第105話 目撃者オスカー
呼吸するの忘れてた。いや、息の吸い方なんて、どうでもよかったのかもしれない。
夜の森ってのは、なんでこうも重たいんだろうな。粘つく闇が肌にまとわりついて、マジで息苦しい気がする。
私――ガルドリア王国第二王子、オスカー・ヴァルド・ガルドリアンは、木の幹に背中を預けて、ただ呆然と「それ」を見ていた。
月光泉
エルフたちが聖域だと崇めるその場所は、今、ありえないくらいの光に包まれてる。私には「視え」ない。ルークみたいに、霊素の流れだとか、精霊の気配だとか、そういう便利なものは何ひとつ視えちゃいない。
だけど分かる。あれは、拒絶の輝きだ。私以外の人間で作られた、完璧な世界の輝きだ。
泉のほとり。
寄り添う二つの影。
ルークと、エリシア。
世界を救う勇者と、得体の知れない力を持つ騎士訓練生。
二人が重なるように座って、お互いの手を握りしめている。その中心から、月光なんか目じゃないくらいの光が溢れ出して、二人を繭みたいに包み込んでいた。
きれいだった。吐き気がするほど、残酷にきれいだった。
私はずっと、彼女を見てきた。兄上に勝つために。王になるために。
……いや、そんな建前はどうでもいい。ただ、あの凛とした背中に並び立ちたかった。どんな戦場でも弱音ひとつ吐かず、完璧な勇者として振る舞うエリシア。その孤高の強さに、私は自分を重ねていたんだと思う。私もまた、完璧な王族であることを強いられてきたから。
だから信じてた。彼女の隣に立てるのは、同じ「痛み」と「覚悟」を知る者だけだと。泥水をすすり、血を流し、盾となって彼女を守り抜く私こそが、その資格を持つのだと。
――違った。全然、違ったじゃないか。
「……はは」
乾いた音が、喉の奥から勝手に漏れた。見ろよ、あの顔。遠くて表情までは詳しく見えないけど、空気で分かる。
エリシアは今、戦場では絶対に見せない顔をしてる。鎧を脱いで、剣を置いて、ただの無防備な少女になって、ルークの肩に頭を預けてる。
私には、一度だってそんな隙を見せたことはなかった。いつだって「オスカー殿下」と、壁を作って礼儀正しく振る舞うだけだったのに。
「そうか……。そうだよな」
ルークには、見せるのか。今日会ったばかりの、どこの馬の骨とも知れない、ただ運よく力を持ってるだけの男には。
私が何年もかけて積み上げてきた信頼なんて、あいつの「無自覚な優しさ」の前じゃ、塵みたいなもんなんだ。
彼女が見ているのは、私じゃない。いつだって、才能という名の翼を持った奴らだけが、空を飛ぶ。 私みたいな、地べたを這いずり回る「盾」のことなんて、最初から視界に入っていなかったんだ。
握りしめた拳に爪が食い込む。痛い。けど、胸の奥が焼けるような感覚に比べれば、こんな痛みはどうでもいい。熱いな、身体中をドロドロした何かが這いずり回ってる気がする。
これが嫉妬か? いや、もっと違う。もっと黒くて、粘っこくて、どうしようもない感情。殺意に近い何かが、腹の底で渦を巻いてる。
――あいつさえいなければ。ルークさえいなければ、エリシアは私を見てくれたのか?
いや、違うな。あいつがいるから、私の「無価値」が浮き彫りになるんだ。太陽の隣に蝋燭を置いたって、誰も火がついていることに気づきやしない。
私は、消えかかった蝋燭だ。なら、太陽を消すしかないだろう?
「……戻るぞ、グラン」
私は腰の剣に宿る炎の精霊に呼びかけた。けれど、いつもならすぐに返ってくるはずの厳格な声がない。炎の精霊すら、あの光に圧倒されて沈黙しているのか。それとも、私の心の醜さに呆れているのか。
どっちでもいい。私は背を向けた。もう二度と、あんな光景は見たくない。
光が強ければ強いほど、影は濃くなる。ならば私はその影の中で息を潜めてやるよ。
***
「……ふぅ。なんか、すごかったな」
帰り道の森の中。俺、ルークは大きく息を吐き出した。エリシアを実家まで送り届けて、ひとりで野営地に戻るところだ。
いや、ひとりじゃないか。肩やら頭やらには、いつものように騒がしい連中が乗っかってる。
『すごかった、じゃねーよ! マジで肝冷やしたぞ旦那ぁ!』
私の髪の毛を引っ張りながら、雷のアルクが文句を言ってくる。痛いって。静電気バチバチさせるなってば。
『あんな出力でリンクしたら、エルフの姉ちゃんの魂が焼き切れちまうとこだったじゃんか! 調整ヘタクソかよ!』
「悪かったよ……。なんか勝手に流れちゃったんだよ」
『勝手に、で世界樹の理に触れられちゃたまったもんじゃありませんわ』
お団子みたいに丸まった氷のフロスが、呆れたようにため息をつく。その冷気が耳元に当たってひんやりする。
『しかし……懐かしい輝きでしたな。あの方の瞳に浮かんだ星図、あれはまさしく……』
風のフィオが意味深なことを言いかけて、口をつぐんだ。緑色の羽根を震わせて、どこか遠い昔を見ているような目だ。
なんだよ、気になる言い方しやがって。でもまあ、エリシアが少しでも元気になったんなら、それでいいか。あんな悲しそうな顔、見てて辛かったしな。俺は自分の手をグーパーさせてみる。まだ少し、熱が残ってる気がする。
あの時、確かに何かが繋がった感覚があった。勇者とか精霊王とか、そういう肩書きを全部取っ払った、もっと深いところでの共鳴みたいな。
……なんて、自意識過剰か。
『おやかた、ええ雰囲気のところ悪いのじゃが……』
地面からのっそりと顔を出した土のオルドが、低い声で唸る。
『ちと、空気が澱んでおるぞ。誰かに見られていたかもしれん』
「え? 誰だよ、こんな夜中に」
『ルークさま。……特定はできませんが、あまり良い感情ではありませんね』
水のラグが、私の頬にピタリと張り付いて囁く。
『水面が波立つように、心が乱れた気配が残っています。……嫉妬、あるいはもっと鋭い何か』
「嫉妬ぉ? まさか」
俺は苦笑して、首を振った。こんな森の奥まで来る物好きなんていないだろ。きっと、夜行性の魔獣か何かの気配を勘違いしたんだ。
俺はそう自分に言い聞かせて、足を速めた。明日の朝食のベーコンが無事であることを祈りながら。
『……ルーク』
ふいに、炎のヴァルが低い声で私を呼んだ。いつもなら「腹減った」だの「燃やすぞ」いつもはうるさい奴が、妙に真面目なトーンだ。
「ん? どうしたヴァル」
『……いや。なんでもねぇ』
ヴァルは私の肩の上で、尻尾をゆらりと揺らしただけだった。その視線が、ちらりと森の暗がり――俺たちが来た方向へ向けられた気がしたけど、そこにはただ、深い夜の闇が広がってるだけだ。
***
野営地に戻ったオスカーは、無言のまま自分のテントには入らず、焚き火の跡が残る広場の隅に腰を下ろした。
騎士たちが寝静まった夜。聞こえるのは虫の声と風の音だけ。でも彼の耳には、さっきの光景の残響が、耳鳴りみたいにこびりついて離れない。
(私は……何のためにここに来たんだ?)
エルフたちに頭を下げ、屈辱に耐え、泥水をすするような思いでここまで来た。全部、ガルドリアのため。そして何より、エリシアのためだったはずだ。
なのに、手に入れたものは何だ? 憐れみか? 無視か? それとも、あの二人の「輝かしい世界」を引き立てるための、惨めな背景役としての立ち位置か?
「……ふざけるな」
そうだ。私は王族だ。誰かの引き立て役で終わっていいはずがない。力が欲しい。
あいつを――ルークをねじ伏せ、エリシアを振り向かせ、全てをひれ伏させるだけの、圧倒的な力が。 たとえそれが、どんなにどす黒い炎だったとしても。
その瞬間だった。足元の影が、夜の闇よりも濃く、ねっとりと揺らめいた気がした。
『――不公平だとは、思わぬか?』
耳元で、風もないのに声がした。いや、耳じゃない。脳の奥に直接こびりつくような、冷たいノイズ。 王都を出る前の夜、私が路地裏で斬り捨てた魔王軍の間者。奴が死に際に浮かべていた嘲笑が、鮮明に蘇る。
あの時、斬ったはずの奴の体は黒い霧になって、私の影の中に吸い込まれて消えた。
幻聴だ。分かってる。疲れてるんだ。そうでなきゃ、こんな不吉な声が聞こえるはずがない。
『お前は二番手だ。永遠にな』
『光が憎いなら、影を愛せ。闇だけが、お前を王にする――』
「黙れ……ッ!」
オスカーは自分のこめかみを押さえて低く唸った。否定しなきゃいけない。
こんな妄言、王族としての誇りで跳ね除けなきゃいけない。
なのに。今の私には、その毒みたいな囁きが、ひどく甘い蜜のように感じられてしまう。影が、私の足首に絡みついているような錯覚。
それは恐怖じゃなかった。むしろ、冷え切った心を温めてくれるような、おぞましい安らぎ。
(私を見ろ……。私だけを、見ていればよかったんだ……)
暗い情念が、薪にくべられた油みたいに燃え上がる。夜明けはまだ遠い。森の深淵よりも深い闇が、若き王子の心を、内側から静かに、けれど確実に蝕み始めていた。




