第27話 ネリスの尾行
地下水路の空気ってのは、質量がある。
ねっとりと肌にまとわりつく湿気。腐った卵と古油を煮詰めたような悪臭。それが闇の中で飽和して、呼吸をするたびに肺の内側をざらりと撫でていくような不快感だ。
「……うげぇ」
梯子を降りきった俺は、思わず鼻をつまんで顔をしかめた。
足元では汚水が音もなく流れている。
いや、流れているのか? 澱んで止まっているようにも見える。水面には油膜が浮き、どこか遠くでポチャン、と雫が落ちる音が反響していた。
最悪だ。スローライフの対極にある空間だ。
フェデが俺の脚に体を押し付けてくる。
「わふぅ……(くさい)」
「だよな。ごめんな。後で高いシャンプーで洗ってやるからな」
俺は指にはめた『阻害の指輪』を確かめ、極限まで絞った魔力で小さな灯り(ライト)を点した。指先に蛍くらいの光が宿る。眩しすぎると目立つし、闇に慣れた魔物を刺激しかねない。
これくらいが丁度いい。
さて、ギルベルト爺さんの地図によれば、この主水路を北へ進み、第三分岐を右だ。
俺は慎重に歩き出した。
靴底が濡れた石畳をぺた、ぺたと踏む。
静かだ。あまりに静かすぎる。
ネズミ一匹いない。それが逆に、この場の異常さを物語っているようで、背筋が寒くなる。
『我が王……背後』
不意に、頭の中に風精霊フィオの冷ややかな声が響いた。
同時に、フェデがピタリと足を止める。
唸り声は上げない。ただ、全身の毛を逆立てて、今降りてきたばかりの梯子の方角を睨みつけている。
――いる。
俺は息を止めた、足音はない、気配もない。
だが、闇の向こうから、何かが滑るように近づいてきている。
視線だ
無機質で、冷徹で、獲物を観察するためだけの、感情のない視線
カレンさんか? いや、違う。あの人はもっとこう、剣呑というか、「隠れても無駄よ!」みたいな圧がある。
この気配はもっと、事務的だ。インクと紙の匂いがしそうなほどに、整然とした追跡者。
……あの、眼鏡の監査官かネリス
俺は舌打ちを噛み殺した。
あの人、ただの事務屋じゃなかったのかよ。
足音ひとつ立てずに地下水路へ侵入するとか、完全に「裏」の訓練を受けた人間の動きだ。
どうする?ここで振り返って「やあ奇遇ですね」と挨拶するか?
無理だ、深夜の地下水路、しかも立ち入り禁止区域で遭遇して、まともな言い訳が立つわけがない。
「犬の散歩です」は二回目は通用しないし、「ドブさらいに来ました」なんて言えば、「では何故それを無許可で行うのです?」と詰められて終わりだ。
逃げるしかない。しかも、顔を見られずに。
俺はフェデの首元を軽く叩いて合図を送った。
(撒くぞ。音を立てるな)
(わふッ)
俺たちは走り出した。
忍び足モード、全開
前世でやり込んだ潜入ゲームの知識を総動員する。こういう時、大事なのは速度じゃない。「視線」を切ることだ。
角を曲がる。直後、俺はわざと靴底を擦って「カッ」と音を立てた。そして即座に立ち止まり、水路の壁にある窪みに身を隠す。
数秒後。角の向こうから、空気が揺らぐような気配が近づいてきた。
速い
俺が音を立てた地点まで、迷いなく距離を詰めてきている。
だが、ネリスはそこで足を止めなかった。俺が「走り去った」と誤認して、そのまま奥へ進もうとする
――はずだった。
ピタリ。
俺が隠れている窪みの、わずか三メートル手前。
闇の中で、追跡者が停止した。
心臓が早鐘を打つ。バレた?なんで?音も呼吸も完全に殺しているはずだ。
『……匂い、ですね』
フィオが呆れたように告げる。
『ルーク殿からは、先ほど食べたシチューの美味しそうな香りが漂っております。あとフェデ殿の獣臭も』
うっそだろ、生活臭でバレるとか一番情けないパターンじゃんか。
ネリスの気配が、ゆっくりとこちらへ向くのがわかった。暗視ゴーグルでも持ってるのかってくらい、正確な動きだ。
まずい、ここで見つかれば、「深夜の不審者」として連行、最悪の場合、俺の正体まで芋づる式に掘られる。
俺は焦った、焦って、とっさに指輪へ魔力を込めた。
(……フィオ、頼む!)
『承知!』
俺の意図を汲んだ風の精霊が、微弱な気流を巻き起こす。
それは攻撃魔法ではない。ただの「音運び」だ。
俺たちのずっと奥、水路の突き当たり付近で、フィオが運んだ「足音の残響」がカツン、カツン、と鳴り響く。
ヴェントリロキズム(腹話術)。あるいは音響欺瞞。
ネリスの気配がピクリと反応した。
彼女の意識が、奥の闇へと向く。
――今だ! 俺はその一瞬の隙を突いて、音もなく窪みから飛び出した。
彼女の背後をすり抜ける。水路の天井にある配管に手をかけ、腕力だけで体を持ち上げる。
フェデも驚異的な跳躍力で、音もなく俺の背中へ飛び乗った。重いけど我慢だ。
俺たちは天井付近の闇に張り付き、息を殺してやり過ごす。
ネリスが振り返る。
眼鏡の奥の瞳が、俺たちがさっきまでいた窪みを射抜くように見つめている。
だが、そこには誰もいない。彼女は小さく首を傾げたようだった。
そして、音のした奥の方へと、再び滑るように走り去っていく。
……助かった。
俺は安堵の息を吐きそうになるのを必死でこらえ、彼女の気配が完全に消えるまで配管にしがみついていた。
腕がプルプルする。
社畜時代に鍛えた忍耐力(理不尽への耐性)がなければ落ちていたかもしれない。
数分後、俺はそっと床に降り立った。
「……危なかった」
冷や汗を拭う。ただの事務官があんな動きをするなんて聞いてない。セカイジュ騎士団ってのは、事務員まで忍者なのか?
「わふ……」
フェデも疲れたように耳を垂れている。緊張させて悪かったな。
「先を急ごう。あの人が戻ってくる前に」
俺たちは逃げるように、目的の分岐路へと足を速めた。
***
一方、その頃。 水路の奥で、ネリス・クロイツは足を止めていた。
行き止まりだ。
鉄格子が嵌められた排水口。その先には誰もいない。足跡も、気配も、ここで唐突に途切れている。
彼女は懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開けて時刻を確認した。
追跡開始から十二分、見失った。
彼女は無表情のまま、懐から手帳とペンを取り出した。
さらさらと、暗闇の中でも正確な筆致で文字を刻んでいく。
『対象:ルーカス・ヴァレリオ。グレイウッド地下水路にて接触を試みるも、失敗。対象は王都の暗部隊員と同等、あるいはそれ以上の隠密技術を保有していると推測される』
彼女はペンを止めて、虚空を見上げた。眼鏡の位置を人差し指で直す。
あの時、窪みに確かに気配があった。だが、次の瞬間には音が遠くへ飛び、さらに気配そのものが天井付近へと消失した。
音響による誘導。三次元的な機動。そして何より、追跡者に気づいた瞬間の判断の速さ。
ただの冒険者ではない。ましてや、履歴書にあるような「片田舎の農村出身」などという経歴は、十中八九、偽装だろう。
『Dランクという登録情報は、カモフラージュの可能性が大。高度な訓練を受けた工作員、もしくは――』
彼女はそこで少し迷い、続きを書いた。
『人外の知覚を持つ者』
手帳を閉じ、ネリスは来た道を引き返す。
表情は変わらない。だが、その瞳の奥には、事務的な監査任務以上の、狩人のような鋭い光が宿っていた。
「……興味深いですね」
呟きは、湿った闇に吸い込まれて消えた。
***
「くしゅん!」
俺は思わずくしゃみをした。
「誰か噂してんのかな……いや、絶対ろくな噂じゃないな」
背中をさすりながら、俺は水路の奥へと進む。
臭いが強くなってきた。
腐敗臭に混じって、焦げたような、それでいて甘ったるい魔素の気配。
ギルベルト爺さんの言っていた「詰まり」の場所は近い。
俺は灯りの光量を少しだけ強めた。
目の前に広がる光景に、息を呑む。 水路の合流地点。広場のように開けた空間の真ん中で、それは脈打っていた。
黒い泥と、蛍光色に光る粘液が混ざり合った、巨大なスライム状の塊。それがパイプを完全に塞ぎ、汚水を堰き止めている。
「うわぁ……」
想像以上のグロテスクさに、俺は一歩後ずさった。
スローライフって、こういうのと戦わなくていい生活のことじゃなかったっけ? 俺は手に持ったアストラ(鞘に入ったまま)を握りしめた。
やるしかない。
明日の風呂のために。清潔なトイレのために。
そして何より、あの事務官に見つかる前にさっさと仕事を終わらせて帰るために。
「行くぞ、フェデ」
「わふ!」
俺たちは悪臭漂う闇の中、最後の仕事へと足を踏み入れた。




