彼女の席へ近づいた。フェデも空気を読んだのか、静かに足音を消して歩く。
近づくと、わかった。震えてる。あのカレンさんが。Aランクの猛者が。小刻みに、カタカタと。
「……カレンさん?」
声をかける。
ビクッ!と彼女の肩が跳ねた。
ガバッと顔を上げる。目が合った。充血してる。目の下に濃いクマ。まるで、三日三晩、悪夢を見続けてきたみたいな顔だ。
「……なんだ、あんたか」
声がガラガラだ。
「水……もらえる?」
「あ、はい」
俺は近くの給仕さんに水を頼んで、向かいの席に座った。フェデが心配そうに「くぅ〜ん」と鳴いて、カレンさんの膝に顎を乗せる。その温かさに触れて、ようやく彼女の強張った表情が少しだけ緩んだ。
「……ひどい顔してるでしょ、あたし」
「まあ、正直。……何があったんですか? 西って、ガルドリアの国境あたりですよね?」
カレンさんは運ばれてきた水を一気に飲み干すと、乱暴に口元を拭って、深いため息をついた。
「……行ってきたわよ。国境の森」
彼女の声が、低くなる。
「魔獣の調査依頼だったんだけどね。……そんなレベルじゃなかった」
「強かったんですか?」
「違う」
カレンさんは首を振る。小刻みな震えが、まだ止まらない。
「……いなかったのよ」
「え?」
「魔物が、一匹もいないの。……鳥も、獣も、虫さえも。あの森、死んでたわ」
静寂
魔物がいない森。それは平和ってことじゃなくて、もっと異常な事態だ。生物が本能で忌避する何かが、そこにあるってことだから。
「それだけじゃないわ」
カレンさんが、俺の目をじっと見つめてくる。その瞳の奥に、恐怖の色がこびりついてる。
「空の色がね……おかしかったの」
「空の色?」
「ええ。夕焼けでもないのに、ずっと赤紫なのよ。……ううん、違うな。あれは『腐った葡萄』みたいな色だわ。ドス黒くて、重たくて……見てるだけで、胃の中身を吐き出したくなるような色」
腐った空。想像しただけで寒気がする。
「騎士団も動いてたわ。セカイジュ騎士団の本隊よ。……あいつら、国境を完全に封鎖してた」
「封鎖?」
「ええ。『ここから先は地獄だ』って顔をしてね。……あたしたち冒険者を見つけるなり、怒鳴りつけて追い返したわ。『一般人は下がれ!』って。……あいつらの手、震えてたのよ。重装備の騎士たちが、剣を握る手をガタガタ震わせてた」
騎士団の本隊が、震えてる? 精鋭集団が?
「ルーク。あんた、カンがいいでしょ? ……これ、ただの魔素異常の前兆だと思う?」
カレンさんが俺の手首を掴んだ。冷たい手。縋るような力強さ。
「あたしね、怖いのよ。……あれは、戦争とか災害とか、そういう言葉で片付けちゃいけない気がする。もっと……世界の根っこが腐り落ちるような……」
ドクン
俺の心臓が、嫌な音を立てた。世界の根っこ。その言葉が、俺の中にある《精霊王核》を共鳴させる。
『……我が王』
不意に、脳内に涼やかな声が響いた。フィオだ。風の精霊。いつもなら俺の周りを気ままに漂ってる彼が、今日は俺の肩にピタリと止まってる気配がする。
姿は見えないけど、わかる。 彼もまた、震えてるんだ。
『聞いてあげてください』
「……フィオ?」
俺は心の中で問いかける。
『カレン殿の言っていることは、事実です。……いえ、彼女の目に見えている以上のことが、起きています』
フィオの声が、悲痛な響きを帯びる。
『風が……泣いております』
(泣いてる?)
『はい。西から吹く風に乗って、悲鳴が聞こえるのです。……耳を澄ませてください、ルーク殿。あなたになら、聞こえるはずです』
俺は目を閉じた。ギルドの喧騒を遮断して。カレンさんの荒い呼吸音も遠ざけて。ただ、感覚だけを研ぎ澄ます。
精霊王の器としての、聴覚を。
――痛い。 ――熱い。 ――助けて。
「ッ……!?」
俺はガバッと目を開けた。聞こえた。声じゃない。もっと直接的な、魂を削るような軋み。巨大な何かが、ミシミシと音を立てて裂けていくような感覚。
「……悲鳴」
俺の口から、勝手に言葉が漏れた。
「え?」
カレンさんが怪訝な顔をする。でも、俺は止まらなかった。フィオの言葉が、俺の理解を追い越していく。
『そうです。……あれは魔王軍の雄叫びではありません』
フィオが告げる。
『世界樹様ご自身が……痛みで叫んでおられるのです』
世界樹の、悲鳴。カレンさんが見た「腐った空」
騎士たちが怯えていた理由。全部繋がった。魔物が攻めてくるとか、そういうレベルの話じゃない。
この世界を支えてる「柱」そのものが、西の方から腐り始めてるんだ。
人間で言えば、自分の心臓が腐っていく感覚。そりゃあ、叫びたくもなるだろう。その悲鳴が、霊素の乱れとなって大気を揺らし、空を変色させ、本能で生きる魔物たちをパニックに陥らせている。
「……ルーク?顔色が悪いわよ」
カレンさんの声で、我に返る。
「あ、いえ……。ちょっと、想像したら怖くなって」
「……でしょ? あたしだって、逃げ帰ってきたんだから」
カレンさんは自嘲気味に笑って、手を離した。
「ねぇ、ルーク。……逃げなさい」
「え?」
「ここは近すぎる。ソルミリアの国境なんて、あの『腐った空気』が押し寄せてきたら、ひとたまりもないわ。……東へ。もっと東へ逃げたほうがいい」
彼女の目は本気だった。自分のことより、俺のことを心配してくれてる。この人は、根っこが優しいんだよな。
逃げる。それは、俺が一番望んでる選択肢だ。面倒ごとはごめんだ。英雄になんてなりたくない。 荷物をまとめて、フェデと一緒に東の港町へ行って、のんびり釣りでもして暮らす。
最高じゃないか。
なのに。俺の足は、なぜか動こうとしなかった。
足元を見る。フェデが、起き上がっていた。いつもの愛嬌たっぷりの顔じゃない。琥珀色の瞳を細めて、じっと西の方角――壁の向こうを睨みつけている。
その瞳の奥に、星みたいな光が明滅してる。……怒ってるのか?いや、悲しんでるんだ。自分の親(世界樹)が、苦しんでるのを。
「わふぅ……」
フェデが小さく鳴いて、俺の足に頭を押し付けてきた。 『どうするの?』って聞いてるみたいに。
『ルーク』
今度は、ヴァルの声だ。いつになく真面目な声だ。
『……聞こえてんだろ? あのデカい樹が、助けてくれって泣いてんのが』
(……うるさいな。空耳だよ)
『嘘つけ。お前の魂が共鳴してんのが、俺たちには丸わかりなんだよ』
ちくしょう。
精霊ってやつは、本当に嘘が通じない。俺は頭をかいた。逃げたい。逃げたいけど。このまま逃げたら、あのご飯が美味しい宿屋のおばちゃんも、ミリアちゃんも、この街の人たちも、みんなあの「腐った空」に飲み込まれちまうのか?
……それは、飯が不味くなるな。
「……悪いけど、カレンさん」
俺は努めて軽い声を出した。
「俺、まだここにいますよ」
「はあ!? あんたバカなの? 死ぬかもしれないのよ!?」
「いやまあ、そうなんですけど……」
俺はヘラっと笑ってみせた。
「この街の飯、美味いし。宿の布団も気に入ってるし。……それに、まだ『奇跡』の効果が切れてないかもしれないじゃないですか」
カレンさんは呆れたように口を開けて、それから深くため息をついた。
「……バカね、ほんとに。Dランクのくせに、度胸だけはあるんだから」
「度胸っていうか、鈍感なだけですよ」
嘘だ
鈍感どころか、俺は今、誰よりも鮮明に「危機」を感じ取ってる。アストラの鞘が熱を持ってる。
西から来るのは、ただの軍隊じゃない。「世界の終わり」そのものだ。
「……気をつけてよ。あたしは、もう少し休んだらまた動くわ。……このまま引き下がるのは、癪だからね」
カレンさんはそう言って、少しだけいつもの強気な顔に戻った。やっぱり強いわこの人。
俺はカレンさんに別れを告げて、ギルドを出た。外は相変わらずの青空だ。街の人たちは「グレイウッドの奇跡」で浮かれて、笑顔で歩いている。何も知らない人たち。知らなくていい人たち。
俺は空を見上げて、小さく息を吐いた。
「……スローライフ、終了のお知らせってやつか」
誰にも聞こえない声で呟く。フェデが「わふっ」と同意するように鳴いた。
西の空。雲の切れ間から差し込む夕日が、なんだか血の色みたいに赤く見えた。嵐が来る。俺の平穏な日常を吹き飛ばす、特大の嵐が。
……まあ、なるようになるか。俺は錆びついた(ように見える)剣の柄を、ぐっと握りしめた。まだ抜かない。
まだだ。だけど、そう遠くない未来、これを抜かなきゃいけない時が来る気がする。
「帰るぞ、フェデ。……今のうちに、美味いもん食っとこうぜ」
「わふぅ!」
俺たちは、賑わう市場の中へと歩き出した。迫りくる悲鳴に背を向けて、最後になるかもしれない平穏な一日を噛みしめるために。




