第2話 目覚めれば、犬と棒
視界を埋め尽くす緑。網膜を焼くような極彩色の光の粒と、鼻の奥をくすぐる温かな日向の匂い。土と草が混ざり合った、生き物の気配。
……あー、なんだこれ。天国か? いや待て、俺は死んだんだった。
あのクソ忙しい年度末の深夜、トラックだか何だかに弾き飛ばされて、意識がプツンと。じゃあここがアフターライフってやつ? だとしたら、神様のセンスは悪くない。
空調管理も完璧だし、何より静かだ。耳鳴りのようにへばりついていた電話の呼び出し音も、上司のヒステリックな怒鳴り声も、乾いたキーボードを叩く絶望的なリズムもしない。
二度寝、いや三度寝くらいキメてやろうか。そう思って寝返りを打とうとして――腹の上に、ずしりとした「質量」を感じて止まった。
「……ふぎゅ?」
情けない声が出た。重い。漬物石か? いや、温かい。それに、なんだかモフモフしている。 恐る恐る目を開けると、視界いっぱいに「茶色」が広がっていた。金に近い、ふかふかの茶色。
「……わふぅ」
とろけるような寝息。俺の腹を高級ベッドか何かと勘違いしているらしい、金色の毛並みの生き物。ゴールデンレトリバー……にしては、デカい。
ゴールデンレトリバーというより、成犬と小熊の中間みたいなサイズ感。でも顔つきはあどけなくて、完全に幼い。耳の先っぽが、まるで呼吸するように透き通った翡翠色に発光しているのを見て、記憶が追いついてきた。
あ、そうだ。世界樹だ。転生だ。精霊王だ。夢じゃなかった。あの光の海も、巨大な樹の声も。
「……フェデ、リオ?」
名前を呼んでみる。ピクリ、と耳が動いた。次の瞬間、琥珀色の瞳がパチリと開き、至近距離で俺の顔を覗き込んでくる。
「わふっ!」
挨拶。あるいは「おはよう」か。言葉じゃないのに、意味がわかる。脳に直接、温かい感情が流れ込んでくるみたいだ。尻尾が千切れんばかりに振られていて、その風圧だけで俺の前髪が揺れた。ブンブンというより、バッバッバッ! という豪快なスイング。
「よ、よしよし。お前も転生してきたのか……いや、ついてきてくれたのか」
ワシャワシャと頭を撫でる。手触りがヤバい。最高級のシルクと、天日干ししたばかりの布団を足して二で割って、そこに「極上の癒やし」をぶち込んだ感じ。
指が埋まる。魂まで埋まる。
吸いたい。この背中に顔を埋めて、全力で深呼吸したい。これが異世界の吸う美容液か。
「……わふ(るっきー、だいじょうぶ?)」
ん? 今、脳内に直接語りかけられたような気がした。「るっきー」って俺のことか?
あだ名の付け方が女子高生並みに軽いな、お前。もっと厳かな「我が主」とかじゃないのか。まあ、可愛いから許すけど。
「大丈夫だ……多分な。体も痛くないし、むしろ軽いくらいだ」
体を起こす。フェデがどいてくれたおかげで、身軽に起き上がれた。
自分の手を見る。節くれ立って、ささくれだらけだった指先が、白く滑らかになっている。近くの水たまりに顔を映してみると、そこには十八歳くらいの、ちょっと頼りなげな青年の顔があった。
黒髪に、黒い瞳。前世の面影はあるが、目の下のどす黒いクマがないだけでこうも健康的に見えるものか。
「若返ってる……マジか」
社畜時代の、三十路手前の疲れたオッサンじゃない。これなら動ける。徹夜しても胃もたれしない体が帰ってきた!
いや、徹夜はもう絶対にしないけど。定時退社(概念)こそが俺の正義だけど。
腰に、カチリと硬い感触。見れば、古びた鞘に入った剣が差さっている。世界樹がくれたもう一つの手土産、《星霊剣アストラ》。名前だけは無駄にかっこいいアレだ。
「……これ、どう見てもただの『木の棒』にしか見えんのだが」
鞘自体が、木製だ。装飾ゼロ。柄の部分も地味な木目調。ニスすら塗ってないんじゃないか? 試しに抜こうとしてみる。
「ふんぬッ!」
……びくともしない。
接着剤で固定されてるのかってくらい硬い。
世界樹の説明がリフレインする。『条件を満たさないと抜けない』。誰かを守るため、とか、世界がヤバい時、とか。つまり、平和な時はただの「抜けない棒」ってことだ。役立たずかよ。
「ま、いっか。重くはないし、護身用の鈍器くらいにはなるだろ」
俺はアストラを帯剣し直した。シンプルイズベスト。RPGでも初期装備は「ひのきのぼう」って相場が決まってるし。
さて。現状確認だ。ここは森の中。空気は美味しい。でも、それ以上に「濃い」気がする。
呼吸をするたびに、酸素以外の何かが体の中に入ってきて、血液と一緒にぐるぐると巡る感覚がある。血管の中を炭酸水が流れているような、シュワシュワした感じ。
「これが……霊素、か?」
世界を形作るエネルギー。意識を集中してみる。すると、視界の色が変わった。フィルターが一枚外れたみたいに。
森全体が、ぼんやりと光って見える。木々からは緑の燐光が立ち上り、風の流れが淡い青色のラインになって見えた。精霊視、というやつだろうか。世界中がイルミネーションだ。
そして何より驚いたのは、自分自身だ。
俺の体から、とんでもない量の光が溢れ出している。
蛇口が壊れた水道なんてもんじゃない。ダムが決壊してるレベルだ。
無色透明な、でも圧倒的な密度の光が、俺を中心に半径数メートルにわたってドバドバと垂れ流されている。
近くにいた蝶々が、俺の漏れ出た霊素に触れた瞬間、ビカッと発光して巨大化しそうになったので慌てて手で払った。危ねえ! 突然変異させるところだった。
「……やばい」
冷や汗が出た。これ、全然「スローライフ」向きじゃない。こんな状態で街に行ってみろ。「歩くパワースポット」ならまだマシで、「人間原子炉」扱いされて即隔離だ。
あるいは、変な宗教団体に崇められるか、国に捕まって実験台にされるか。
どっちも御免だ。俺は、定時で帰って美味い飯を食って泥のように眠りたいだけなんだ。
「隠蔽だ。なんとかして隠さないと」
俺は深呼吸をした。イメージしろ。体の中にあるダムの放流ゲートを、閉じるイメージ。ギギギ、と錆びついたバルブを回す。全身の毛穴という毛穴を閉じる感覚。溢れ出る光を、皮膚の内側に押し込めて、圧縮する。
「……ぐ、ぬぬぬ……!」
キツい。
満員電車でドア付近に押し込まれてる時くらいの圧迫感。あるいは、トイレを限界まで我慢している時のあの緊張感。 でも、ここで諦めたら俺の安眠はない。
漏らすな。一滴も漏らすな。俺はただの、どこにでもいる善良な一般市民だ。冒険者ランクで言えば、そうだな、Dランク。一番目立たない、「そこそこ慣れてるけど、英雄には程遠い」位置。
そこまで出力を絞れ。
シュゥゥゥ……。
と、音がした気がした。体の周囲に漂っていた暴走気味の光が、スッと消える。完全には消えていないが、湯気くらいのレベルまでは落ち着いた。これなら「ちょっと元気な人」で通るはずだ。
「ふぅ……こんなもんか?」
肩で息をする。すでに一仕事終えた気分だ。フェデが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「わふ?(るっきー、苦しい?)」
「平気だ。ちょっと、腹筋に力入れてるみたいな感覚だけどな。……これなら、化け物扱いはされないはずだ」
俺は自分の体を見下ろした。見た目はただの、ちょっと小奇麗な旅人。腰にはボロい棒(剣)。連れているのは、デカいけど愛想のいい犬。
完璧だ。これぞモブ。これぞスローライフの主人公。誰も俺を気に留めない、最高のステルス迷彩。
「よし、行くぞフェデ。目指すは人里だ。そして、柔らかいベッドと温かい食事だ!」
「わふっ!(にく!)」
フェデの返事は、どう聞いても「肉」って言っていた気がする。食欲旺盛なのはいいことだ。俺も腹が減ってきた。
この森のどこかに街があるはずだ。世界樹様が送ってくれた場所なんだから、いきなり魔境のど真ん中ってことはないだろう。
……多分。あの樹、ちょっと天然っぽかったしな。
俺は一歩を踏み出した。土の感触が、靴底を通して伝わってくる。アスファルトじゃない、生きた地面。雨の匂いじゃない、命の匂い。
「……悪くないな」
独り言が、木漏れ日の中に溶けていく。こうして、俺の異世界生活一日目が、本格的にスタートしたのだった。
この時の俺はまだ知らない。俺が死ぬ気で絞りに絞ったこの「Dランク相当の魔力」ですら、この世界の常識から見れば、計測器をぶっ壊すレベルの異常値だということを。
そして、この「ただの犬」だと思っている相棒が、国一つを更地にするレベルの災害指定猛獣(聖獣だけど)だということを。
知らぬが仏。あるいは、知らぬが社畜の悲しい性。現状分析を希望的観測で埋める癖が抜けていない。
「よし、行くぞフェデ。日が暮れる前に、少しでも距離を稼いでおきたい」
「わふっ!」
俺が踵を返して歩き出すと、フェデが一瞬だけ立ち止まり、名残惜しそうに背後の森を振り返った。
ピクリ、と翡翠色に光る耳が動く。誰もいないはずの茂みに向かって、フェデは小さく尻尾を振ったようだったが――。
「どうした? 置いてくぞー」
「……わふ(いまいくー)」
俺が呼ぶと、フェデは慌ててトテトテと追いかけてきた。俺たちは並んで歩き出す。俺が垂れ流した魔力の残り香に誘われて、森の奥から『懐かしい連中』がコソコソとついて来ていることになど、微塵も気づかないまま。




