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第26話  地下水路の異変

 朝 


 爽やかな目覚めと、小鳥のさえずりと、焼きたてのパンの香ばしい匂い。  

 スローライフにおける理想の朝ってのは、そういうもんだ。教科書があれば1ページ目に書いてあるレベルの基本だ。  


 俺もそう思ってた、つい、さっきまでは。


「……くっさ」


 思わず漏れたその一言が、今日の俺の第一声だった。  

 洗面器に溜めた水が、なんかこう、ドブ色だったのだ。  

 いや、色は百歩譲ろう、茶色い水なんて田舎じゃよくある。


 問題は臭いだ、生ゴミを真夏の炎天下で三日放置して、そこに古雑巾を絞り入れて、隠し味に腐った卵を混ぜたような、鼻の奥がツンと痛くなる暴力的な刺激臭。

 

 俺ことルーカス・ヴァレリオは、顔を洗うために手ですくったその液体を見つめ、そっと指の間からこぼれ落とした。  

 これ、顔洗ったら逆に肌が溶けるやつだ。


「わふぅ……(いやだ)」


 足元でフェデが、前足で鼻を覆いながらシワを寄せている。  


 お前もか、だよな。

 

 世界樹の最上位霊獣ともあろうものが、こんな汚染水で顔洗えるわけないよな。


 わかるぞ。  


 ここグレイウッドは「世界樹の根の上にある街」だ。  


 地下には清らかな霊水が流れ、空気はうまく、飯も野菜も飛び切り上等。それが俺がこの街を拠点に選んだ最大の理由だ。

 

 なのに、だ。  

 昨日の夜、女将のマルタさんが「井戸の調子が悪い」ってぼやいてた時は、単なるポンプの故障か何かだと思ってた。


 甘かった。

 

 これは、そんなレベルじゃない、水が死んでいる。

 食堂に降りると、そこはお通夜みたいな空気だった。  

 冒険者たちがテーブルにつき、目の前のスープを親の敵みたいに睨みつけている。

 誰もスプーンを動かさない、動かせないんだ。


「……食えねえよ、これ」  


 誰かがポツリと呟いた。  

 厨房の奥からは、マルタさんのすすり泣く声が聞こえる。

 彼女のせいじゃない。水が悪いと、どんな達人の料理も台無しになるってだけの話だ。

 

 俺はため息をついて、パンだけをかじることにした。喉が渇いたけど、あの水は飲みたくない。

 

 怪しい魔導具屋グリッドの店で買った「魔力制御の指輪」を嵌めた指先から、こっそりと清潔な水を生成してコップに注ぐ。

 

 生活魔法  


 元精霊王の力の無駄遣いだけど、今はこれが命綱だ。  

 フェデの皿にも水を注いであげると、彼は尻尾を振って飲み干した。


 よしよし

 ……待てよ、これ、街中の水が全滅してるなら、風呂はどうなる?ふと、最悪の想像が脳裏をよぎる。  


 風呂なし、洗濯不可、飯マズ。  スローライフの崩壊だ。  

 俺の中で何かが「プツン」と切れる音がした。


 ***


 ギルドへ行くと、そこはもう阿鼻叫喚の地獄絵図だった。  

 怒号、悲鳴、そして諦めの溜息。  受

 付カウンターには冒険者たちが殺到し、ミリアさんが涙目で対応に追われている。


「だから! 原因は調査中なんです! 押さないでください!」

「風呂屋が休みだったぞ! 昨日の狩りの血をどうやって落とせってんだ!」

「井戸からヘドロが逆流してきたぞ! 店がめちゃくちゃだ!」

 

 掲示板には【緊急依頼:水源の異変調査】の貼り紙。  

 でも、誰も剥がそうとしない。  


 そりゃそうだ。下水掃除なんて誰もやりたくないし、何よりこの異臭だ。地下に入ったらガスマスクなしじゃ窒息するレベルだろう。  


 俺は人混みの後ろで、気配を消して様子を伺うことにした。  

 できれば関わりたくない。  


 騎士団が動くのを待とう。

 カレンさんとか、もっとやる気のある「本物の」冒険者が解決してくれるはずだ。  


 そう思ってきびすを返そうとした、その時。


「……ふむ。やはり、ただの汚れではないのう」


 背後から、ねっとりとした声が鼓膜を撫でた。

 

 ビクッとして振り返る。  

 そこには、ボロボロのローブをまとった、あの変人植物学者が立っていた。  

 ギルベルトだ。手には試験管。中にはドス黒く濁った水が入っている。


「ギ、ギルベルトさん……」

「おお、ルークくん。おはよう。……もっとも、こんな腐った朝におはようも何もないが」


 彼は眼鏡の奥の目をギラリと光らせ、俺にだけ聞こえるような小声で囁いた。


「気づいておるじゃろ? これは物理的な汚れではない。『霊脈』の閉塞へいそくじゃよ」  


 ドキリとする。

 

 やっぱりか。

 

 俺も薄々は感じてた。ただの泥水なら土の匂いがするはずだ。

 でも、この水からはもっと嫌な、痺れるような「魔素」の気配がする。  

 ギルベルト爺さんは、試験管を振って中のおりを見つめた。


「この街の地下には、世界樹の根から滲み出る水を運ぶ、巨大な水路網がある。いわば街の血管じゃ。そのどこかで、弁が詰まっておる。血栓のように、悪いものがこびりついてな」


「……騎士団に報告は?」

「したとも。だが、奴らが動くには手続きがいる。調査隊の編成、危険度の認定、装備の調達……早くても三日はかかるのう」

 

 三日

 

 その単語が、俺の心臓に突き刺さる。  

 三日間、風呂に入れない?三日間、あのドブ臭い空気の中で過ごす? 無理だ。  

 俺は断固拒否する。


「それに、ただの詰まりならいいが……もし『逆流』が始まったら、この街は終わりじゃよ。行き場を失った汚染霊素が噴き出し、疫病が蔓延する。サバイバル生活の始まりじゃな」

 

 爺さんは意地悪く笑って、俺の顔を覗き込んだ。


「ここを通せるのは、霊素の流れを視て、直接干渉できる『理外の者』だけじゃよ。……例えば、そうだな。精霊に愛された規格外の新人とか、のう?」  


 完全にロックオンされている。  

 逃げ場なし、俺は深くため息をついた。

 

 この爺さん、俺が「目立ちたくないけど快適な生活は捨てられない」っていう弱点を完全に把握してやがる。


「……場所、わかります?」

 

 観念して尋ねると、ギルベルトは待ってましたとばかりに懐から古い地図を取り出した。


「西区画の裏路地。廃教会の裏に、古いマンホールがある。そこから入れば、詰まりのポイントはすぐじゃ」  


 俺は地図をひったくると、誰にも見られないように懐へねじ込んだ。  

 昼間に行けば目立つ。  

 カレンさんや、あの鋭い事務官ネリスに見つかったら言い訳できない。  


 なら、手は一つだ。


「……夜に行きます。みんなが寝静まった後に」

「ほっほ。賢明な判断じゃ。期待しておるぞ、未来の英雄くん」  


 爺さんの笑い声を背に、俺はギルドを後にした。  

 腹は決まった、俺の平穏な風呂と飯のために。

 

 今夜、俺はドブさらいのプロになる。


 ***


 深夜二時。街は死んだように静まり返っていた。  

 窓の外は漆黒。星明かりすら、今日は濁った空気に遮られて届かない。  

 俺は黒いローブを目深にかぶり、音もなく宿の窓から飛び降りた。  

 着地音はゼロ。続いてフェデが、ふわりと舞い降りる。  

 大型犬サイズなのに、猫よりも静かだ。さすが最上位霊獣。


「行くぞ」

「わふ」  


 短い合図だけで意思を通わせ、俺たちは闇の中を走った。  

 目指すは西区画。近づくにつれて、鼻を刺す悪臭が強くなる。  


 生ゴミじゃない。もっとこう、古い油と魔力が混ざって腐ったような、独特の甘ったるい臭い。


『ルークさま、臭いです。私の美しい鱗が曇りそうです』  


 懐の中で、水精霊のラグが文句を言っている。  

 お前、水精霊なんだから少しは浄化手伝えよ。


『燃やしましょうぜ! 全部灰にしちまえば臭わないっすよ!』  


 炎のヴァルが物騒な提案をしてくるが無視だ。

 地下で火を使ったらガス爆発で俺たちが死ぬ。


 廃教会の裏手。地図通り、崩れかけた石壁の陰に、錆びついた鉄の蓋があった。

 周囲に人影はない。……いや、どうだろう。なんとなく、背筋がチリチリする。

 誰かに見られているような、そんな嫌な予感。俺は周囲を警戒しながら、そっと鉄蓋に手をかけた。

 

 本来なら大人数人で持ち上げる重さだろうけど、俺が触れると、まるで発泡スチロールみたいに軽く持ち上がった。  

 精霊王パワーの無駄遣いその2、重力操作(小規模)

 ぽっかりと口を開けた暗闇の底から、ムワッとした熱気が吹き上げてくる。


「……うへぇ」  


 想像以上だ。  

 でも、ここを降りなきゃ明日のコーヒーは飲めない。  

 俺は覚悟を決めて、梯子はしごに足をかけた。  

 フェデも続く。


 闇の中へ、街の裏側へ。  

 俺たちが完全に姿を消した、その数秒後。    

 路地裏のさらに深い影の中から、一つの人影が音もなく現れたことを、俺はまだ知らなかった。  


 眼鏡の奥で冷徹な光を宿した、あの事務官が、手帳を片手に静かにたたずんでいたことを。




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