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第17話  枯れ沼の罠

 平和ってのは、薄いガラス細工みたいなもんだ。ちょっと小突けばパリンと割れる。

 前世の社畜時代、金曜の定時五分前に「至急案件」のメールが飛んできた時のあの絶望感。まさか異世界に来てまで、あの嫌な汗をかくことになるとは思わなかった。


 その日、俺は上機嫌だった。グレイウッドの街は快晴。懐には昨日の報酬が入っている。


「よしフェデ、今日の昼飯は奮発して『特製骨付き肉』だ。文句ないな?」

「わふっ!(異議なし!)」

 

 足元のフェデが嬉しそうに尻尾を振る。この平和な光景。これぞ俺が求めていたスローライフだ。Aランク冒険者のカレンさんに目をつけられた件は、記憶の彼方に封印しよう。そんな現実逃避を決め込んで、冒険者ギルドの扉をくぐった瞬間だった。


 空気が、凍りついていた。

 いつもの活気ある喧騒がない。  

 代わりに満ちていたのは、焦燥と沈黙。そして、誰かが怒鳴る声。


「――だから! 救援部隊はまだ出せないのかッ!」  


 カウンターで男が叫んでいる。装備はボロボロ、肩からは血が滲んでいる。受付嬢のミリアさんが、青ざめた顔で対応していた。


「お、落ち着いてください! 今、ギルド長が調整中で……!」

「調整だァ!? カレンさんの隊が孤立してるんだぞ! 見捨てる気かよ!」


 カレン。その名前が出た瞬間、俺の足がピタリと止まった。  

 カレン・ブラッドレイ。昨日、俺の隠蔽を見抜きかけた鋭い赤髪の女剣士。彼女が、孤立?あの強さが服を着て歩いているような人が?


「……おい、どうなってんだ」  


 近くにいた顔馴染みの冒険者に小声で尋ねる。


「ああ、ルークか……。実はな、西の《枯れ沼》で異常事態だ」

 

 男は声を潜めて言った。


「今朝からカレンさんの調査隊が入ってたんだが、予定時刻を過ぎても戻らねぇ。それどころか、さっき『赤色の魔導信号フレア』が上がった」

「赤色……」  


 冒険者の共通サイン。意味は――『救助求む。ただし、生存は絶望的』

「相手はなんだ? 枯れ沼なんて、カレンさんなら鼻歌交じりで散歩できる場所だろ」

「それが……逃げ帰ってきた斥候の話じゃ、『死なないオーク』が出たらしい」


 死なない、オーク。その単語を聞いた瞬間、俺の脳内で警報が鳴り響く。 (……魔素汚染による『変異種ミュータント』か) 普通の魔物じゃない。世界の循環不全が生み出した、バグみたいな存在だ。

 再生能力を持ち、理不尽に強化された怪物。DランクやCランクの冒険者が束になっても勝てない相手だ。


(……帰ろう)  

 

 俺は踵を返そうとした。  

 関わっちゃいけない。俺はただのDランクだ。英雄になるつもりはない。ここでしゃしゃり出れば、間違いなく正体がバレる。平穏な生活は終わりを告げるだろう。見なかったことにするんだ。  

 そう自分に言い聞かせて、出口へ向かおうとした。


 クゥン。


 足元で、情けない声がした。見下ろすと、フェデが座り込んでいる。その琥珀色の瞳が、じっと俺を見上げていた。  

 尻尾が下がっている。耳が伏せられている。そして、鼻先を西の方角へ向けて、小さく唸った。


『るっきー。たすけないの?』

 

 ……ずるいぞ、その目は。雨の中で捨てられた子犬みたいな目をするな。お前は最強の霊獣だろうが。


『主よ。……風が泣いております』  


 不意に、頭の中に凛とした声が響く。風の精霊フィオだ。


『西の空気が澱んでいます。このままでは、あの土地そのものが腐り落ちるかと』

『水も汚れてるですね。……あの沼、地下水脈と繋がってるんですよ?』

 

 水のラグまで、脅すようなことを言ってくる。地下水脈。それが汚染されたら、この街の井戸水も、俺が楽しみにしている宿のシチューも全滅だ。

 

 ……あー、もう。逃げ道なしかよ。俺の平穏な食生活がかかってるとなれば、話は別だ。

 俺はガシガシと頭をかきむしり、くるりと向き直った。  

 カウンターへ歩み寄る。ミリアさんは涙目で通信機にかじりついていた。


「あ、あの、ルークさん? 今は緊急事態で……」

「いやー、実はですね」

 

 俺はできるだけ能天気な、頭の悪そうな笑顔を作った。


「うちのフェデが、散歩に行きたいって聞かないんですよ」

「は?」  


 ミリアさんがキョトンとする。


「犬って、トイレの場所にこだわりがあるでしょう? こいつ、どうしても西の森の奥じゃないと出ないって言うんです」

「に、西って……枯れ沼の方角ですよ!? 今は立ち入り禁止区域で……!」

「大丈夫大丈夫、危なそうならすぐ逃げますから。俺、逃げ足だけは自信あるんで」

「ちょ、待ってください! 自殺行為です!」  


 制止するミリアさんの声を背中で受け流し、俺はフェデのリードを引いた。


「行くぞ、フェデ。……『散歩』だ」

「わふっ!(了解!)」  相棒の声が、心なしか弾んでいた。


 ***


 街を出て、人目がなくなった瞬間、俺は走った。  

 散歩? 冗談じゃない。全力疾走だ。  

 身体強化ブーストを足に乗せ、風の精霊の加護を借りて加速する。景色が緑色の帯になって後方へすっ飛んでいく。

 

 森の奥へ進むにつれ、空気が変わった。重い。  

 肺に吸い込む空気が、ザラザラとした砂のように喉に引っかかる。  

 腐った卵と鉄錆を煮込んだような悪臭。 (……濃いな)  精霊視を発動しなくても分かる。大気中の霊素レイソが濁りきっている。  

 木々の葉は黒く変色し、地面からはどす黒いもやが立ち上っていた。


『ルーク、見えましたぜ』  


 肩の上で実体化した炎のヴァルが、鼻を鳴らす。


『へっ、ひでぇ有様だ。あそこだけ世界が腐ってやがる』


 森が開けた。そこは、かつて《枯れ沼》と呼ばれていた場所。だが今の光景は、沼というより地獄の釜の底だった。  

 水はコールタールのように黒く変質し、ボコボコと不気味な泡を吐き出している。立ち込める紫色の霧の向こうで、絶望的な剣戟の音が響いていた。


「――下がれッ! 陣形を崩すな!」


 カレンの声だ。だが、その声にはいつもの余裕がない。追い詰められた、悲鳴に近い叫び。  

 俺は茂みを掻き分け、戦場を見下ろした。そして、息を呑んだ。


「……なんだよ、あれ」

 

 そこにいたのは、オークだった。  

 いや、あれをオークと呼んでいいのか?  

 通常の三倍はある巨体。見上げるような肉の壁だ。  

 皮膚は紫色に腫れ上がり、全身の血管がミミズのように脈打っている。右腕だけが異様に肥大化し、そこには折れた大木や岩が無理やり融合していた。  

 魔素を過剰摂取し、細胞が暴走した成れの果て。


「GGGYYAAAAAAAOOOOッ!!」


 咆哮一発。  

 ただの声が衝撃波となって、カレンたちを襲う。


「ぐぅっ……!」  


 カレンが吹き飛ばされ、泥水の中に叩きつけられた。  

 彼女の仲間たちは既に倒れている。動けるのはカレン一人。だが、彼女の愛剣も半ばから砕け、自慢の革鎧は裂けて血に濡れていた。  


 変異オークが、ニチャリと歪んだ笑みを浮かべる。知性がある。嬲り殺しを楽しむような、悪意ある知性が。  

 丸太のような腕が振り上げられた。カレンは泥に足を取られ、動けない。彼女の瞳に、死の色が浮かぶのが見えた。


(……間に合わない)


 誰もがそう思った瞬間。俺の口が、勝手に動いていた。


「フェデ、行け!」


 俺の命令より速く、金色の閃光が駆け抜けた。

 

 ドォォォォォン!!  


 鈍い衝突音。

 カレンをひき潰すはずだった剛腕が、空中で弾かれた。


「……え?」  

 カレンが呆然と目を見開く。  

 彼女の前に立ちはだかったのは、黄金の毛並みを輝かせ、全身に障壁バリアを纏った巨大な犬――いや、神々しいまでの霊獣。

 

 フェデが牙を剥き、オークに向かって低く唸る。


「グルゥァァァッ!」

 

 オークがよろめき、後ずさる。  

 その隙に、俺も戦場のど真ん中へ滑り込んだ。もちろん、顔はフードで隠して。  

 手の中のアストラ――まだ鞘に入ったままの星霊剣――が、微かに共鳴して震える。


「……生きてるか?」

 

 俺は声を低く変えて、カレンに問いかけた。


「あんたたち……まさか」  


 カレンが震える声で何か言いかけるが、俺は視線を外さない。目の前の化け物が、折れかけた腕をボコボコと波打たせ、再生を始めているのが見えたからだ。  

 魔素の供給を断たない限り、こいつは不死身だ。俺はため息をついた。犬の散歩にしては、随分とヘビーな運動になりそうだ。


「下がっててくれ。……掃除の時間だ」


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