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第13話 忍び寄る「異常」の影

 鉛だ。血管に冷えた鉛でも流し込まれたみたいに、左手が重い。中指に食い込む、鉄屑色の『阻害の指輪ジャマー・リング』。昨日、あの食えない魔導具屋グリッドからふんだくった劇薬だ。  

 左手を底なしの泥沼に突っ込んでいるような気だるさと抵抗感。だが、俺はこの不快な「不自由」を愛していた。


「……よし。点いた」


 指先から、ポッ、と小さな朱色が生まれる。蝋燭の灯火のような、儚い火。以前の俺――せきを切った大河のごとき魔力を垂れ流していた精霊王(仮)――ならば、意識した瞬間に周囲一帯を紅蓮の地獄に変えていただろう。


 それがどうだ。この、あどけない火を見ろ。文明だ。これこそが、人間らしい生活の灯りってやつだ。俺は感動に震えつつ枯れ枝へ火を移した。パチパチ、と爆ぜる音。煙の匂い。求めていたのは、世界を救う聖なる炎なんかじゃない。湯を沸かし、肉を焼くための、生活サイズの火なんだよ。


「わふぅ……(焼けた?)」


 足元で、黄金色の毛玉――フェデリオが鼻を鳴らす。またの名を、俺の財布を食い尽くす黄金の胃袋。  尻尾を振って土を舞い上げる相棒に、俺は苦笑する。


「待て。生焼けで食うと腹を壊すぞ」  


 串に刺した肉を回しながら、俺は森の澄んだ空気を吸い込んだ。    

 街外れの森。Dランク冒険者としての生活は順調だった。俺は「魔力制御が下手な、運のいい新入り」という立ち位置を確立しつつある。

 

 朝、鳥の声で起き、フェデと散歩し、依頼をこなし、昼飯を食う。敵は熊かゴブリンくらい。平和だ。涙が滲むほどに。


 前世で、死んだ目で終わりのない労働に魂を削っていた日々が嘘のようだ。ああ、この森の土に還るまで、この怠惰な日々を続けたい。


「ケッ、しっけてやがる」


 不満げな悪態と共に、炎が赤い子狐の形をとる。炎の上位精霊ヴァルだ。


「なんだよルーク。こんな火遊びで満足か? 俺なら、森ごと巨大な篝火かがりびにしてやれるぜ」

「やめろ。放火魔は出入り禁止だ」

「ちぇっ。……指輪のせいで窮屈なんだよ」  


 ヴァルが火の粉を撒き散らす。俺から漏れ出る余剰霊素を餌とする彼らも、今は「腹八分目」らしい。悪いとは思うが、外すわけにはいかない。本気を出せば、即座に騎士団に見つかり檻の中だ。


「わかってますよぅ。……でも、ルークさま。このお水、少し味が変です」  


 水筒から水色の顔が覗く。水の上位精霊ラグだ。


「味が変?」

「はい。不味い……というより、苦いというか。空気に混じる霊素の味が、です」  


 ラグが不安げに眉を寄せた、その時だった。


「――おい、聞いたかよ」


 風に乗って、人の声がした。俺は反射的に精霊たちを消し、フェデに「伏せ」を命じる。  

 茂みの向こう。冒険者たちの顔色は悪い。まるで幽霊でも見たかのように青ざめ、街へ急いでいる。


「ああ。……間違いねぇ。『黒いもや』を見た」

「西の森の奥か? 影みたいなのが、ウネウネ動いて……近づいただけで、力が抜ける感じがした」

「……やめとけ。関わるとろくな事にならねぇ。報告だけして、俺たちゃ東へ逃げるぞ」  


 足音が遠ざかっていく。黒い靄。影。聞きたくない単語番付の第一位だ。俺は焼けた肉をフェデに放り、努めて明るく呟いた。


「……ま、よくある怪談話だろ」  


 そう。俺はしがないDランク。薬草を摘み、迷子の猫を探すのがお似合いだ。未知の怪奇現象なんてものは、稼ぎのいいAランク様とか、騎士団様の領分だ。俺が首を突っ込む義理はない。そう自分に言い聞かせて、腰を上げようとした時。


「……我が王」


 ひやり、とした風が首筋を撫でた。俺の肩に、いつの間にか緑色の小鳥が止まっている。風の上位精霊フィオだ。  

 

 普段は理屈っぽい彼の声色が、妙に硬い。いつもなら俺の髪で遊ぶくせに、今はじっと西の空を見つめている。その瞳には、老学者のような冷徹な知性が宿っていた。


「どうした、フィオ」

「……風が、泣いております」  


 詩的な表現だな、と茶化そうとして、やめた。フィオの目は笑っていなかったからだ。


「西から流れてくる風に、妙な『重み』が混じっております。先ほどの人間たちが言っていた『黒い靄』。あれはただの自然現象ではありません」  


 フィオが俺の耳元で、囁く。 「霊素の循環が、壊死えししかけています」


 ドクン、と心臓が跳ねた。壊死。循環不全。それは、俺をこの世界に呼びつけた巨大樹――世界樹が訴えていた症状そのものじゃないか。  


 俺は無意識に、左手の指輪を握りしめた。指輪の奥で、抑え込まれた霊素が疼いている。  

 魔素。世界を蝕む毒。それが、この平和なグレイウッドのすぐ近くまで滲み出してきているというのか。


「……おいおい、勘弁してくれよ」  


 俺は乾いた笑い声を漏らした。やっと手に入れたんだ。定時で上がれる仕事。美味い飯。頼れる相棒。  スローライフってやつを、これから骨の髄まで満喫する予定なんだ。


「騎士団がいるだろ。世界の危機なんて大舞台は、勇者とか騎士団長とか、そういう主役たちにお任せすればいい。俺みたいな『元・使い潰された一般人(仮)』が出る幕じゃない」


「帰るぞ、フェデ。今日はもう店じまいだ」  


 俺は焚き火の跡を消し、逃げるように森を後にした。フェデが一度だけ、西の空を振り返って、低く唸った気がした。


 街への帰り道。背中に受ける夕陽が、毒々しいほど赤く見えたのは、きっと気のせいだ。気のせいであってくれと、俺は祈るように足を速めた。  


 だが、胸の奥にある《精霊王の核》は、警鐘のように嫌なリズムを刻み続けていた。 平穏という名の薄氷に、ピシリと最初の亀裂が入る音が、確かに聞こえた気がした。



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