第21話 学者ギルベルトの来訪
カレンさんとの「貸し借り」という名の冷戦(こっちが勝手にビビってただけ説もある)から、一夜明けて。
結論から言おう。空気が美味い。物理的に美味しいんじゃなくて、精神的な意味で。
朝の光が差し込む宿屋『月下葡萄亭』のテラス席。おれの目の前には、焼きたてのパンと、湯気を立てる野菜スープ。
そして足元には、骨付き肉にかぶりつく相棒
平和だ。あまりにも平和すぎて、逆に不安になるレベルで平和だ。
昨日の今日だぞ?Aランク冒険者に目をつけられ、正体バレの危機をギリギリで回避した直後だ。もっとこう、余韻というか、ヒリヒリした感じが残っててもいいはずなのに。グレイウッドの朝は、残酷なまでに穏やかだった。
「わふっ(おかわり)」
「はいはい。お前な、食費の計算してみろよ。おれの稼ぎの九割が肉に消えてるんだぞ」
文句を言いながらも、おれは追加のベーコンを投げてやる。フェデが空中でパクッ。咀嚼もせずに飲み込む。
まいいい、こいつの愛嬌のおかげで、カレンさんも矛を収めてくれたわけだし。必要経費だ。
今日は依頼を休もう。部屋でゴロゴロして、昼寝して、夕方にはマルタさんのシチューを食う。完璧だ。誰にも邪魔されない、モブAとしての最高の休日。
……なんてことを考えていられたのは、ほんの数十分だった。運命の女神ってやつは、たぶんおれのことが嫌いなんだと思う。
もしくは、極度のサディストかどっちかだ。
***
異変は、通りの向こうからやってきた。最初は、ただの変なじいさんだと思ったんだ。ボサボサの白髪は鳥の巣みたいに爆発してるし、着てるローブなんてツギハギだらけで、どこの古代遺跡から発掘されたんだってくらいボロい。
手には、真鍮とガラス管を無理やりくっつけたような、スチームパンク全開の謎アイテム。
そのじいさんが、ふらふらと、酔っ払いみたいに千鳥足で歩いてくる。
人々が避ける。モーゼの海割りみたいに、じいさんの進行方向だけ道が開く。
関わっちゃいけない。
おれの本能が、全力でサイレンを鳴らした。「逃げろ」って。
「……ふむ」
じいさんが立ち止まった。宿屋の目の前だ。手にした機械──振り子のような水晶がついた杖──を、空にかざす。水晶が、チカチカと青白く明滅していた。
「濃い、のう」
独り言にしてはデカい声だ。
「濃度というより、純度か? この一帯だけ、空気が異常に整列しておる。風のノイズがない。人の感情の澱も、魔素の塵もない」
じいさんは、瓶底メガネの奥にある目を細めて、宿屋の看板を見上げた。そして、視線をゆっくりと降ろしてくる。
テラス席にいる、おれのほうへ。
目が合った。濁った、老人の目。でもその奥には、子供みたいに無遠慮で、狂気じみた好奇心がギラギラと燃えていた。
「見つけた」
じいさんがニヤリと笑う。歯が何本か欠けている。
逃げなきゃ。そう思った時には、もう遅かった。
じいさんは驚くべき速さで距離を詰めると、おれの目の前まで来て、あろうことかその怪しい機械を鼻先に突きつけてきたんだ。
「動くなよ、若いの」
「うわっ!? な、なんですか!」
フェデが「ヴゥーッ!」と低く唸る。おれの足の間に隠れながら。じいさんは機械の針を凝視し、それから満足げに頷いた。
「ほう……ほうほう! やはりここが震源地か!」
「しんげんち? なんの話ですか。警察……じゃなくて衛兵呼びますよ?」
「まあ待て。わしは怪しいもんじゃない」
いや、全身から怪しさオーラが溢れ出てるんですけど。
「わしはギルベルト。王都から来た、しがない植物学者じゃよ」
ギルベルト? どこかで聞いたことがあるような、ないような。
いや、待て。王都の学者だって? 嫌な汗が背中をつたう。なんで王都の学者が、こんな辺境の宿屋にいるんだ。
まさか、ギルドの計測器をぶっ壊した件か?あれがバレたのか? おれは必死に表情筋を固定する。動揺するな。
おれはただのDランク。無害な市民。
「学者先生が、なんの用ですか。おれ、ただの朝飯食ってる一般人ですけど」
「一般人、ねぇ」
ギルベルトと名乗ったその老人は、カッカッと愉快そうに笑った。そして、おれの左手を――『阻害の指輪』をはめた手を、勝手に掴み上げた。
「これを見ても、一般人と言い張るか?」
「痛っ、ちょっ……!」
「安物の拘束具じゃな。魔力を無理やり堰き止めるための。……普通の術師なら、指が壊死してもおかしくない圧力じゃぞ、これ」
バレてる。丸見えだ。このじいさん、ただのボケ老人じゃない。霊素の流れを視覚化して捉えてやがる。
おれが必死に隠蔽してる「漏れ」を、そこらの計器よりも正確に見抜いてるんだ。
おれは慌てて手を引っ込めた。
「この宿の周りだけ、霊素が異常に安定しておる。まるで、高性能な空気清浄機を置いたみたいにな」
じいさんは手を離すと、顔を近づけてきた。近い。古い紙と、乾いた土の匂いがする。
「ふむ、ここに世界樹の愛し子が住んでいるのかな?」
《愛し子》その単語に、心臓が跳ねた。
おれのことか、世界樹に無理やり転生させられた、元社畜のおれのことか。
「……なんのことだか、さっぱりですね。田舎だから空気がいいだけでしょう」
しらばっくれる。それしか道はない。だが、ギルベルトは楽しそうに目を細めたまま、足元のフェデを指差した。
「その犬も、いい毛並みじゃ。……普通のファルニッシュにしちゃあ、ちと『威厳』がありすぎるがの」
フェデがビクッとする。こいつ、フェデの正体(最上位霊獣)まで勘づいてるのか?
「興味深い。実に興味深いぞ!」
ギルベルトは手を叩いて、子供のようにはしゃぎ出した。
「長生きはするもんじゃな。こんな辺境に、生きた研究材料が転がっておるとは!」
材料て、おれは実験動物か何かですか。
「決めたぞ。わしは今日からここに泊まる」
「は?」
「女将! 一番いい部屋を頼む! しばらく逗留することにしたわ!」
ズカズカと宿に入っていくじいさん。
呆然とするおれ。
……終わった。
スローライフ、終了のお知らせだ。
カレンさんという体育会系の脅威が去ったと思ったら、今度はインテリ系のストーカーが張り付いてしまった。しかも王都直通のパイプ持ち。
おれが下手に動けば、その瞬間にレポートが王都へ飛ぶ仕組みだ。
おれはガックリと項垂れる。
空はこんなに青いのに、おれの心は、どしゃ降りだ。
……その頃。
宿の角から、もう一つの視線がおれを見ていたことを、おれはまだ知らない。
じいさんの後ろをついてきた、無表情な眼鏡の女性。
事務官ネリス。
彼女の手帳には、すでにこう記されていた。
『対象接触。隠蔽の痕跡あり。……要・最重要監視』
包囲網は、おれが思ってるよりずっと狭かったんだ。




