第24話 変貌した迷宮
いや、待ってくれ、落ち着け、俺。
まずは深呼吸だ。スー、ハー よし。
……いや「よし」じゃねえよ!! なんなんだよこれ!?
俺の目の前に広がっているのは、かつて《枯れ沼》と呼ばれていた場所だ。
つい昨日までは、腐った泥がボコボコと毒ガスみたいな泡を吹いて、鼻が曲がるどころか千切れそうな悪臭を放っていた、あの危険地帯。変異したオークが暴れまわって、調査隊が壊滅しかけたあの地獄絵図だ。
それが、だ。
「……き、きれい……」
誰かがぽつりと呟いた。
その言葉が、今の状況をあまりにも残酷に、そして正確に表していた。
青い、とにかく青いのだ。
空の色をそのまま溶かしたような、あるいは宝石のサファイアを液状化してぶちまけたような、透き通るセルリアンブルー。
水面はキラキラと陽光を反射して、まるで高級リゾート地のプライベートビーチみたいに輝いている。
底の白い砂粒ひとつひとつまで数えられそうな透明度。
水辺には、瘴気で枯れていたはずの木々が、なぜか青々とした新芽を吹き出し、謎の白い花まで咲き乱れている始末だ。
「わふっ!(お水だー!)」
フェデが楽しそうに尻尾を振った。
足元のフェデリオ、俺の愛犬(仮)にして世界樹最上位霊獣たる彼が、この状況を楽しんでいるのが唯一の救い……いや救いじゃないな。
お前、その水飲もうとするな、それ、俺がやらかした証拠物件だから!
そう、これは俺がやった。
正確には、俺が水の精霊ラグに「浄化」を頼んだ結果だ。
頼んだのは「泥をきれいにして」だったはずなんだけど、俺の魔力(霊素)供給がバグってるせいで、ラグが張り切りすぎたらしい。
「蛇口をひねる感覚」で、ダムを決壊させちまったわけだ。
「……ありえん」
隣で呻くような声がした。
ギルベルトだ。
この薄汚いローブを纏った植物学者のじいさんが、眼鏡の奥の目をカッと見開いて、目の前の光景を凝視している。
「あの強酸性のヘドロが……たった一晩……いや、数時間で『聖水』クラスの純度に入れ替わったじゃと……?」
《聖水》その単語に、俺の心臓がヒュッと縮み上がる。
やっぱり? ただの水じゃないよね、このキラキラ感。
ポーションの材料とかに使われるやつだよね。これ、経済的に大丈夫?価格破壊とか起きない?
俺、スローライフしたいだけなのに、地域経済を崩壊させるテロリストになってない?
「す、すごいですねー。自然の神秘ってやつですかねー」
俺は精一杯の「棒読み」で言った。
感情を一切込めない、ただの背景モブAとしての演技。
これしかない。俺は何も知らない。ただ犬の散歩で通りがかっただけの、善良なDランク冒険者。
「神秘……ふん、そんな言葉で片付くか」
ギルベルトが鼻を鳴らす。
その視線が、湖面から俺の顔へとねっとりと移動する。
やめて。そんな熱っぽい目で見ないで。
「のう、ルーク君よ」
「はい、なんでしょう」
「お前さんの周りの霊素、今日もやけに澄んでおるのう。まるで、この湖の水と同じ『波長』を感じるんじゃが?」
ギドキドッ! 心臓が早鐘を打つ。
このこのじいさん、勘が良すぎるというか、観察眼が変態の域だ。
阻害の指輪で魔力を抑えてるはずなのに、漏れ出る「質」までは隠しきれてないってことか?
「は、ははは。まさかあ。僕はただの新人ですよ? こんな大規模な魔法、使えるわけないじゃないですか」
「魔法? わしは魔法なんて一言も言っとらんぞ」
「えっ」
「これは『現象』じゃよ。術式を組んだ形跡がない。純粋な霊素の塊が、物理法則をねじ伏せて泥を水に変えた。そんな出鱈目ができるのは、上位精霊か、あるいは……」
ギルベルトが、一歩詰め寄ってくる。
近い。顔が近い。
そして臭い……いや、今はそれどころじゃない。じいさんの瞳孔が開いている。「未知の研究材料」を見つけた学者の目だ。
「……あるいは、それに愛された『器』だけじゃ」
ひいいい! バレてる! ほぼバレてるよこれ! どうする俺。ここで逃げるか? いや、逃げたら余計に怪しまれる。
そのとき。
救いの神……いや、別の意味での死神が現れた。
「――どいて。邪魔よ」
冷たい声とともに、俺とギルベルトの間に割って入ってきたのは、騎士団の事務官ネリスだった。
きっちりと結い上げた髪、表情のない顔。手には分厚いバインダーと羽ペン。
彼女は俺を一瞥もしない。まるで路傍の石ころか何かのように無視して、湖のほとりにしゃがみ込んだ。
「計測開始。……魔素濃度、検出限界以下。霊素濃度、基準値の五千倍」
五千倍!? やりすぎだろラグ! お前、加減って言葉を辞書から破り捨てたのか!?
ネリスは淡々と数値を記録していく。ペン先が紙を走るカリカリという音が、俺には死刑宣告のカウントダウンに聞こえる。
「異常事態です」
ネリスが立ち上がり、後ろに控えていた騎士たちに告げる。
「この湖の水は、高濃度の『霊水』に変質しています。このレベルの清浄領域では、魔獣は呼吸すらできず、皮膚が焼けるほどの苦痛を感じるでしょう」
え? それって、いいことなんじゃないの? 魔獣がいなくなるなら安全じゃん。
「……つまり」
ネリスが、くいっと眼鏡の位置を直した。レンズが光り、その奥の瞳が、今度はハッキリと俺を捉えた。
「ここに潜んでいた魔獣たちが、浄化の気に耐えられず、パニックを起こして一斉に逃げ出したということです。……行き先は、魔素の残る周辺の森や街道。現在、街道沿いで大規模な魔獣の氾濫が発生中」
うわあ。 やっちまった。
そうか、浄化すれば消えるわけじゃない。逃げるやつもいるのか。
俺がバルサンを焚いたせいで、ゴキブリが隣の家に大量発生したみたいな状況か。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。
「早急に対処が必要です。騎士団の一個小隊を街道の封鎖に回します。……それと」
ネリスの目が細められた。
「この現象が発生した推定時刻。その時間帯にこの付近にいた人物のリストアップを」
外堀を埋めに来た。物理的な証拠から固めていくタイプだ、この人。
俺は必死に顔を引きつらせながら、フェデを抱きしめる腕に力を入れた。
フェデも空気を読んだのか、「くぅ〜ん」と弱々しい声を上げて俺の胸に顔を埋める。
ナイス演技だ相棒。俺たちはただの無力な一人と一匹。
そう、無力。無害。一般市民。
「……まあ、いいでしょう」
ネリスはふいに視線を外した。
あれ? 見逃された?
「犯人探しは後回しです。まずはこの場所の『封鎖』が優先。あまりに危険すぎます」
「き、危険?」
思わず聞き返してしまった俺に、ネリスは冷ややかな視線を向ける。
「ええ。魔獣は寄り付きませんが、代わりに『人間』が群がりますから。……ほら、あのように」
ネリスが顎でしゃくった先。
そこには、湖の水を瓶に汲んで、太陽にかざしているギルドマスターの姿があった。
強面のおっさんが、いやらしく口角を上げている。
目が、完全に「金」のマークになっている。
「『これは売れる……! 入場料を取って、水は聖水として瓶詰めにして……グレイウッドの名産品になるぞ! 貴族様や巡礼者が押し寄せてくる!』……という顔ですね」
うわあ…… 俺は頭を抱えた。
魔獣はいなくなった。でも、もっとタチの悪い「欲望」という怪物が集まってくる未来しか見えない。
スローライフ? 無理だ。
こんな、歩く金脈みたいな湖の近くで、のんびり暮らせるわけがない。
街が発展するのはいいことかもしれないけど、その原因を作ったのが俺だってバレたら、一生「聖水製造機」として監禁される未来しか見えない。
「おい、新人」
今度は背後から肩を叩かれた。ビクッとして振り返ると、そこには赤髪の剣士、カレンがいた。 Aランク冒険者。
この前の「枯れ沼事件」の当事者であり、俺の正体(の一部)を知っている唯一の人間。
彼女は腕を組み、呆れたような顔で青い湖を見つめている。
「……派手にやったわね」
「しっ! 声がデカいですカレンさん!」
俺は慌てて彼女の口元に手を伸ばそうとして、殺気で睨まれて引っ込めた。
「お前、バカなの? 魔獣を追い出してどうすんのよ。お前のせいで、魔獣が街道に溢れてギルドは大パニックよ」
「ご、ごめんなさい……でも、泥を消すにはこれくらいしなきゃダメだったんです!」
「加減を知りなさいよ、加減を。……ほら見なさい、ギルドマスターのあの顔」
カレンもまた、ギルドマスターの強欲面を冷ややかに見つめる。
「魔獣パニックの処理より、金儲けの算段。……あれじゃ、後始末は現場の冒険者に丸投げね」
俺は頭を抱えた。魔獣パニックに加えて、強欲商売までセットかよ。スローライフ? 無理だ。
こんなトラブルの震源地みたいな湖の近くで、のんびり暮らせるわけがない。
「……責任、取りなさいよ」
カレンが意地悪く笑う。
「お前がやったってことは黙っててやる。その代わり、これから溢れ出す魔獣の処理、手伝いなさい。もちろん、拒否権はないわよ?」
「……はい」
脅迫だ。これは立派な脅迫だ。
でも、今の俺には頷く以外の選択肢がない。
ギルベルトの探究心、ネリスの事務的な追及、そしてカレンの弱み握り。
三方向からの包囲網が、じわじわと狭まってきている。
「わふっ!」
フェデが慰めるように俺の頬を舐めた。
お前だけだよ、俺の味方は。 ……いや待て、お前さっき湖の水ガブガブ飲んでたよな? それ、俺の魔力が溶け込んだ水だぞ? なんか毛並みが昨日よりさらに輝いてないか? 発光してないか?
「……帰ろう、フェデ。魔獣退治の準備だ」
俺は疲労困憊で立ち上がった。
キラキラと輝く湖面が、俺の将来の多難さをあざ笑うかのように眩しい。
「きれいな湖ですねー」
「そうじゃのう。不思議じゃのう」
背後でギルベルトが、わざとらしい口調で俺の真似をした。
絶対に逃がさんぞ、という執念を感じる。
俺はDランクだ、ただのDランクなんだ。頼むから、そっとしておいてくれ。
そんな俺の願いも虚しく、湖の中心でポチャン、と魚が跳ねた。その魚が、なんか虹色に光りながら空を飛んでいった気がするのは、きっと見間違いだと思いたい。
これ以上、生態系をバグらせないでくれ。
俺の平穏が、また一つ、音を立てて崩れ去っていくのを感じながら、俺は逃げるようにその場を去ったのだった。




