第18話 介入と身体強化
泥の味がした。呼吸をするたびに、肺の中で鉄錆がこすれ合うような音がする。
カレン・ブラッドレイは、視界の半分が血と泥で塗りつぶされた世界で、奥歯を噛み締めた。ありえない。
Aランク昇格目前と謳われた自分が、たかだか一匹の変異種相手に、ここまで追い詰められるなんて。
「……逃げろ」
背後で、新人の少年がうわごとのように呻く。
足をやられ、泥濘に沈みかけている彼を見捨てる選択肢なんて、カレンには最初からなかった。だが、その矜持もここまでだ。愛剣は半ばからへし折れ、残っているのは果物ナイフ程度の鉄屑のみ。
対する敵は――理不尽の塊だった。
「GGGYYAAAA――ッ!!」
鼓膜を食い破るような咆哮。
目の前に聳え立つのは、紫色の腫瘍に覆われた肉の壁――変異オークだ。
魔素という劇薬を浴びて、進化の袋小路を突き破ってしまった怪物。斬っても、突いても、傷口からボコボコと泡立つように肉が盛り上がり、数秒後には元通り。再生能力?いや、あれはもっとおぞましい『増殖』だ。
怪物が、丸太スカッシュでもするように巨大な腕を振りかぶる。
あの右腕には、森の岩やら大木やらがグロテスクに融合していて、もはや「腕」というより「攻城槌」だ。あれを喰らえば、私はたぶん、挽肉になる。
逃げ場はない。足は泥に埋まって動かない。終わった。脳みそのどこか冷静な部分が、淡々と死刑宣告を下す。怪物がニタリと笑い、トドメの一撃が振り下ろされる――その瞬間だった。
「フェデ、行け!」
誰かの声。直後、視界が金色に染まった。
ドォォォォォォォォォォォンッ!!
大気を震わせる衝撃音。なのに、痛みがない。
恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景があった。光だ。黄金の光が、半透明のドームとなって私と新人を包み込んでいる。そして、その外側では――あの怪物の剛腕が、見えない壁に弾かれて宙を泳いでいた。
「グルゥァァァッ!」
獣の唸り声。
光の発生源に立っていたのは、一匹の犬。いや、犬?あれが?
グレイウッドの街で、アホ面さげて尻尾振ってたあの大型犬と同じ生き物だとは、到底思えなかった。
サイズが一回りデカい。毛並みの一本一本が光の粒子を撒き散らし、瞳には琥珀色の星が宿っている。
神々しい。あるいは、畏怖そのもの。
「……うそ、でしょ」
あの時、私のブーツに頭を擦りつけてきた愛嬌の塊が、今は魔物の王を相手に一歩も引かず、牙を剥いている。
「下がっててくれ。……掃除の時間だ」
呆然とする私の背後から、低い声が降ってきた。
振り向くと、深々とフードを被った男が立っている。ボロボロの布を巻いた剣――いや、鞘? を構えたその姿。
声はくぐもっていて聞き覚えがない。でも、その背格好には強烈な既視感があった。ルーク?
まさか。あいつはただの新人だ。足音を消すのが上手いだけの、ひ弱なDランクのはずだ。
でも、もしそうだとしたら――こいつは一体、何を隠していたんだ?
***
(……やっべ。ちょっとカッコつけすぎたか?)
フードの下で、俺は冷や汗をダラダラ流していた。
声のトーンを落として、歴戦の猛者っぽく振る舞ってみたけど、心臓は早鐘を打ってるし、膝だって本当はガクガクだ。
目の前のオーク、デカすぎだろ。
近くで見ると迫力が違う。紫色の血管が浮き出た筋肉の塊。しかもあの回復力。カレンさんがボコボコにされるのも納得の理不尽スペックだ。
「フェデ、大丈夫か?」
「わふっ(余裕!)」
頼もしい相棒が尻尾を振る。フェデの結界のおかげでカレンさんたちは無傷だ。ナイスだぞ、後で高い肉食わせてやるからな。
さて、問題はこいつの処理だ。
俺の手にあるのは、抜けない剣『アストラ』。つまり、ただの頑丈な鈍器。
これで殴り合ってもいいけど、相手は再生持ちのタフネスお化けだ。下手に長引かせると、衝撃で周囲の地形が変わっちまうかもしれない。
(フィオ、いけるか?)
俺は心の中で、緑の相棒に問いかけた。
『もちろんでございます、我が王。風は常にあなたの指先に』
どこからともなく、涼やかな声が脳内に響く。
姿は見えないが、俺の周囲の気流が変わったのがわかった。澱んだ瘴気が吹き散らされ、鋭い真空の刃が編み上げられていく。
精霊魔法。本来なら詠唱だの魔法陣だのが必要な高等技術らしいけど、俺の場合はもっと雑だ。イメージするだけ。
“あいつの足元、ちょっと滑らせてやって” それだけで、世界最高峰の風の上位精霊が、全力で俺の意図を汲み取ってくれる。過保護かよ。
ヒュンッ! 風切り音と共に、不可視の風の鎖がオークの足首に絡みついた。
「GA!?」
怪物がバランスを崩す。
一歩踏み出そうとした巨体が、見えない何かに足を引っかけられたみたいに、派手に前のめりになった。
チャンス。今、こいつの体勢は崩れてる。懐がガラ空きだ。あそこに一撃叩き込んで、再生する隙を与えずに核を砕く。
距離はおよそ十メートル。普通に走ったら間に合わない。オークが体勢を立て直すほうが早いだろう。なら、加速するしかない。
(……よし。身体強化、起動)
俺は丹田に意識を集中させた。
体の中を巡る霊素の蛇口を、ほんの少しだけひねる。
イメージは『微調整』だ。Dランク冒険者なら、まあこれくらいはできるよね、っていうレベル。全盛期の0.1%……いや、0.01%くらい? 指先で摘まむような、繊細な出力調整。
大丈夫。街の魔導具屋で買った『阻害の指輪』も嵌めてるし、これなら暴走なんてしないはず。俺は地面を蹴った。
タンッ、と軽やかに跳ぶイメージで。
――ドォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
は? 爆音がした。俺の足元で。一瞬、誰かが爆裂魔法でも撃ち込んだのかと思った。
視界がブレる。地面がない。いや、あるんだけど、俺が踏み込んだ場所を中心に、土砂が噴水みたいに噴き上がっていた。
足裏に伝わったのは、「蹴る」なんて生易しい感触じゃない。地球そのものを踏み抜いたような、絶対的な反作用。
「うおぉぉっ!?」
俺の体は、砲弾みたいに射出されていた。速すぎる。景色が流れるどころか、色が消えた。十メートルの距離なんて、瞬きする暇もなくゼロになる。
目の前に、オークの驚愕した顔面が迫る。鼻の穴の奥まで見える距離。
(ま、待て待て待て! 止まれねぇ!)
ブレーキなんて効くわけがない。
俺は自らが人間ミサイルとなって、オークの懐へ――というより、鳩尾のあたりへ突っ込んでいった。
ドゴォッ!!
衝突。もはや交通事故だ。巨体のオークが、「ぐげっ」とカエルの潰れたような声を漏らし、そのまま後方へすっ飛んでいく。
まるでボールみたいに。ズザザザザザッ! 巨体は泥水を撒き散らしながら数十メートルも滑っていき、ようやく大木にぶつかって止まった。木がメリメリと音を立ててへし折れる。
「…………」
静寂。
俺は着地……というか、地面にめり込んだ足を引き抜きながら、冷や汗を拭った。
後ろを振り返るのが怖い。でも、確認しないわけにはいかない。
恐る恐る視線を足元に向ける。
そこには、直径二メートルくらいの綺麗なクレーターが出来上がっていた。放射状にひび割れた大地。めくれ上がる土塊。まるで隕石でも落ちたかのような惨状だ。
(……嘘だろ?)
阻害の指輪、仕事しろよ!
いや、してるのか? これでも抑えに抑えて、この有様なのか? 精霊王の出力、バグりすぎだろ。前世の俺、どんな身体構造してやがったんだ。
恐る恐るカレンさんのほうを見る。彼女は、ポカンと口を開けていた。
目が点になっている。あの鋭い眼光はどこへやら、完全に思考停止している顔だ。
新人の子たちに至っては、もはや拝むような目つきで俺を見ている。
「……な、なに?」
震える声で、彼女が呟く。
「今の……身体強化? いや、爆発? あんた、足に爆薬でも仕込んでんの?」
「あ、あはは……ちょっと靴の裏が滑っちゃって」
無理がある。自分でも分かる。今の言い訳は苦しすぎる。滑って地面が陥没してたまるか。でも、認めるわけにはいかない。
「カレンさん、下がっててって言いましたよね? ここは俺とフェデでやりますから!」
俺は強引に話を切り替えて、再びオークの方へ向き直った。フードを目深にかぶり直す。顔は見せない。今の表情筋のひきつり具合を見られたら、威厳もへったくれもないからな。
『ルーク、ナイスキック! 派手だねぇ!』
炎のヴァルが茶化すような念話を送ってくる。
(うるさい! 調整ミスっただけだ!)
『しかし、まだ終わっておりませんぞ』
フィオの冷静な声。ああ、分かってる。土煙の向こうで、吹き飛ばされたオークがゆらりと立ち上がっていた。
腹には俺が激突した風穴が開いているはずなのに、もう肉が盛り上がって塞がり始めている。紫色の魔素が、傷口から蒸気のように噴き出していた。
「GURURURU……」
怒り。
純粋な殺意が膨れ上がり、周囲の大気をビリビリと震わせる。やっぱり、物理攻撃じゃ決定打にならないか。魔素の供給源を断つしかない。
つまり――『浄化』だ。
「……面倒だけど、やるしかないか」
俺はアストラを構え直した。鞘のままで、切っ先を天に向ける。今度は、身体強化じゃない。もっと根本的な、この世界の理に干渉する力を使う。
俺は小さく息を吸い込んだ。
(ラグ、準備はいいか?)
『いつでもどうぞ、主様。……あの汚い泥水、全部キレイにしちゃいましょうか』
水の精霊の、冷たくも澄んだ気配が俺の右手に宿る。さあ、掃除の時間だ。
これ以上、俺の平穏な日常(とフェデの食費)を脅かす奴は、水に流してやる。
俺はクレーターの縁に立ち、静かに霊素を練り上げ始めた。カレンさんの視線が背中に刺さるのを、必死に無視しながら。




