第22話 ネリスの事務的観察
胃が痛い、まじで痛い、キリキリする。
朝、宿屋『月下葡萄亭』の食堂で、焼き立てパンの香ばしい匂いと、ギルベルト爺さんの「ふむ、このパンの酵母の発酵プロセスが……」っていうマニアックな独り言をBGMに、おれは死んだ目でコーヒーを啜っていた。
窓の外は快晴。小鳥もちゅんちゅん鳴いてる。
足元ではフェデが、おれの足の甲を枕にして爆睡中。こいつの悩みなんて「今日のオヤツは骨付きか否か」くらいだろう。
いいな、代わってくれ。
「……はぁ」
ため息が出る、昨日の今日だぞ?変人学者ギルベルトに「世界樹の愛し子」疑惑をかけられ、粘着質な観察対象にされた直後だ。
おれの精神力はもう限界に近い。スローライフ? なにそれ美味しいの? 状態だ。
それでも、働かなきゃ飯は食えない。
特にフェデのエンゲル係数がバグってるから、日銭を稼がないと路頭に迷う。
おれは重い腰を上げて、ギルドへ向かうことにした。
***
ギルドの重たい木戸を開ける。
いつもなら、この時間は「昨日のオークがよぉ!」とか「酒持ってこい!」とか、男臭い怒号と熱気が渦巻いているはずだ。
――シーン
静か。え、なにこれ。お通夜? いや、人はいる。ゴツい冒険者たちが、みんな借りてきた猫みたいに背中を丸めて、ヒソヒソ話してる。
異様な空気。その発生源は、受付カウンターの端っこにあった。
女性だ、冒険者じゃない。装備が違う。
着ているのは着ているのは、王都の役人が着るような、仕立てのいい紺色の事務服。無駄な装飾は一切なし。胸元には銀色に輝く世界樹の徽章。
髪は後ろでピシッとまとめられてて、後れ毛一本ない。
そして何より、あの銀縁眼鏡。光を反射して表情が読めない。
カツ、カツ、カツ。
彼女が指先でカウンターを叩くリズムが、ギルド内に冷たく響く。
おれの本能が警報を鳴らした。
関わっちゃいけない。あれは「敵」だ。魔物とかそういう物理的な敵じゃなくて、社会的な敵。
元社畜のおれにはわかる、あれは「監査」の空気だ。
数字と理屈で殴ってくる、一番タチの悪いタイプの人種だ。
おれは咄嗟に、入り口近くの柱の陰に隠れた。
フェデも空気を読んで、おれの足の間に潜り込む。よし、ナイス隠密。でも、会話が聞こえない。
彼女は受付嬢のミリアさんと何か話してるみたいだけど、距離がありすぎる。
どうする? 近づくか? いや自殺行為だ。
(……フィオ。起きてるか?)
心の中で呼びかける。おれの肩に、ふわりと緑色の風が舞った。
風の上位精霊、フィオだ。今は姿を消して、ただの風として漂ってる。
『おはようございます、我が王……あの女性の声を拾えばよろしいので?』
(察しがいいな。頼む、こっそり教えてくれ)
『御意。……風が、言葉を運びます』
フィオの声が脳内に響くと同時に、まるで高性能イヤホンをしたみたいに、あの女性の声がクリアに聞こえてきた。
「――以上が、本部からの閲覧要請書です」
冷たい声だ。感情成分ゼロ。氷点下のボイス。
「セカイジュ騎士団本部事務局、記録官のラウラ・ネーベルです。通称ネリスとお呼びください」
「は、はい……確認しました。正規の手続きですね……」
ミリアさんの声が震えてる。可哀想に。いつもはあんなに明るい笑顔なのに、今はもう蛇に睨まれたカエルだ。
「では、過去三ヶ月分の依頼達成記録、および登録冒険者の個人データの一部開示をお願いします」
「わ、わかりました。どなたのデータでしょうか?」
ネリスと呼ばれた女性が、手元のリストを指差した。
「登録名、ルーカス・ヴァレリオ。ランクD」
ぶっ。
おれはあやうく悲鳴を上げそうになった。
おれかよ! ピンポイント指名かよ! やっぱり昨日のギルベルトじいさんが原因か? それとも計測器をぶっ壊した件がバレた? 心臓が早鐘を打つ。逃げたい。今すぐこの場から消え去りたい。
『……王よ、落ち着かれよ。心拍数が上がっております』
(うるさい、聞こえてるんだよ死刑宣告が!)
ネリスは、ミリアさんが出した書類の山を、恐ろしいスピードでめくり始めた。 ペラッ。 ペラッ。
速読? いや、スキャンだあれは。人間スキャナーだ。
彼女の指が止まる。
「……奇妙ですね」
独り言のように呟く声。
「なにがですか?」
「データが綺麗すぎます」
「きれい?」
「依頼達成率、一〇〇パーセント。これはいいでしょう。薬草採取などの低難易度依頼が中心ですから」
そうだよ。地味な仕事しかしてないからな。完璧な偽装工作だろ?
「ですが、ここ」
ネリスの指が、一点をトントンと叩く。
「負傷率、ゼロパーセント」
ぎくっ。
「装備の損耗率、ほぼゼロ。ポーションの購入履歴、なし。治療院の利用履歴、なし」
「え、えっと……」
「Dランク、それも登録したての新人が、森に入って『無傷』なんてありえません。茨で指を切る、虫に刺される、転んで膝を擦りむく……何らかの生体ダメージがあってしかるべきです」
……あ。 そこか。 盲点だった。
おれには精霊の加護があるから、虫一匹寄ってこないし、身体強化してるから転んでも地面の方が凹むんだよな。
それが「異常」だなんて、すっかり忘れてた。社畜時代は「無遅刻無欠勤」が当たり前だったから、完璧であることのリスクを考えてなかった……!
「それに、この討伐記録」
ネリスが次のページを開く。
「ゴブリン、オーク、変異種……遭遇戦における討伐数が極端に少ないですが、すべて『素材の回収状態』が良すぎます」
「あ、それは……ルークさん、魔物を傷つけずに倒すのがお上手みたいで」
ミリアさんがフォローを入れてくれるが、それが火に油を注いでいることに気づいていない。
やめて、ミリアちゃん。その優しさが痛い。
「傷つけずに倒す?」
ネリスの声の温度が、さらに一度下がった。
「検分記録によれば、魔物の死因はすべて『全身打撲』あるいは『衝撃による内臓破裂』、斬撃痕なし。魔法による熱傷や凍結痕もなし」
そりゃそうだ。剣は抜けないから鞘で殴ってるだけだし、魔法使うと派手になりすぎるから物理で解決してるわけで。
「つまり、彼は魔物を『棒か何かで一撃のもとに粉砕している』ということになります」
「そ、そう……なんですかね?」
詰められてる、ミリアさんが可哀想なくらい詰められてる、ごめんミリアさん、あとで高いお菓子持っていくから許して。
ネリスは眼鏡をくいっと押し上げ、さらに追撃をかけた。
「そして極めつけは、登録時の計測器トラブル」
「あ、はい。故障しちゃって……」
「故障? いいえ」
彼女は懐から、一枚の報告書を取り出した。
「本部の解析班から連絡がありました。あの水晶は、内部構造が焼き切れています。『反応しなかった』のではなく、『許容量を超えて白濁した』のです」
終わった。 全部バレてた。あの水晶、もう解析終わってたのかよ!
仕事早すぎだろセカイジュ騎士団!
「測定不能。それはつまり、『Dランクの枠に収まる存在ではない』という証明です」
ネリスはペンを取り出し、手帳にサラサラと書き込みを始めた。 その音が、フィオの風に乗って鮮明に聞こえてくる。
『報告書作成。対象ルーカス・ヴァレリオ。 判定:Dランクの戦績にあらず。 実力はA……いえ、測定不能。 データ整合性、皆無。これは「隠蔽」の痕跡です』
彼女は顔を上げ、ギルド内をぐるりと見渡した。その視線が、おれのいる柱の方を通過する。
おれは息を止めた。心臓がうるさい、バレる。
「……隠れても無駄ですよ。数字は嘘をつきませんから」
誰に言うともなく、彼女は呟いた。
ひぃっ! 気配を感じたんじゃない。「ここに犯人がいて盗み聞きしている可能性が高い」っていう、確率論でカマをかけられたんだ。
なんて食えない女だ。
ネリスは手帳に最後の一文を書き加えると、パタンと閉じた。
その音は、まるで牢獄の鍵が掛かる音のように、乾いて響いた。
『追記:至急、騎士団本部による詳細な再調査、および……』
彼女の冷徹な唇が動く。
『……総団長アウストレア様への、直接報告を推奨する』
総団長
騎士団のトップ?やめてくれ。そんな人の机におれの名前が載ったら、もう逃げ場がないじゃないか。
「ご協力、感謝します」
ネリスは丁寧にお辞儀をすると、カツカツとヒールを鳴らして去っていった。
おれは柱の陰で、崩れ落ちそうになる膝を必死に支えた。隣でフェデが「わふ?(帰る?)」と首を傾げている。
「……帰ろう。今日はもう、何もかも終わりだ」
スローライフ? ああ、そんな言葉もあったな。
遠い前世の記憶みたいだ。




